迷子をさがせ
松本莉奈は、今年4歳になる息子の康祐を連れて、車で自宅から約3キロは離れたスーパーへと買い物に出かけた。
今夜の夕飯は何のおかずにしよう、お父さんの帰りは何時になるのかしら、明日は康祐が歯医者に行かなきゃならないし、またぐずり出すわね本当にもう手のかかる……と、先のことを色々と考えながら莉奈は白の軽自動車を運転し、脇の助手席のチャイルドシートで眠たげに大人しくしている康祐を横目で覗いていた。
交通量の多い2車線の道路を走り、何度も交差点で信号待ちをしながら車は目的地である1階建てのこじんまりとしたスーパー、『アマリ』に着く。オレンジ色の下地に白のゴシック体で描かれた看板の店の名前は、太陽の光に晒されて薄くなり見えにくい。店の場所も高めの建物と建物の間の入り奥まった所にあり、来慣れないとうっかり通過してしまいそうである。
駐車スペースは、車が20台は停まれる程度だった。莉奈は、出入口から進み突き当たって右の所に車を停めて、ふう、とお疲れの息を漏らしていた。
まだ昼の3時前。疲れるにはまだ早いぞ、と莉奈は自分を励ました。
車から降りて、まずはチャイルドシートに括りつけられた我が息子の解放に向かう。助手席側にまわってドアを開けると、康祐の肩を叩いた。「康祐、起きてるの?」
「ん……起きてゆ」
まだ発音がはっきりとはしていない。しかも寝ぼけていたようで、目をこすって自分でシートのロックを外しにかかった。
それを手伝いながら康祐を車から降ろすと、莉奈は車の鍵を閉め康祐と手を繋いで建物のなかへと向かって行ったのだった。
「ご本読むー」
「はいはい、いつもみたいに大人しく待っているのよ。知らない人についてっちゃ駄目よ」
歩きながら、2人はそんな会話をしていた。康祐が本を読む、とは。スーパーのなかにある本屋で立ち読みをすることだった。本屋の店員からしたら売り物の本を広げて読むってそれってどうなの、しかも子どもが、汚したらどうすると言われそうだが、『アマリ』の店員は皆、心穏やかである。従って、黙認しているようだった。康祐は以前、絵本を立ち読みしていて足が疲れたので床に座って読書を続行していると。通りすがりの店員であるおばちゃんに「立って読みなさい」とひと言声をかけられていた。康祐は騒いだり暴れたりなどは決してしない、手のかからない子どもであるのがとても幸いしているらしい。
さて莉奈は康祐を本屋に見送りながら後。買い物カートを引っ張り出しながら、夕飯のおかずを求めて狭い通路へと入っていった。モヤシが19円。迷うことなく手にとった。
ええと、今日のおかずは野菜炒めと……。
もはや材料と夕飯メニューは適当選択だと決めていた莉奈は、「私馬鹿よね〜♪」と自虐の歌を歌いながら買い物カートを押していった。莉奈というこの母親、親の影響か結構、趣味は渋く時代劇を多く観る方だった。演歌もよく口ずさんでいる。
食卓には味噌汁が必須で、無いと旦那に「今日の味噌汁は?」と言われてしまう。莉奈は忘れずに絹豆腐とネギ、特価のちくわを買い物カゴに入れた。ちくわは、おつまみである。
売り場を一周し、レジへと並んで会計を済ませた後。エコバッグに食材を詰め込んだ莉奈は、本屋にいるはずと思っていた康祐を迎えに行った。だがしかしである。予想外のことが起きていた。
康祐の姿が見えないのだ。
「あれ……? 康祐?」
莉奈は変だな、と首を傾げた。いつもは絵本コーナーの、『世界じゃ名作かもしれない劇場シリーズ』の本が収納されている前にいるというのに。そこには誰もいなかったのだった。
莉奈は本屋の店員に聞いてはみたが、「さっきまでいたと思ってたんですけど、いついなくなったのかしら。気がつかなかったわねえ」としか返ってはこなかった。
莉奈はバッグを持ったまま、辺りを探す。
(全くもお……どこ行っちゃったのよ。重いなぁあ)
すぐに見つかるだろうと思い、莉奈は本屋を出た後に売り場へと戻り、何周でも通路を歩きまわった。他にも店内にある専門店の薬屋や、カメラ屋、化粧品売り場。あちこちを転々と歩き店員に声をかけてはみるが、皆、首を横に振って心当たりがないと表しているだけだった。
これは……。
本当に、迷子である。
次第に、莉奈はパニックになってきていた。
よからぬことをつい考えてしまう。こんなたいして広くもないスーパーで、子ども一匹、見つからないなんて。どうして? ……まさか。莉奈は、冷や汗をかき始めていた。
誘拐。
人さらい、連れ去り、拉致、神隠し、召喚。
