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様々な小説に「私」が書かれていないと感じる事

掲載日:2018/05/02

 



 図書館や本屋に行き、そこに並んでいる小説、新刊本などをパラパラ見ると、いつも「ああ、ここには自分の事は書かれていないな」と感じる。突き詰めればその事が、大部分の作家に感じる違和感であるし、同時に世の中に感じる違和感でもある。


 世論が問題としている事なども、いつも自分とは関係のない話をしているなと感じる。小説で言うと、ライトノベルでも純文学でも、そこには常に他人の話が載っている。もう少し言えば、そこでは、自分というものを疑わない個人の物語が存在していて、だからこそ、そこに僕は全く入り込めない。


 この感覚は論理的に語らなければ、単なる感想に終わるので、もう少し話そう。例えば、角田光代という作家がいるが、読んでいると「だからなんだろう?」と思ってしまう。これに関してはエッセイなどもそうで、「それを言う事が一体、何の意味があるのだろう?」と思う。もちろん、そんな風に考えるのは少数ーーいや、ほとんどいないだろう。


 自分の感覚というのは、こんな風に例えられる。例えばギャルゲーを僕がしているとする。(女の人は腐女子向けのハーレムゲームを想像していただきたい) ギャルゲーでは、綺麗な女の子が言い寄ってくる。それを夢中でやっている内に、ふと、「よく考えれば、言い寄られているのは自分ではなく別の誰かじゃないか」と感じる。そう思うと、もうゲームに入り込めなくなる。そこでは、「自分」がモテているわけではない。


 この比喩の段階では、普通の人もある程度は納得してくれるだろう。が、この感覚はもっと先に行く。問題は、仮に、この僕ーー私生活での僕が、本当に多くの綺麗な女性に言い寄られても、やはり「自分がモテているわけではないな」と感じるという事である。この時の、僕ーー自分の区別がないというのが、多くの物語作品の特徴であり、だから、僕はそこに入っていけない。


 恋愛小説・家族小説・仕事小説なんかも、これまで書こうと思わなかったのはそこらに原因がある。人が、自分というものを他者との関係、社会内部における位置づけとして、何故そんなにも安堵していられるのかというのが常々疑問だった。だが、この疑問をそもそもほとんどの人は有していないと年を経るにつれ気付いた。(似たような経験について永井均が「ウィトゲンシュタイン入門」の最初で書いている)


 普通の小説は、自分というものを疑わない。例えば、他人が憎い時、他人が好きな時、その感情を対象化し、その意味について吟味し、果たしてそれは何であるか?と考えると、憎しみも愛情も消えている。僕にとって「生きる」事が自然にできないのは、生きる事について考える事が生きる事に優先するという為であり、他人には怠惰と見えただろうが、それは僕の僕自身にとっての誠実さであった。


 この問題について、世間も常識も、制度もなんらの回答を持たない。小説を書くと言えば、「作家になれればいい」という話になり、「いかに成功するか」「いかに幸福になるか」について人は語り、それ以前の段階の自己というものにはまるで、疑問を持っていないようだった。だが、過去の書物を調べれば、自分と同じような事で疑問を持ち、その問題を解いた(信じられない労苦の末に)人すら存在する。それは僕にとって驚きであったし、同時に希望とも言えた。


 普通の小説に書かれている登場人物や主人公が僕にとって「他人」なのは、彼らが常に自己と一致している為に他ならない。ウィトゲンシュタイン的に、この世界をゲームと考えると、このゲーム内において彼らはキャラクターとして現れている。性格とか容姿とかいうものが物質であるかのように語られる事がその事情を明かしている。彼らの自己同一性は、彼らが女である事、男である事、怒りっぽい事、頭が良い事、悪い事、成績が良かったり悪かったり、年収がいくら、という事と一致しており、その一致の極点に「私」がいるというのが無条件な前提となっている。だからこそ、そこで起こるドラマは「夫」「妻」「息子」「女」「男」「金持ち」「底辺」などの様々な性格付けから発生してくるドラマである。ドラマは、そのドラマについて疑わないという前提の元で成立するドラマである。復讐を企む人間は、復讐の意志については疑わない。そしてこれについて疑うと、もうドラマから疎外されてしまう。


 人はみな、「いかに生きるか」「どのような人生が良い人生か」というゲームをしていて、その過程で小説もそれに沿うように現れてくる。自分にとって疑問とは「生きるとはそもそもどういう事か?」という事であり、このゲームは人々の平面に現れない。


 「生きる」という事はある意味で極めて単純である。社会的に成功するという事が、非常な知力や能力を必要とする、と前提してみてもいいが、社会的に成功しているが、人間としてはカラッポという人は割にいる。彼らは、どうしてカラッポなのに成功できたのか?と考える場合、その問いの仕方は間違っている。社会的に成功するか否かは人ととして含蓄があるかどうかとはさほど関係がない。そのような事はこのゲームの主要な事柄ではない。


 それにしても、わからないのは、何故人がこの社会平面上において生きざるを得ないのか、という事である。これに関して、結論を言うならば、僕が述べてきたような「私」は、生きるという行為に現れえない。僕という人間は、他者の手に捉えられた時、対象化され、物質化され、歪められたものとして現れるのだが、ここでは歪められたものとしてしか現れえない。真の私は世界の平面に現れえない。そしてその事を論理的に認識した時、「私」は世界の中で生きる事を承認せざるを得ない。


