水溜まりの手
昨夜から降り出した雨は、翌朝になっても全く止む様子はなかった。
私は部屋のカーテンを開け、雨粒が滴る窓から灰色の重々しい空を見上げ、憂鬱な気持ちで溜息をついた。
制服に着替えて階下にゆくと、テレビの天気予報が
「今日は1日じゅう雨でしょう」
と宣告していた。
「雨なんだから早めに出なさい」
と、まるで天気予報の続きのように、母の、雨の日恒例のひと言が付いてきた。
私は適当に返事し、洗面所へ向かった。家の中もなんだかじめじめしていて空気が重かった。
朝食を摂ると、私は少しだけ早めに家を出た。
電車を1本早く乗れるくらいに。
そして学校の近くの駅に着いたら、雨の日だけ、いつもの道ではなく他の道を歩くことにしている。そうすると遠回りになってしまうから早く出たのだ。
雨が多く降ると、舗装された道路にも水溜まりが出来るでしょう?
私の通学路にもあちこちにできる。
ある雨の朝、私は見つけてしまった。
とある交差点の角、コンビニの出入口の近くに出来た水溜まりから、何か白い棒のようなものが立っているのを。
近付くと、それは人の肘から先のような形をしていた。マネキンかと思ったけれどそうじゃない。風になびくかのようにゆらゆらと動いていた。指が、何かを掴み取ろうとするかのようにぞわぞわと動いていた。
私はそれに気付くとそれ以上進めなくなり、立ち止まった。そこはちょうど反対側の角だった。
周りの人々は、その『手』に誰も気が付いていないようだった。
私にしか見えないのだろうか、ひょっとして見間違い…そう思った時、手が、そばを走って通ったOL風の女の人の足を掴んだ。
女の人は水溜まりの上で転んだ。
すぐに起き上がったその時には、手は、もうその人を放していた。その人にはやはり、手は見えていないようだった。濡れてしまった服を気にしているようで、恥ずかしそうに、信号待ちの人たちの中に紛れ込んだ。
私が待つ信号は青になったので、道を渡った。道の向こう側からも、私は手が気になって見ていた。手は、その後も揺れるように動いていた。次に誰を掴もうか、品定めでもしているかのように。
…あれは幽霊なのではないだろうか。
学校へ向かいながら、私は考えた。なぜ私に見えるのかはわからないが、そうとしか思えなかった。幽霊がなぜか人を水溜まりに落としている…いたずらでもしているのだろうか。
気味の悪さが、後からじわりと襲って来た。その日の帰りは、雨は止んでいたけれど別の道を通って帰った。
次の日は晴れていて、水溜まりはなくなっていてあの手も見えなかった。それでも私は道を渡った。気持ち悪さは消えなかった。
それ以来、私は雨の日は別の道を使うようになった。
理由については…言っても人には理解されないだろう。言わないで済むよう、誰にもこの事は秘密にしている。
今日、駅に着いてから、私は大事なことを思い出した。
級友に、新しいノートを渡さなくてはならなかったのだ。
昨日の授業で、急に、授業後のノートの提出を指示された。運悪く私のノートはあと少ししか残っておらず、困っていた時に後ろの席の子が予備のノートをくれたのだ。
だが私はうっかりしてそのことを忘れていた。だからもちろん、家から持って来ていたりはしていない。とはいえ、あまり仲が良いわけではないその級友に、いつまでも返さずにいるのは悪い気がする。
学校までの道のりでノートを買うとしたら、店はコンビニ一軒だけしかない。
幽霊の手が見えた角に立つコンビニだ。
嫌だ。が、仕方がない。
私は重く感じ始めた足で、コンビニに向かった。
雨は家を出た時よりも大粒になっていて、ときおり傘がバタバタと大きく鳴った。風は殆どなかったけれど、人々は傘をしっかりと握り、いつもより少し遅い足取りで歩いている。私もその波に乗って歩いた。歩道にはやはり、凹んだ所に水が溜まっていた。
手が見えませんように! と願ったが、大きく出来た水溜まりの中から白い手は伸びていて、遠くから見た時より透けるような青白さで、筋張った指を細かく動かしていた。私はそれを見ないようにして、道の端からコンビニに飛び込んだ。
買い物はすぐに済み、私は自動ドアの前で信号を確認した。青だ。
手を見ないように。なるべく離れるように。私はドアをくぐると傘を広げるよりも早く走り出した。
視界の隅を何かが動いた。自転車だ…そう気づくと同時に、私は自転車にぶつかり、よろけた。そして水溜まりの中へ入ってしまった。右足に冷たい感触。足元を見ると、手が、私の足首を掴んでいて…
私は咄嗟にそれを振り解くように走り出した。
信号は見ていなかったがすでに赤に変わっており、多くの車が通る中、私は路上に飛び出してしまったのだった。
水溜まりから出た手だけの幽霊は、事故に遭いそうな人の足を止め、助けようとしていたらしい。さっきもきっと、私が飛び出すのを止めたかったんだ。
私は自分から、その手に触れてみた。冷たくてじっとりと湿っていた。水溜まりの水をたっぷり含んでいるような感じがした。
交差点はひどく騒がしかった。人だかりができていて、車は渋滞になっていた。
サイレンが近付いて来て、止まった。救急車だ。
でももう手遅れかな。
私を助けてくれようとした手は、幾らこちらから触ってみても、もう私を掴もうとはしなかった。
おわり
読んでいただきありがとうございました。