ある日突然、人形になってしまった女の子の夢物語
こんな話をしても、だれも信じてくれないかもしれないけれども、この世でただひとり、あなたにだけは信じてほしいのです。
わたしは中学二年生の女の子です。おじいさんは、人形づくりをしています。そのおじいさんが、十才の誕生日にプレゼントしてくれたモモ色のドレスをきたかわいいぬいぐるみの女の子、トキ。わたしの宝物です。
ところが、ある夜のこと。その人形のトキがわたしになって、いえいえ、ちがいます。わたしが人形のトキになってふしぎな冒険をした物語・・。信じてくれるあなたにだけ、こっそりと話しましょう。
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だれもがそれとは気づいていないある夜のことです。・・魔法使いの笛の音が夜空にたかくこだましていました。
ふと目をさまし、オモチャ箱から出てきたトキは、部屋の片すみでベートーベンのピアノ・ソナタ 『月光』をきいていました。ところが、心臓がワラになってしまったようにすこしも感動がありません。
おおきなあくびをし、あふれた涙をこすりました。なぜだろう。へんだなあ。きょうはなにかがへんなのです。
鏡をのぞいたら、そこには「わたし」がいました。わたしがぬいぐるみの人形トキになっていたのです。
「あれれれれェ~!」
わたしはトキが大好きだったので、べつにイヤではありませんでしたが、でもこまった。人間が人形になって、これからどうすればいいのでしょう!
かんがえてもわからないので、わたしは人形になっても、わたしはわたしなのだから、いつものわたしのようにしていようと思いました。でも、だんだん心が物になってしまうような気がしてこわかった。
ほらほら、また魔法使いの笛の音がきこえてきました。むねの赤いリボンがふるえます。そしてわたしは、すっかり人形のトキになってしまったのです。
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部屋の片すみで・・。
いやな笛の音をわすれるためにトキはオカリナをとりだすと、それをかろやかにふきました。その音はブナ林をながれる谷川のアユのように空中でピチピチととびはねます。
トキはまぶたをとじて想像しました。きれいな水にすむメダカと日の光、せせらぎとそよ風と花のほほえみ、菜の花ばたけのヒバリに白い雲、フキの葉っぱの水玉にうつるすんだ青空・・そう、そう。夢やチョコレートやカレイドスコープも。そうよ。そうよ。やぶれたアルバムだって、それを野原にひろげれば歌を歌いだすかもしれない。
二本のうでではつかみきれない自然のめぐみ・・トキは、百本のうでがほしいと思いました。そしたら、ゆたかな自然をいっぱいに抱きしめられるのに!
トキは空想のなかで血わき肉おどる『いのちのリズム』を感じましたが、でもいまは夜でした。窓のそとには、まっくらな闇がひろがっているばかりです。
めざめたようにまぶたをひらき、カーテンのすきまから庭をのぞくと、黄色い月見草がさいているのが見えました。その花がふと百千の星の光をチララチララと反射したように思ったので、ふと空を見あげると・・!
突然、心臓がドッキ、ドキ!
どうしてかって、見てください! そこには、三角形のお月さまが、夜空にどっかりと腰をすえていたのです。
トキは、ピアノソナタ 「月光」に感動しなかったわけがわかりました。あれです。あのお月さまです。あんな月が夜空を照らしていたのでは、ロマンチックなムードもぶちこわしです。トキはいたずら者にキスされたときのようにはにかんで、しまいには笑いだしてしまいました。
「やい、お月さま。
おまえは、ほんとうにお月さまか?」
トキの挑戦的なたいどをみて、月はおこったように三角のほほをぷう~ッとふくらませました。でも、
「アハ、アハ、アハハハハ!」
なんてバカなお月さまでしょう。二つの角をいっしょにふくらませたものですから、てっぺんのひとつはどう見てもとんがった栗の実のようにしか見えません。まるで逆さまのハートです。トキはすっかり陽気になってにらめっこをくりかえしました。お月さまは、三辺をへこませたり、のばしたり、ナミうたせたり、ちぢめたり、まったくふつうじゃありません。そのためにトキの日常の感覚は、すっかり三角月色に変わってしまったのです。
そこでは、不思議な事件がつぎつぎとまきおこりました。本がパラパラとめくれてそこからひくい声がきこえてきたり、コーヒーカップがひょいと立ちあがってトコトコトコとかけだしたり、時計の針が三角になってどうじに三つの時間をさしてしまったり、いろいろとこまったことがおきてきました。
花びんの薔薇がクスクスと笑いだしたかと思うと、柱がドンドンと足ぶみをし、熊のヌイグルミとフランス人形がいっしょにフラダンスをはじめました。天井は鳥のように屋根をはばたかせて星空へとんでいき、壁はドシンドシンとたおれてすべり台となり、あたりはふしぎな森の三角月夜となったのです。
ホーホーとないているのは赤い目のフクロウでしょうか。みずうみや川のながれはとおく星をちりばめたように光っています。くらい木立は、まるでおとぎの国にまぎれこんだようにうっそうとしげっています。こんなところなら、魔法使いがいてもお菓子の家があってもすこしもおかしくはありません。
トキは胸をときめかせながら、お父さんに買ってもらったばかりの赤い靴をはいて立ちあがりました。するとベッドやつくえは馬のように足をうごかして森へとはしりだしました。本だなは雲のように空にうき、川へとおりてささ舟のようにながれていきました。トキはそのうえにのって冒険にでかけなかったのをざんねんに思いましたが、ふり落とされてこぶをつくるよりはまだましだったかもしれません。
部屋はすっかりこわされて、服も、柱も、暗い森のなかへとにげていきました。床だけは「わしゃ、ここが好きだ」と言いはってそこに居すわっていましたが、床だけの部屋なんて味気ないものです。
トキは壁のすべり台をつるりとすべってそとにでました。空には蛍光灯が三角月のとなりでまあるくかがやいていました。まるで世界が自分の部屋になったような気分です。となりの月は、迷惑そうに目をほそめていました。
庭には、小人の兵隊たちが列をくんで入場です。
「みぎむけみぎ!
