序章 天使の涙
朝。
私は、いつもと同じ時刻に鳴り響く目覚ましの音で目を覚ます。
そして、普段通り、母親の作った朝食を食べ終わる。
前日のうちに用意していたカバンを手に取り、いつも通りの時間に家を出る。当然、いってきます、と告げてから。
通学路
街路樹の青く茂った葉っぱが風に揺れ、上から降り注ぐ太陽と、下のアスファルトからの熱が、夏の訪れを感じさせる。周りを見ると、ゾンビのような足取りをした人が数人いる。
「おはよー、春ちゃん」
後ろから声をかけられ、立ち止まって振り返る。
「あ、七ちゃん。おはよう」
彼女は新島七瀬。私の高校のクラスメイトであり、親友である。
「ねぇ、春ちゃん。1時間目の授業ってなんだっけ?」
「倫理だよ、倫理。
もー、サイアク。私、倫理って嫌いなんだよねー」
「えー、嘘でしょー? 春ちゃん普通に倫理出来るじゃん。この前のテストも全教科学年十位以内だったし……」
中学まで、いくら勉強しても良い結果が出なかった私だが、高校では、さほど勉強しなくても高い順位を獲れるようになっていた。(ちなみに、一位はまだ獲ったことがない。)
「それでも嫌いなものは嫌いなの。しかも、倫理は七ちゃんの方が順位高かったじゃん」
私が八位だったのに対し、七瀬は三位だった。
「えへへー。でも私、倫理以外はなんにも出来ないんだよねー。
だから……今度勉強教えて~、ね?」
七瀬は『ね』の部分で小首を傾げ若干上目遣い、しかも舌をペロッと出してきた。
七ちゃん、それは男を落とす為のテクだよ……。
しかも、七瀬は人間とは思えないレベルで顔立ちが良いので、女子であるはずの私まで、その仕草を可愛いと思ってしまう。
「もう……しょうがないなぁ。わかったよ。今週末はちょうど暇だし、教えてあげる」
「やった!春ちゃん大好きー。ぎゅー」
「ちょ……止めてって……」
抱きついてくる七瀬を引き剥がしながら、私たちは学校へと歩を進める。
いつも通りの通学風景。
そして、いつも通り退屈な授業を受け、いつも通りに放課後を過ごし、いつも通りの時間に帰宅。いつも通りの時間に夕食を食べ終わり、入浴し、クラスの友達とLINEでいつも通りの会話をして、いつも通りの時間に就寝する。
こんないつも通りの平凡な日常が永遠に続くのだろう、と私は思っていた。
翌朝……。
目が覚めると、そこには何もない、誰もいない広い荒野が広がっていた。
「ここは……?」
「あなたにとって馴染み深い……ですが、全く見慣れない場所ですよ、西川春乃さん」
疑問の声を上げると、後ろから声がした。振り返ると、そこには……天使がいた。比喩表現でも何でもない。本物の天使がいたのだ。背中から生える三対六枚の翼。内二枚で顔を、二枚で脚を隠し、残りの二枚で飛んでいた。声からして女性だろうか?私はその声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
「どういうこと? 馴染み深いって……ここが?」
「見ての通り、広い荒野ですが、ここはあなたが昨日まで住んでいた場所なのです。つまり、今まで見ていた世界が幻だったのです」
「今までの世界が……幻……?」
「ええ、そうです。
と言っても、私があなたに幻を見せていたのは、ほんの数ヶ月ですけどね」
そう言って、天使は微笑みを浮かべた。
いや、顔を隠しているのではっきりとはわからなかったが、微笑んでいるように感じた。
だが、そんな天使の微笑みとは反対に、私の心は疑問符で埋め尽くされていた。
「……あなたは、一体誰なの?」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。私はアラエル。あなた達の言葉で言うなら……そうですね、天使……というのが最も適切でしょうか?」
「どうして天使がこんなことするの?」
「どうして、ですか。話すと長くなりますがよろしいですか?」
私は頷いて肯定する。
それでは……、と言うと、天使は指を鳴らした。
すると、私の目の前に椅子が現れた
