幕間 狂信の王と快楽の王
「主よ!何故ですか!何故私にいってくだされないのですか!」
悲痛にも似た絶叫が謁見の間に木霊する。
そこはトローレスの王宮、生温い風が窓のカーテンををはためかせて舞い込んでくる。
ナフサは壇上にある祭壇に向かって、膝をつけて手を掲げていた。
ルーン王国のクローヴィスが使徒となったことはナフサの耳に入ってきた。
主の洗礼を受けて、使徒となったこと。
それはナフサが求めていた栄光であった。熱望していたことであった。
何度も、神国のカソリエス教会に洗礼の打診をしても色よい返事がこなかったことに苛立っていた矢先に、彼は使徒となった者を知り、暗い嫉妬の炎を胸に抱かせる。神国の大司教や枢機卿以外で最も主を崇めている自信、国を挙げて奉仕している事実、それらはナフサが王位を得てから常にしてきた自負であった。
それをただ一国の公爵が、ナフサを越えて栄光を手にした。
ナフサは血が滲みそうな力で唇を噛む。
目を見開き、狂信者の顔で祭壇を睨む。
主の意向、それは自らに計り知れないものであったとしても、彼は自らが抱く暗澹とした感情を抑えきれないでいた。
その上、司祭から聞かされた話だと、その使徒の誕生を祝して、彼へ助力をせよというものであった。
そのようなことをせずとも、自分を使徒に任命さえしてくれたらトローレス中の軍艦をかき集めて、ルーン王国を滅ぼし、神のための国を作り上げる。自らの国のように、主の御国に付き従うように。
「私ではダメだというのですか?我が国ではダメだというのですか!」
悔しさの余り、ナフサは目の端を静かに濡らし、口からは血が滴り落ちる。
「まだ私の献身が足りぬということですか!サルウ王のように主の愛が私ではなく他の者に注がれているのを耐えろというのですか!罪深き私にはそれを我慢するのにどれほど困難なことか・・・主は試しておられているというのですか!ならばご覧に入れましょう!この嫉妬に燃える魂を沈め、主のお導きを信じることを!そして!それが叶った暁には、私こそが!私こそが真なる使徒であるとお認めください。彼の者のような信仰という布を被った盗人を使徒とするのではなく!」
歯を食いしばり、祭壇を見つめている瞳に暗い情念と決意を燃えさせて、ナフサは叫んだ。
「我が身命を賭して、主のお導きの通りに!我がトローレスが神国であるごとく!」
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扇状の湾の白い砂浜を囲むようにその都市はあった。
昼なら照りつける太陽が熱く頭上を覆い、白い石造りの家々が眩しく輝く。港は活気に満ちあふれて、貿易商人や奴隷達が雑多な道をひしめき合う。物売りの声、荷運びの馬、家畜の声、数千の足音、異教の祈りが溢れる異教都市ボルス。
だが、今は夜の帳がおりて、その港の活気も鳴りを潜めている。代わりに、最も活気づくのは港から少し奥まった一区画。
妖艶な女性達が軒先に立ち、酒と料理を出す屋台が列挙する娼婦街。
立ち並ぶ建物の窓に薄い麻の布を覆うが、怪しい光が零れて、嬌声とともに道行く人の情欲を誘う。
娼婦街は様々な感情が溢れている。喧嘩、睦言、野次、歓声、客引き、人が人たる性から切り離せない場所。
その娼婦街の一際豪奢で、巨大な館の最上階のベランダに一人の男が立っていた。
穏やかに流れる風は赤く燃える彼の髪をなびかせる。それは一頭の猛獣のような野卑と孤高の高貴さを併せ持つ顔の男。彼は寝間着として両脇にスリットを開けただけの絹のチェニックを金の装飾品が鈴なりに着いた細い革のベルトで結んでいる。そのチェニックには金の装飾が至るところに施されて、彼が一目で最上流階級の人間であることが分かる。同時に彼の身体は鍛え込まれて、人を薙ぎ、であらゆる敵を蹴散らせるほどの力を秘めている。
男は月を見上げていた。
月は満ちかけることもなく、潮騒が聞こえる海の向こうの上に夜闇の金貨のごとく輝いている。
「月を見ているなんて、貴方には珍しいわね。いつの間に詩人になったのかしら」
そのベランダに現れた一人の美女が男に寄り添いながらそう囁いた。
囁かれるだけでどんな男でも唾を飲み込むほどの妖艶さを放ちながら、彼女は赤い唇の端を裂いて静かに笑う。
女は身体の曲線が影として見えるほどの薄い紫色のドレスを着て、腰には小指ほどもある金のベルトで括れを強調していた。豊かな黒髪が肩を流れて、形の良い胸元にかかっている。髪すらも男の目線をその胸元に引き寄せる小道具のように、香油が仄かに香り艶やかに輝いていた。
「馬鹿をいうな。あんなものになっても金は稼げん」
月を見上げながら、男は女の顔を見ずに答えた。
「そうね。でも彼ならこう言うわ。お金を得られずとも、月の美しさを得られますと」
