Story10 理解できないこと、納得できないこと、諦められないこと、耐えられないこと
「亜希子としばらく、別々に暮らすことになったよ」
…俺が2杯目のウィスキーを注文したときに、ようやく智也は言った。
「…そうか」
「あまり驚かないんだな」
「さっき本人から聴いたよ…メッセで」
俺はそう言った。…なんとなく、亜希子は俺と逢うことを智也には話していないという直観があった。そして、そうであるとしたら直接会ったことを俺から話すのは伏せておいた方が良いような気がした。
「…メッセで連絡が来たのか」
「その後電話して聞いたけどな…悪い。それで今日、遅くなった」
「いいよ。…それが理由だとしたら、もとはと言えば俺の責任だしな。──それより亜希子は、理由とか言っていたのか?」
「いや…それは、智也から訊いてくれってさ」
「…そうか」
それから、智也は少し黙った。…俺も、黙って酒を飲んだ。
──今は、自分からあまり積極的に訊いて話す気になれなかった。
…きっと、智也もそうだろう。
「…そういえば、珍しいな。お前が手袋を嵌めているなんて」
智也はテーブルの上に置かれた俺の、皮の手袋を見て言った。
「…ああ」
…その手袋は、亜希子からの餞別の品だった。
◇ ◇ ◇
・・・
「牧瀬さん、こんな寒いのに、手袋しないんですね?」
8年前の、亜希子と2人きりの、たった一度だけの遠出のとき。湖畔を歩きながら、亜希子はふとそう訊いてきた。
「ああ。…手袋、嫌いなんだよ」
そう言うと、亜希子は可笑しそうにくすりと笑った。
「なにか可笑しかったか?」
「だって、さっきから何回も手のひらを息で暖めるのを繰り返してるんですもん。
──牧瀬さんは手袋嫌いでも、手の方は手袋を欲しがってそう…って思って」
「ハハ、そうかもしれないな」
「…どうして嫌いなんですか?」
「…なんていうか、手袋してる時だと、ものを触ってもリアルじゃなくなるっていう感じがするんだよね」
「リアルじゃなくなる…?」
「そう。…例えば、この木の幹を直に触ってみるとさ、感触から色々感じられるだろ?…それが、手袋があるとね、そういう感覚が弱くなるっていうか…そういうのがね、嫌なんだよ、きっと」
「ふぅーーん」
・・・
しばらく無言で湖の畔を歩いていた亜希子は、急にまた口を開いた。
「…なんか、牧瀬さんぽい。さっきの」
「…なにが?」
「だから、手袋を嫌いな理由」
「え。…どういうところが?」
「なんだろ。…物事を感覚から捉えようとするところもなんですけど…それ以上に、なんていうか…えーーーと、」
亜希子は頭の中で考えを整理しながら、次の言葉を紡ぎ出そうとしていた。
「…自分ひとりで、完結しちゃおうとするところ……かな?」
「…牧瀬…さん?」
「どうした?」
「ごめんなさい。…言い方、良くなかったですか?」
「え…いや、そんなことないけど。なんで?」
「え…だって、その表情…」
「表情…?」
「あ、なんでもないです…ごめん、
──なんか、とっても、無神経な…言い方でした」
亜希子はそう言って本当に申し訳なさそうに謝った。…たぶん、実際に俺はひどい顔をしていたんだろう。
…亜希子から『自分ひとりで完結する』って言われたのは、正直少しショックだった。きっとそれは、周囲からしてみると近寄りがたい存在で、…そして、亜希子が智也を選んだのは、俺がそんなだから…と暗に言われたような、そんな気がしたから。
「…別にね、だからって、牧瀬さんに話しかけづらいって訳じゃないんですよ?…むしろ、どっちかっていうと皆牧瀬さんのこと大好きだと思うし」
…そう亜希子がフォローしてくる。亜希子は本当に、場の空気を読むのに長けていた。気を遣われていると解っていながらも、そのいたわりの言葉が心地よく体内に響いていく。
「だから、猶更──、もっと頼ってくれれば良いのに、って思ったりします」
「…頼る?」
「そう。…みんな、喜んで牧瀬さんの力になろうとしてくれますよ?」
「…手袋も?」
そう俺は亜希子に笑いかける。…もちろん、冗談で言ったつもりだ。──そしてわかっていると思うが、俺は冗談を言うのが、とても、得意ではない。
「そう、手袋くんも」
…それでも、亜希子はそう言って、嬉しそうに笑ってくれた。
「…手、繋いでみる?」
──唐突に、亜希子はそう尋ねてきた。
「え?」
「だって、あまりにもその手、…寒そうにしてるから
──さっきから、ちょっと気になってたんです」
亜希子は笑いながら、その手を俺の前に差し出した。 ──彼女は、毛皮の手袋をしていた。
ぎこちなく彼女の手を取ると、…亜希子はそのまま俺の手を握り返して、湖畔をまた歩き出した。
繋いだ手に引っ張られて、俺も亜希子に合わせて歩き出す。
…二人の手は、暫らく繋がったままだった。
「…牧瀬さん、手、冷たすぎです」
「あ、ごめん」
「良いんです…でも、手袋しても私は伝わってきますよ?…牧瀬さんの手から、色々」
「…そうか」