「どうぞ、立っているのも疲れるでしょうから。」
私は勧められるままに椅子に座る。
「さて……、春乃さんは『マナ』、というものはご存じですか?」
首を振って否定する。
「まあ、普通はそうですよね。マナというのは簡単に言うと、この星が持っている科学では説明出来ない超常的なエネルギーの事です。
そして近年……産業革命期からでしょうか、そのマナが枯渇しつつあります」
「マナが枯渇すると、どうなるの?」
「私たちの計算では約百年後に――」
天使はそこで一回言葉を切り、
「地球が滅びます」
と、淡々とした口調で告げた。
「滅ぶ?地球が?」
「ええ。ですが、それは私たちとしても避けなければいけない事態です。だって、神や天使は人の信仰で存在しているわけですから。
なので、私たちはマナに代わる新たなエネルギーを探したのです。そうして見つけたのが、人間の感情でした。特に、希望と絶望の相転移の瞬間が、最も強いエネルギーを発するのです。
理解していただけましたか?」
天使は微笑みを崩さず、私に訊いてきた。
「……つまり、私はあなた達が世界を救う為の道具ってこと?」
「ええ、要約するとそういうことになります。まあ、今はまだ仮説の段階ですから、あなたが実験体第一号ということになりますが」
「なんで……?どうして私なの……?」
そう言った私の声は、少し震えていた。
「さあ?上司の考えることは私には分かりませんので」
天使は肩をすくめて答える。
「帰して……。私を、元居た世界に帰してよ……!あなたの話が本当なら、私が生活していた本当の世界があるはずでしょ⁉」
私は泣きそうな声で懇願する。
「はい、そうです。確かに、あなたの生きていた世界はありますし、帰すことも出来ます。」
「それなら――――」
「ですが、元の世界に戻ったところで、あなたの居場所はありません(・・・・・・・・・・・・・)よ」
「え……?それって……どういう……」
「学校の名簿や戸籍といった記録、そして思い出といった記憶面から西川春乃という人物を消し去りました。元の世界において西川春乃という人物は存在すらしなかった事になっています」
「そんな……」
私の頬を涙が伝う。もう、自分の精神に限界が来ていることが分かる。
「最後に、私から一言……」
そう言うと、天使は私の前に降り立ち、顔を隠していた翼を広げた。
そこには――
少し経って。荒野のはずれ。
「任務、ご苦労様。アラエル……いや、七瀬君と呼んだ方がいいかな?」
背後から透き通った綺麗な声に呼びかけられた。
「お好きな方でお呼びください、大天使長」
先刻まで春乃と話していた天使、新島七瀬は声のした方に振り向いて答えた。
大天使長、そう呼ばれた小柄な美少年――と言っても、彼が放つ威圧感は少年のそれではなく、また彼の背中に生えた六対十二枚の翼も、彼の権威を示していた。
「それで、どうでした? 大天使長。感情エネルギーの回収の方は」
「……普通に名前で呼んでくれて良いんだよ?」
堅苦しいのはキライだからね、と大天使長は苦笑しながら言う。
「まあ、それはそれとして。実験は成功。大成功だよ。ラジエル君の計算通り、莫大なエネルギーを得ることができた。早急に段階を移行するつもりだ。
それにしても、七瀬君は凄いね。人化の術を使っているとはいえ、完全に人間側に溶け込んでいたのだから。他の者では、あそこまで溶け込むことは出来ないだろうね」
大天使長は微笑み、七瀬を称える。
「人化の術は私のオリジナルですから。他の天使とはワケが違います」
「ふむ……。なるほど、それもそうだ」
大天使長はクスクスと笑った。
「さて、アラエル君。今回の実験の成果報告があるから、円卓会議場まで来てもらいたい。
……それまでに、涙は拭いておくように」
「え……?」
七瀬が自分の頬に触れると、そこには確かに涙が流れていた。
それじゃあ、と言うと大天使長は円卓会議場の方向に翔んでいった。
その後、七瀬は春乃の居た方を見つめ、
「ごめんね、春ちゃん……」
そう呟くと大天使長の向かった方向へと、翔んでいった。