 「真の私」ーーいわば、性格も容姿も社会的地位も全て仮りそめであるような私ーーそれは思惟する私だが、それは世界の平面上においては象徴的に現れる他ない。僕の文章から僕の存在を想像する事はできるだろう。だが、それを想像するとは、究極的には、それをする者の内部において、「僕」という個体になってみるという事だろう。ここでは、語り得ぬ「私」の内部において、象徴的に述べられた文章を元に、「僕ーーヤマダヒフミ」を再生しているという像が考えられる。

 

 話を小説に戻すと、ウィトゲンシュタイン哲学をくぐり抜けてきた目には、普通の小説、ないしは人々の生き方というのは全く正しいと言わざるを得ない。彼らは様々な性質、刹那的なもの(そう見える)を信頼し、その限りにおけるドラマを描いたり繰り広げたりしている。真理や本質を探るという試みは、一定の限界を迎えるから(これはウィトゲンシュタイン哲学の結論だが、説明するのは難しい)、そこから先は、真理や本質というものではなく、「語り得るもの」の次元において生きざるを得ない。おそらく、ウィトゲンシュタインの通行するイメージはそのようなものだった。


 さて、そうなると、最初、違和感を感じると言っていた人々は全く正しいという事になるのだが、彼らは自分達を正しいと思う事はできない。何故なら、彼らは、彼らがしているゲームとは異なる世界を決して見る事ができないからであり、角田光代はいつまでも角田光代的に世界を、源氏物語やプルーストを眺めるのであり、彼らは自分について意識する事ができない。自分の行っているゲームの正しさを、正にそこから出た事がないという理由によって知る事ができない。


 だから、彼らの描いている世界、彼らの生きている世界は、彼らが「そのように生きている」という限りにおいて正しいが、彼らがその中で求めるもの、達成したと感じるもの、真実だと思った事、それらに関しては、より高い次元からはどうでもいい事と言える。ここで問題となっているのは、彼らの夢・希望・失墜・挫折・成功ではなく、彼らがそのような考えを携えて、『とにかく』そのように生きたという事柄だからだ。


 そして『とにかく』そのように生きた、という事柄には、真の私は、入りえない。入りえないと知った人は他人と同じようなゲームを行うが、彼はそのゲームの意味を知っている。一方、人はその意味を知らずに、それでも正しくそのゲームを行うのである。


 総括すると、僕は様々な物語に違和感を感じてきたが、様々な物語、おそらくは軽薄であり、すぐには消えてしまうだろう物語の群は、正しかった。が、それらはそれに違和感を感じる事ができず、それをただ生きているという段階での作品である。小林秀雄に「ハムレットとラスコーリニコフ」という極めて優れた評論があるが、そこでは、ハムレットとラスコーリニコフという、自己に対する懐疑が極限を越えた人物もまた、普通人と同じようなドラマを演じざるを得ないという悲劇が描かれている、そう論じられている。


 小林秀雄の論を延長すれば、「罪と罰」や「ハムレット」は二重の悲劇である。それは、それぞれの主人公が、劇の主人公のような、仮面的性格から最も遠い存在なのに、仮面をつけて自己を演じなければならない、そうでなければ他者との関係平面で生きる事が許されないという、そういう劇である。これに通常の劇形式が加わり、ドラマは二重となる。


 この二重の劇を感じている人は、今は皆無であろうという気がする。通常の劇に対して、それがどんなジャンルに移行しても、大衆社会における容認と否認、関係平面における自己を前提とする劇である以上、僕は違和感を感じる。が、人々の演じる劇は正しい。また、僕が間違っているわけではない。僕はただ、人々の正しさに到達しえていないだけである。そうなると、僕もまた人々の劇に到達しなければならないという悲劇が発生するという事になるだろう。

 

 最後に一言すると、文学というのは、一つの視点である。ある視点の要請と言っていい。ハムレットやラスコーリニコフの内面を描くのも文学であるが、そのような人間をより高い視点、神の場所から見ると、そこに劇が現れる。だが、周知のように、人は己の内面からは抜け出せない。己の内面から抜け出せないのに、どうして人は、客観的な劇を描けるのか、と深く考えない所に、様々な単純な物語が現れてくるが、ドストエフスキーやシェイクスピアにあっては、それを描く事のできる視点は、(カント的な意味で)「要請」されていると言って良い。ラスコーリニコフやハムレットというような極限の内面を持った人間も何らかの形で人生を生きざるを得ないのである。そして彼ら大作家はそのような視点がありうると信じる事によって、大作家になったのだろう。文学というのはそういう意味では、自己の内面から抜け出る事できる一つの視点の要請と言える。これに関して基本的には隠されている。何故なら、このような劇に到達できるのは、自己の内面というものを徹底的に深く認識したものに限られているからだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 生きることを≒ゲームと例えているところが、芥川の侏儒の言葉、【人生】という項目で『人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会』と言っているところと似ていると思いました。 ヤマダヒフミさんほど学…
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