「…手袋してたって、色々伝わってくるんですよ、つまりは」
亜希子は少しだけ得意げにそう言った。
「…そうだな」
…たしかに、俺の手の方にも、亜希子の手袋を通して、───亜希子の手の感触が、亜希子の存在が、伝わってきていた。
「…いつか、見つかるといいですね」
「なにが?」
「…牧瀬さんに、ピッタリの手袋が」
そう言って、亜希子は俺に笑いかけた。
──敵わないな、こいつには。
俺は、心の底から、そう思った。
◇ ◇ ◇
・・・
「…そういえば、珍しいな。お前が手袋を嵌めているなんて」
智也はそう俺に訊いてきた。
「ああ。…齢取ったせいかな。最近は寒さにめっぽう弱くなってきて」
俺はそう誤魔化した。
「そうか」
それっきり、智也はその手袋への関心を無くしたようだった。
「…一気に寒くなったもんな、最近」
「ああ」
「…そういえば、牧瀬はずっと家事ひとりでこなしてるんだよな?…寒い日とか、しんどくないか?」
「まあ大変だけど、そんなに寒いとか暑いとかは関係ないと思うぞ」
「…そうか。そういうもんなんだな。
いや、これから色々自分でやらなきゃな、って思ってさ。…俺、寒いの苦手だしさ」
「男の我流な家事の仕方で良ければ、色々教えてやるよ」
「サンキュー、助かるよ」
…そう言って、智也は笑った。…少しだけ、さっきよりかは顔色が良くなったように見える。酒も少し回ってきたのだろう。
「…なんで、別々に暮らすことになったんだ?亜希子と」
──時計はもう11時を過ぎていた。そして俺は、とうとうそれを、訊いてみることにした。
◇ ◇ ◇
「…亜希子はさ、不安だったんだよ」
智也は、話し始めた。
「…『不安』?」
「そう、『不安』。…俺から、本当に愛されているかっていうのがね」
「…どういうことだ?」
「俺がきちんと、あいつに、愛情を示してやれなかったのが、良くなかったと思うんだ。…ほら、仕事も忙しかったしさ」
「…そういう風に、亜希子は言ったのか?」
「いや、あいつあんまりそういうこと言わないんだ。…だから、俺が解ってあげなくちゃいけない…まあ、夫婦だったら当然だろうけど」
「…」
違和感を感じた。…──本当に亜希子は、智也の言うような不安を感じていたのだろうか?
「そして俺もさ、不安だったんだと思う」智也はつづけた。
「それは、…亜希子に本当に愛されているか、っていうのがか?」
「…というより、俺は亜希子に対して、良い亭主であり続けているのかな、っていうのがさ。
とにかく、そんな感じで、二人とも不安定だったんだ。──つまり、お互いにその不安を解消しようと、暗に要求しちゃってたんだよな」
…智也はウィスキーをすすりながら、窓の外を眺めた。──高層階から展望される新宿の夜空は今の俺の目からはとても、寒々しく映った。
「ギブ&テイク、じゃなくて、テイクばっかり求めるようになってたんだと思う。…そして気付いたときは色々手遅れだったよ」
「…手遅れ?」
「そう…亜希子は家の外に出れなくなったり…俺は色んなことに猜疑心を持つようになったり」
「…猜疑心ってなんだ?」
「…なんでもだよ。とにかくさ、物事を悪く考えてしまうんだよ。…例えばさ、亜希子が家の外に出なくなっているのは、俺へのあてつけなんじゃないか…とかさ」
「それは違うだろ、いくらなんでも」
「…ああ、違うだろうな、たぶん。──でもさ、本当のことなんて、結局それは、当事者が決めることなんだよ」
「…どういうことだ?」
「つまり、客観的に見て『違う』って思えることだっとしてもさ、当事者の俺たちがそうだと『肯定』すれば、それが真実になるってことさ」
「…すまん、ちょっとそれは、よく解らない」
暫らく智也の発言を反芻したあと、俺はそう応えた。
「…まあ、お前も結婚して何年かしたらわかるよ。俺の言ってることが」
──智也からのその台詞を聴いてはじめて、(ああ、こいつは今俺に悪感情を持っているんだな)ということが解った。そして、智也自体の状態が今とても不安定なことも。
40手前の独身者に対して、「結婚してないやつにはわからないだろうな」なんて台詞は、ふつうの感覚を持った人間だったらまず言わないし、なにより普段の智也は特に、そういうことへの気配りができる男だから。
『…夫婦のことってさ、外からじゃ絶対わからないと思う』
…以前、麻紀が言っていた言葉を思い出した。
──たしかにその通りだったよ、麻紀。俺は今、智也が何を想っているのか、なぜそう感じているのか、まったく理解もできないし、…そして、納得もできない。
「とにかくさ、今の2人の精神状態があんまりよくないものだから、折角スケジュール調整して2人の時間を創っても、なんだかマイナスの結果しか起きないようになってきててさ」
智也は構わず話し続けた。…俺は、黙って、俺のことを親友と言ってくれる男の話を聴き続けた。
「…だから、ある日、亜希子は言ってきたんだ。…お互い、少し離れてゆっくり考える時間が必要なんじゃないかって。…『これまでを振り返って、内省する時間を持ちましょうってさ』。…ところでお前、内省って言葉知ってた?」