男の肩に手を置き、彼の身体に唇を這わせながら女は言う。
その話に興味をそそられたのか、男は振り向いて初めて女の顔を見て口を開く。
「その者はどうなった?」
「ずっと月の美しさを求められるように、お仕事を辞めて貰ったわ」
男の身体から唇を離し、くすりと笑って女は男に答えた。
その答えを聞いた男は一瞬女の瞳を見つめると、飽きたように首を振る。
「ふん、つまらん。興ざめだ」
「あら、月をみていた貴方が悪いのよ。どうしたの?」
「ああ、少し考え事をな。実に愉快なことがあった」
男は女の顔から目線を外し、笑って今度は街を見つめた。
その場所から見下ろす異教都市ボルスは夜を謳歌する夢魔が跋扈している。
赤々と火を灯す道や建物や家々。怪しげにはためく窓の布はその夢魔の息づかい。その無数の窓は精気を取り込み、生命に溢れた夢魔の瞳のように妖しく光り、男に恭順し見つめ返しているようであった。
その光景を男は満足して見つめる。
この快楽、この享楽、この官能。それらを束ねる快楽の王として、その光景を世に知らしめようと思っていた。
人とはすなわち快楽の従者である。
幾ら敬虔な修道士であろうとも金と女を握らせればたちまち自らの従者となり、その本能を解き放つ。
カソリエス教会の信仰も、王としての高貴さも男にとっては戯言に過ぎない。
その戯言を重ねて、彼を批判してきた者達に知らしめる。
信仰も高貴さも人の快楽の前には紙くずも同然と、その頂より見下し囁き、嘲笑する。
それほど愉快なことはない。
またこの世とは彼にとって遊戯である。
快楽を思う存分に貪り、楽しむ最高の遊戯場。
快楽とは、金を振りかざし他者を従えさせる優越感、女を心ゆくまで犯し尽くす官能、暴力で抵抗するものをなぎ倒す爽快感、そして権力を握り王座に上り詰めて全てを支配する全能感。
三つまでは制した。後の残るは―――。
「貴方が愉快になるなんて、また死人が出るわね」
自らの考えに悦に浸っていた男を遮るように女は呟いた。
男はその女の呟きに不快感もなく、あっさりと考えを止めて答えて自らが次に手に入れることを答える。
「殺すのも飽きた。金も使い切れぬほどある。そろそろ俺も権力を手に入れる時が来たようだ」
「ふふ、また怖いことを。何があったの?知りたいわ」
「王都から宮内府財務大臣秘書官の話が来てな。あの親子が俺を王都に置くなど考えもしなかった。だが、これはいい機会だ。北も動いている。今回の俺のことでも王都は水面下で焦っているようだな。東も何かしらの工作をしているに違いない」
男の言葉を聞いた女はハッとした表情で頭上で笑みを浮かべている男の顔を見た。
「王都に行ってしまうの?それは困ったわ。経営者がいなくては私の娼館はどうなるの?」
男は静かに女を見た。
「俺がいつでも女を抱けるように作っただけだ。お前にやる」
「そう・・・。でもやっぱり寂しいわ」
「そういう嘘は客に言え」
女はじっと男を見つめる。濡れた瞳が月の光を反射し美しく輝く。
彼女は胸に溢れる想いを自らの矜恃によって封じ込めて、気丈に笑いながら言う。
「だったら貴方ではなく、今から客と褥をともにした方がよかったかしら?」
「ならばその男は不幸だな。今日はお前を抱く。もし客がいたとしたら殺してでも奪い取る」
「初めて私を抱いたときのように?私の悪い王様。貴方はゴミためで生まれた私をここの女王にした」
女はそう言いながら男のベルトに手をかけて、服を脱がし始めた。
「だから、行く前に貴方は王としての勤めを果たすの」
「俺の子が欲しいというのか?娼婦の分際で」
「そうよ。私の悪い王様。貴方の子を成して、私はさらに上に行く。貴方が帰ってこなくてもいいように」
「ハハハ!強いな。いいぞ、ならば今宵は乱れろ。人生最後の夜の様に。快楽都市ボルス一の娼婦の名を俺に示せ」
女は服を脱がし終わった手を男の頬に沿わせて、見つめる。
「そうね。褥の上では私の方が貴方より強いわ。可愛い声で泣かせてあげる」
男はその女の手を掴み取り、女の唇を乱暴に、情熱的に奪う。
女は抵抗せずに、深い口づけを交わしながら自らの服をするりと脱ぎ、美しい曲線に形取られた裸体をさらけ出す。
男は口づけを終えて、その逞しく意志を灯した女の顔を手で撫でると、口を開いて笑った。
「いい女だ。だが、泣くのはお前だアスパシア。今宵は寝かせん」
「いえ、貴方よガーラン。その内わかるわ。私を抱いた男は皆、夜が来る度に泣くの。私を求めて」
その言葉を黙って聞き終わるとガーランはアスパシアを抱き上げて、天蓋付きの豪奢なベッドへと彼女を連れて行く。薄いヴェールをかき分けて、重なるようにベッドへ二人がなだれ込むと、妖艶な嬌声と激しい息づかいが涼やかな風に乗って快楽都市ボルスの夜へと溶けていった。
サルウ王=サウル王
聖書 サムエル記上 18.28 参考




