Story8 包ミ込ムヨウニ、抱キ合ウコト
── 人肌を感じながら、
眠りに就くというのは、何年振りだったろうか。
暖かくて、鼓動が聴こえて、
寄り添う相手の、髪の毛先までも、生命が宿っているのを感じて。
仰向けになった俺を、包み込もうとするように、そこには『麻紀』がいて、
今まで見せたことのないような、優しい、安心した笑顔を、俺に、見せる。
◇ ◇ ◇
ん…ねえマッキー
…どうした?
あのね、絶対言いたくなかったんだけど、言うね
…無理に言わなくてもいいよ
ヤダ。ん…絶対言う
…
好き
…
ずっと、
大好きだった
◇ ◇ ◇
麻紀とランチに出かけた次の日の22時ごろ、俺はようやく家に帰った。
俺と麻紀は、海辺の旅館で、翌日の夕方過ぎまで、ご飯も食べず外にもいかずに、ずっと、───2人でいた。
旅館から出るころは、ふたりともまた恐ろしいくらいの空腹感と、そして俺は、意識がぼんやりとするような深い疲れに、憑りつかれていた。
「──じゃあ、またね」
別れ際、麻紀はそう言って俺に、手を伸ばした。
…細くて、華奢な手だった。
俺は、その手を軽く、握り返した。
そして、意識は段々と 現実へ戻っていく。
今俺が一番にしなくてはいけないこと、それはワークカラット社のタナベカスミに謝罪の電話を入れることだった。
──今日中を予定していた、ストーリープロットの叩きの提出だったが、まだまったく手が付けられていなかったからだ。
◇ ◇ ◇
「はい、タナベです。お世話になっております」
──電話口から、タナベカスミの事務的な声が聴こえる。…一瞬、録音されたテープかと勘違いしたが、当人のリアルタイムの反応のようだ。
「牧瀬です。タナベさん、夜分すみません。今少し宜しいでしょうか」
「ええ。如何されましたか?」
「ごめんなさい。今日提出予定でしたストーリープロットの提出、明日の昼頃まで待っていただけませんでしょうか?」
「…」
──少しの間、無言の時間が流れる。
「…待つことは可能です。今回はたまたまバッファがありましたので。…ですが」
「はい」
「…その、遅れた理由も教えていただけませんでしょうか」
「…すみません、プランニングに想定以上の時間がかかってしまっていて」
少しは相手を安心できるような言い訳を伝えるべきだったのかもしれない。
「…わかりました。では、いつ頃ご提出いただけると考えていれば宜しいでしょうか」
「そうですね…明日の8時でも宜しいでしょうか」
徹夜でやれば、なんとかならない量ではなかった。疲れてはいるが、そんなことは言ってられない。
「…」
「…タナベさん?」
「明日の18時までお待ちすることが可能です」
「…え?」
「…たまたま」
タナベカスミは少し言いにくそうに、話した。
「たまたま、先ほど牧瀬さんがマンションに戻られるのを見かけました」
「あ…」
そうだった。タナベカスミは、俺と同じマンションに住んでいるのだ。
…帰るところを、偶然見かけられたのだろう。
「…とても、疲れたご様子に感じましたので、」
「…」
「あまり無理されると、品質にも関わりますでしょうし…、これからもっと忙しくなりますので、お身体悪くしたら元も子もないですし」
「…ありがとう」
口調は固いが、たぶん本当に心配してくれているのだろう。そんな雰囲気が、電話口からかすかに伝わってきた。
外注先の業者にここまで優しくしてくれるディレクターは、そうはいない。…というより、タナベカスミは少し優しすぎるかもしれない。
「でも、なんとか12時に間に合わせるように頑張ります。こっちの責任ですからね」
「…わかりました。では、スケジュールにまた変更がありそうでしたら、ご連絡ください。深夜の時間でも、電話は出れるようにしておきますので」
「本当にありがとう。…しっかりしたクォリティのプロットが出来るよう頑張るよ」
「期待してます。…では、失礼します」
「はい、また」