「自分の考えや行動を深く顧みること、、、だろ?」
「…さすがプロのライターだな。俺は初めて知ったよ、内省だなんて。自分の妻がそんな言葉知ってたのにも驚いた。…とにかく、いったんふたりとも離れて、じっくり内省しましょうってことだな。ひとまず俺は、再来週から有給取って、1週間の一人になれる場所に行くことにしたよ。そこでこれまでのこと、これからのことをゆっくり考えようと思っている」
「…どこに行くんだ?」
「長野の山奥にさ、そういう施設があるみたいなんだよ。衣食住の必要最低限のものだけ用意して、あとは外部情報をいったん遮断したような施設が」
「…随分本格的だな」
「ああ、まあな。…これが、本当の本当に、手遅れになる前の、最後のチャンスかもしれないからな…ちゃんとやろうと思ってさ」
「亜希子はどうするんだ?」
「…亜希子は、福岡だかの親戚の家に行くことになってる…あいつの方はちょっと長めで、1か月くらい、かな」
「いつ出立するんだ?」
「今日だよ今日。…22時新宿発の小倉行き深夜バスに乗るんだとさ」
…そうか、だからその前まで二人で最後の晩餐をする予定…だったのか。
「…その後は…ひとりで考えた、その後はどうするんだ?」
「…その後?その後は、これまで通りさ。
亜希子はこっちに戻ってきて、また一緒に住む。…そして、そのころはふたりとも今まで以上に、二人の生活を、大事に過ごそうと思っている…んじゃないかな、きっと」
『福岡にね、仲が良かった従妹がいてね。
半年くらいなら居候させてくれるって。
で、その間に職を探して、
一人暮らしするつもりなんだ』
──確かに亜希子はそう言った…はずだ。
「…そのときは、俺は亜希子の夫として、もっとしっかりしないとな、て思ってるよ。仕事の忙しさにかまけることなく、自分の奥さん第一に行動するような、そんな旦那になれるようにしないとな」
そう言って智也は疲れた顔を隠すように、ニッコリ笑った。
──亜希子は俺に、『離婚するかもしれないし、しないかもしれない』──そう、言っていた。
「…智也」
「なんだ?」
「…大丈夫なのか?」
俺はそう訊いた。
「ああ、大丈夫だよ」
「…そうか」
「ああ。…あいつは、すぐに戻ってくる。…そして、また元通りになる。───だから、」
そう言って、智也は俺の目をまっすぐ見てきた。
「…変に、気を回してくれなくても、大丈夫だよ。…俺にも、亜希子にも」
…俺は思わず、テーブルに置いた手袋を、握りしめていた。
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亜希子へのメッセージ
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from:牧瀬
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亜希子。
今智也と別れたよ。話も智也から聞いた。
なんかあったら言ってほしい。力になるから。
あと、手袋ありがとう。大切にするよ。
御礼になんか送りたいんだけど、
そっちの住所を教えてくれないか?
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智也と別れた後、俺はすぐに亜希子へメッセを送っていた。
……あれだけ、智也から、釘を刺されたのにもかかわらずに。
そして、新宿中央公園内の自動販売機でホットの缶コーヒーを買って、ベンチに座ってずっとスマホを眺めていた。…俺からのメッセージに”既読”マークが付くタイミングを確かめようと、ずっと、液晶を眺めていた。今亜希子はどの辺だろうか。…名古屋あたりを超えたぐらいだろうか。メッセージに既読のマークはずっと付かずにいた。
…亜希子はもう寝てしまったのだろうか。
…寂しくて、月明かりのない、薄暗い夜だった。…そして、風の強い寒い夜だった。 何人かのカップルや、浮浪者が俺の前を足早に通り過ぎていた。
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麻紀からのメッセージ
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from:麻紀
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ねえ、明日の土曜日って暇してる?
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───1時間ほど待ったが、亜希子へのメッセージに”既読”マークは付かなかった。
そして、代わりに来た麻紀からのメッセを確認した、そのときの俺は、もう限界だったんだと思う。
…寒さの凍えも、そして、耐えようのない、──心の渇きにも。
…