あらゆる可能性を考えていた。要するに康祐は何者かの手によって、何処かへと連れて行かれたのではないかと……顔を青ざめた莉奈は、そばに立てかけてあった宣伝用の等身大人形『ぱっくまん』に寄りすがってしまった。『ぱっくまん』の悪びれのない愉快な冒険顔は、莉奈に安らぎをひとつも与えてはくれそうにない。近くで今川焼きを焼く匂いがしているが、今の莉奈にはどうでもよかった。
「大丈夫ですか?」
莉奈の頭上から声が降りかかったが、無理もない。莉奈は、すがっていた人形からずるずると床へと体が滑り落ち、両手両膝を地面につけて四つん這いになって周囲に『絶望』を堂々と『表現』していたのだから。気分は悲劇のヒロインだったのだろう、明らかに変人に見えていた。
莉奈の異変に気がついた通行人が声をかけたわけだが、まだ若い、20代くらいの男で身長は高かった。明るい水色のチェック柄で長袖のシャツを着た、割とイケ面の若者は、「奥さん、どうかしましたか」と次いで声をかけている。
トキメキを感じる余裕など微塵もない莉奈は、「子どもが何処にも……」と訴えた。
男の行動力のおかげですぐ、店内に迷子を伝えるアナウンスが流れていった。
数分待ってはみたが、長く時の経過を感じるものの、一向に康祐が見つかる気配がない。
店内のスタッフ用バックルームの一室で、莉奈は泣きそうになっていた。
「まあ、すぐにきっと見つかりますから……」
店員が2人いたうち、ひとりは莉奈に励ましのエールを送っていた。しかし隠れて、
「でも、もしこのまま見つからないと警察に……」
「シッ!」
という会話がなされていた。莉奈は聴覚が鋭いので聞こえてしまっていたが無視をしていた。聞きたくなかっただけだろう。暗い表情は消えることはなく、俯いて黙って無反応に時間を過ごしていった。
店員が場を離れていき、莉奈が再びひとりになったとき。莉奈は足元に雑に置かれた、今晩の食事となるはずだった料理の材料が入ったバッグを気にし始めた。確認はしていないが、肉や魚、アイスなど、時間が経ってしまってもう駄目になっているのかもしれない。
莉奈は、はあ……とため息をつき、バッグを手に取ってイスから立ち上がった。
バックルームを出ると、先ほどの店員とすれ違い「奥さん、何処へ?」と聞かれたので「ちょっと車に置きに……」とバッグを指していた。
「お子さん、すぐ見つかりますよ」
軽く微笑みながらその店員は、莉奈を励ましてくれていた。「ええ……」
莉奈は頭のなかがぼうっと虚ろなままで、足取り重く駐車場へと向かって行った。
事態はすぐに収束を迎える。
何と、康祐は駐車場の、莉奈の車のそばで莉奈の帰りをしゃがんで待っていた。
「こ、康祐?」
「ままー」
康祐は莉奈を見つけると素早く立ち上がって、数歩と歩き出していた。莉奈も慌てて康祐の所へと小走りで近づいていった。
行方が不明だった息子を抱き受け止め、脱力しそうな足で踏ん張っている。
「ずっとここにいたの!?」
思わず大きな声を出す莉奈に、康祐はうん、と素直に答えていた。
「だってままは、お車に乗って帰るもの」
それを聞いた莉奈は驚いていた。同時に、我が息子、ただ者ではないと親馬鹿を発揮した。
ずっと店のなかばかりを捜し歩いていた自分こそ、迷子だったのではないかと頭を抱える。
「まま、早く帰ろうよー」
莉奈の思うことなど気にする風でもなく、将来有望なお子様・康祐は、自分のお腹から「クー」という音をさせていた。時刻は夜にさしかかる6時半頃。日も落ちかけて、夕日がそろそろサヨナラするぜと告げている。
「もうちょっと待ってね。……店員さんにお礼を言ってこなくちゃ……」
莉奈は、康祐を抱っこして店内へと戻っていった。エコバッグのなかの食材は鮮度が落ち、車の後部座席で……秘密の状態になっている。
無事に事なきを得た莉奈と康祐、母子は、家に帰って父の帰りを待っていた。康祐は録画した『特別指令! あいストレンジャー☆』を大興奮しながら観ていた。アイス好きの外国人(米国出身・日本育ち)が愛と正義でクマと戦っていた。
莉奈がエコバッグをひっくり返し、レシートの確認をしながら「あれえ?」と頭を捻っている。買ったはずのちくわが見当たらなかったからだった。
「おかしいなぁ……確かに買ったのに」
莉奈は肩を竦めた。きっと置き忘れてきたんだわ、と今日という日を振り返って嘆いている。本日ちくわ大特価、5本入りで78円。
もし高級ちくわ1万円だったなら、莉奈は店に問い合わせていただろう。
できれば、ちくわを迎えに行ってほしかった。
《END》
自分は迎えに行きます。
ご読了、ありがとうございました。