──電話を切った後、俺は大きくため息をついた後、ひとり呟いた。
「さて、やるか」
タナベカスミの気遣いは、正直嬉しかった。…こちらの落ち度にもかかわらず、というところもあって申し訳ない気持ちも多々あったが。
彼女の期待に応えてあげたい、とそう思えた。
そして、たとえ一時といえども、仕事にこうやって前向きな気持ちになれたのは、──かなり久しぶりのことだった。
◇ ◇ ◇
翌日、俺は途中2時間ほど仮眠を取りながら作成したストーリープロットを昼前にタナベカスミ宛にデータ送付した。併せて、彼女に電話して、内容を軽く説明した。タナベカスミは俺の説明を黙って聞いたのち、「ありがとうございます」と言ったあと、とても面白そうで、社内のメンバーも喜んでくれるだろうと付け加えてくれた。
「3日後、またワークカラット社での会議にご足労頂ければと思いますが、それまでは特にこちらからの依頼はございません、ゆっくりお過ごしください」
そう言ってタナベカスミは電話を切った。声が若干疲れ気味に聴こえた。もしかしたら、彼女の方も徹夜の業務があったのかもしれない。
──さて、一区切りつけられたし、もうひと眠りするか。…そう思ったときに、智也から電話がかかってきた。
「今、少しだけ良いか?」
「ああ。…ちょうど今寝るところだったけど、かろうじて良いぞ」
電話口から辞令的な乾いた笑いが聴こえる。
「悪い悪い…あのさ、すっかり寝た後で良いんだけど、今日夜少し会えないか?…一件仕事の飲みがあったんだけど、キャンセルになってさ」
「良いけど、ずいぶん急だな」
「場所がちょうど西新宿でさ。お前ん家の近くだろ?…さらに、今から予約キャンセルするとキャンセル料が50%かかるらしいから。勿体ないだろ?」
「…なるほど」
「20時に、新宿公園公園前のパークハイアット2階のロビーで待ち合わせでどうだ?」
「了解。…って、ずいぶんゴージャスなところでの飲みだったんだな」
「会場は50階だかの展望フロアだ。…ドレスコードがあるわけじゃないが、ジーンズにサンダルとかで、あんまりカジュアルな恰好で来てくれるなよ…きっと浮くから」
「ああ、分かった…っていうか、本当に仕事の飲みだったなのか?そこ。まるでデートみたいじゃないか」
「…この歳になるとさ、仕事の飲みもデートも大して差がなくなってくるんだよ」
「そんなことないだろ、いくらなんでも」
──「自分の奥さん誘ったらどうだ」と言おうとして、飲み込んだ。…たとえ亜希子がこの時間家で一人、智也の帰りを待っていたとしても、きっと、俺がどうこう言う問題じゃない。
「じゃ後でな」と智也は言って電話は切れた。
──智也との待ち合わせまであと8時間近くもある。
とにかく、今は何も考えずに寝よう。
──疲労と眠気が、もうピークだった。
◇ ◇ ◇
──泥のように重たい眠りの中で、
俺は亜希子とふたりで、海辺の海岸を歩いていた。
俺と亜希子は、手を繋いでいた。
亜希子は、薄いワンピースを着ていて、裸足だった。
さむくないか?──そう俺は聴いた。
さむいわけないじゃない!なんで?──亜希子は笑いながらそう言う。
そうか、そうだよな、寒くなんてないだろう。
なぜなら──
なぜなら──なんだ?その先が続かない。なんで亜希子は寒くないんだろう。…だって、今はもう、12月だぜ?
俺は立ち止まり、亜希子を見る。
すると、そこには亜希子はいなくて、代わりに麻紀が立っていた。
…ねえマッキー
マッキーのココロのスキマは、それじゃあいつまで経っても、埋まらないよ?
──俺のココロの隙間ってなんだよ、それ。
それが分らないうちは、このプロットは通せません。…とても、残念なのですが。
麻紀の姿は、いつの間にかタナベカスミになっていた。
「問題は、さ」
すぐ後ろから、智也の声が聴こえてきた。──これまでの誰よりも、はっきりした声で。
「牧瀬、お前はずっとこの数年間、同じところに留まってるんだよ」
…留まっている?