よおし、突撃!」
兵隊たちは、三角にトキをかこみました。
「きみは、われわれの捕虜になったのだあ」
隊長がさけびました。
「あら、わたしはなにも悪いことはしていないわよ」
「いま、わしに口ごたえをした。これは重い罪じゃぞ。それだけでも、われわれの捕虜になる義務がある」
なんてめちゃくちゃな理屈でしょう。トキは腹をたてました。
兵隊たちの帽子には、三角の黄色いマークがお月さまのようにピカピカと光っています。
「あなたたちは、あの月からきた三角星人なのね」
隊長はおどろいてほほをまっ赤にふくらましました。それがにらめっこのお月さまそっくりだったので、トキはくすくすと笑ってしまいました。
「けしからん。われわれの正体をしっているとは。
さては、ニセ月のスパイだな。
よおし。つかまえろ!」
とたんに、
「待ちなさい!」
風船がわれたようなトキのおお声に、兵隊たちはのこらずひっくりかえりました。
「たすけてくれえ!」
カメをあおむけにしたように足をバタバタさせてもがいています。
なんてだらしない兵隊たちでしょう。トキはしかたなしにそれをひとりひとり起こしてあるきました。
ほこりをはらい、えりをただし、銃をかまえなおした隊長は、ふたたびトキに戦いをいどもうとしました。『なんて恩しらずな人たちでしょう。こんなことなら助けるんじゃなかったわ』下腹に力をいれて、もういちど兵隊たちをでんぐりがえしてやろうとしましたが、そうするまでもなかったのです。
隊長はさけびました。
「よおし。ぜんいん耳をふさげ!」
兵隊たちがきつく耳をふさいだのをみると、隊長はひときわおおきく
「突撃!」と号令をかけました。
しかし、耳をふさいだ兵隊たちには隊長の声はきこえなかったので、だれも突撃をはじめませんでした。隊長はおこってとなりの兵隊をなぐりました。すると、となりの兵隊はまたそのとなりの兵隊をなぐり、またそのとなりはとなりとすすんで、さいごに隊長がうしろから頭をなぐられました。なぐられた隊長はふりむくと、なぐった兵隊をにらみつけて倍にしてたたきかえしました。その兵隊はうしろの兵隊をおなじ回数たたき、二度二度とつづいてさいごに隊長が二度たたかれました。隊長はあお筋をたてて二回たたいた兵隊を四回なぐりました。というぐあいの悪循環がくりかえされて、最後にはおたがいにひどいケンカをはじめてしまったのです。
トキはあいた口がふさがりませんでした。そこで、ぴょんと三角陣をとびこしてトコトコと森にむかってあるきはじめました。
それに気づいた隊長は、
「せ・れ・ツ(整列)!」と、とぎれとぎれに声をはりあげました。
きずだらけの兵隊たちはピタリとケンカをやめて、隊長の指揮にしたがって猟犬のようにトキをおいかけはじめました。
にげるが勝ちとばかりに走りました。森をくぐり林をぬけてやっとの思いで『はしるベッド』においつくと、ぴょんとそのうえにとびのりました。
ベッドは、ダックスフンドのように軽快にはしってやがてひろびろとした野原にたどりつきました。三角月の兵隊たちもここまでは追ってこないでしょう。トキは安心して腕をのばし、胸いっぱいにきよらかな空気をすいこみました。ああ、そこはなんてすてきな夢の世界だったことでしょう。
野原のまんなかには、お釈迦さまがたらしたクモの糸のようにいっぽんのヒモが天からたれていました。それはトキの部屋から空にのぼった蛍光灯のスイッチのヒモでした。トキがそれをひっぱると、あらあらふしぎ。空いっぱいにひろがった星の光が、ブルーにピンクにグリーンにそのいろどりをかえるのです。それにつれてそよ風にゆれる草花もあわくやさしくその色をかえました。トキは感激して、夜空の蛍光灯にウインクをおくりました。