──でも今はきっと、動き出そうとしてますよね?
タナベカスミがそう言ってくる。
ねえ、今度──いつ逢えるの?
麻紀はそう伝えてくる。
俺は、亜希子を探す。
──亜希子は、いない。
「亜希子は、いないよ」
そう智也が言う。───その声には、俺への憎しみの感情が籠っていた。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、もうすでにあたりは完全に夜になっていた。
枕元に置いたスマホの時計を見ると、時刻は17:40となっていた。…ちょうどよい時間だ。 智也との待ち合わせ時間に合わせて、ゆっくり準備しても十分間に合う。
とにかく、昼寝の後は行動が緩慢になる。とくに、今日のように嫌な夢を観た後は。
俺は熱いシャワーを浴びた後、インスタントコーヒーでホットのカフェオレを作った。ソファに腰かけてそれを飲みながら、寝ていた間にスマホに届いたメールとメッセのチェックをする。
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麻紀からのメッセージ
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from:麻紀
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帰り、少し疲れてそうだったけど、
ゆっくり休めた?
仕事が落ち着いたら連絡してね。
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タナベカスミからのメッセージ
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from:タナベカスミ
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先ほどはプロットの提出、ありがとうございました。
チーム内でも回覧させていただきました。いくつか確認したい点も出てきましたが、おおむね好評でした。
明後日のミーティングもどうぞよろしくお願いいたします。
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…ここ最近になって、以前と比べてメッセやメールが来ることが多くなった。──つい数か月前までは、1週間にメッセが来るのは1回あるかないか…のペースだったのに。
だから、こういう風に連絡を寄越してくれることのありがたみは、身に染みてよく分かる。たとえそれが、タナベカスミのような仕事の連絡だったとしてもだ。
そして、ずっと変わらず俺と会う機会を設定してくれる、智也に対しても。
麻紀には、ちょうどこっちかも連絡しようと思っていた。
彼女とこれからどうしていくのが良いか、それはまだわからなかったけれど、きっともっと二人の時間をより深く共有していけるような、そんな関係になっていけるんじゃないか、とそんな予感を感じていた。
そう──、その時の俺は、ココロの隙間を感じずにいられていたのかもしれない。──孤独感は少しだけ影を潜め、それよりも一回り大きい、潤いと充足感。プライベートも、仕事も、きっと、少し前の底辺の状態からは、脱却できたような、そんな気分で、薄暗い部屋の中で、ゆったりした音楽を掛けながら、ささやかな充足感の余韻に、浸っていた。
──その後、一本の電話が掛かってくるまでは。
「牧瀬…くん?」
掛かってきた電話は、亜希子からだった。
◇ ◇ ◇
「ごめんね。ずっと電話くれてたのに、出れなくて」
亜希子の声は、そう言った。
「…ああ、別に良いよ。それより、どうしたんだ、急に」
「フフフ、実はだね」
亜希子の声は少しだけ楽しそうに話しかける。
「…ちょっとした用事があってだね。…近くにいるんだよ。牧瀬くんの家の」
「…」
「それでね、…もしかしたら、今牧瀬くん、家にいるかな~?…なんて思ってね、電話しちゃいました」
前回会った時よりも、彼女の声は活き活きとしていて、…心地よく纏わりつくような、余韻があった。亜希子がひとこと言葉を発するごとに、それは俺の鼓膜を通して、脳裏に鮮やかな波紋をつくっていった。
「だからね、もし良かったら」
そう言った後、そこで亜希子の声は間を創る。
「…なんだ?」
「10分くらいでも、顔見れたら良いな…なんてね」
『亜希子は今、外に出れないんだよ』
以前、智也はそう言った。…そして、俺と会うときだけは、例外だとも。
もし、俺がこの誘いを、亜希子からの誘いを断ったら、どうなるんだろうか。
「…悪い、このあと、約束があるんだ」
「…あー、そっか、残念。…… ゴメンね、そんな忙しいときに──」
「だからさ」
俺は亜希子の謝罪の声を遮る。
「本当に10分くらいになりそうだけど、それでも良ければ」
───そう、俺は答えていた。
…




