収穫祭の相談
黒くて重い雲が天を覆い尽くし、激しい雨を降らせる。雨は滴が痛いほどの激しさであらゆるものを打ち、バシャバシャと地面を濡らす。嵐のような天候で、俺とトルエスさんは無言でそれに耐えながら馬を走らせる。ブーケファロスが地面を蹴るとともに泥が高く飛び上がり、何度かその泥が背中に掛かった。
その雨は次第に雷を伴って、唸るような声を天空に響き渡らせる。本格的に落ちてはいないのでまだ落雷の心配はないが、すぐにでも落ちてきそうだ。マルックの毛皮のマントを着ているが、激しい雨のせいで全身が濡れて、腹の底から歯までが無意識に震えて手が硬直する。急がないと風邪を引いてしまう。なるべく体勢を低くして、雨が掛からないように走る。今は馬の鞍を通して伝わるブーケファロスの温かさだけがジンと心地よい。
雷は主神トールデンが身を揺らしたのが原因だとこの世界では信じられている。
その雷は主神が世界を見下ろして、人々を見守っている証だと。
雷が鳴れば信仰深い人々は軒先に出て、体を霊峰アラフェト山脈に向けて跪かせる。落雷が起きて、その雷に当たればそのまま主神の元に招かれる幸運で喜ぶべき栄誉なことだと言って。
主神なんていてもいなくても、そんなことで死ぬのが嬉しいなんて俺には馬鹿なことだと思う。
小さな子供まで外に出して、風邪をこじらせる方が俺にとっては気がかりだ。
雷の日は外に出るなという領の慣習を作りたいぐらいだ。
この世界の信仰はギリシャ神話に近い。主神トールデンがゼウスで多神教の中を一神教でまとめているところだったり、神話の中でゼウスが怪物テューポーンを倒した話に似た神々の戦いなんてものもある。
様々な神々が存在し、その中で頂点に立つ主神トールデン。
その慈愛で神の世界から地上に降りて、人間を祝福しその繁栄を導くとされた神。
俺は禅の祖父リオ・ラインフォルトから信仰というものを一切教えられなかった。ただ、日々をどう生きるか?人間の力だけでどう食べていくか?を教えられた。神というのは本の中の話であり、俗世から隔絶したような禅の屋敷では触れることのなかったこと。高校に入って初めて、神社やお寺というものにお参りをしたぐらいだ。
だから、俺にとって神とは人間が科学を知らずに、その自然の力を神という超常の存在を拠り所として説明したものという認識でしかない。あるいは自分という存在、あらゆるものの中で最も確かなその超越性を説明するために人類の進歩の通過地点だと思っている。人は自分という超越性を有している。それは主観だ。その主観の存在故に思い悩む、思想を醸成することができる。他者や他の生命や無機物と隔絶することができる。
初期の哲学の中で神とは絶対のものだった。だが、思想が発展していく中で神は死んだんだ。神は死に、そして人間本来に目が向けられる。それは現実に生きる人間だからこそ、その中でどういう風に存在しているかを考えてその主観が形成されると思っている。
この世界で俺には神がいてもそれは変わらない。神とは現実を作るものではない。その現実の一要素でしかない。俺という人間はその現実を生きるなら、神はただの現象になりさがる。どのような超常の存在があろうとも俺はこの現実に生きている。
だから俺は神を道具にして自分を考え、行動しよう。
ジョーミル侯爵がその『軍事概論』で教会と対決したように、俺はその考えを持って神に挑戦する。
それがこの世界に生きる俺の挑戦状だ。この領地やこれから様々なことが起こるルーン王国で生きる俺の立場だ。
俺は考えを新たにして、ブーケファロスを駆けさせる。この雷雨を伴った嵐の中で、濡れた手綱を握りしめて街道を走り続ける。
夜、屋敷に戻っても雷雨は変わらなかった。雨が強く降り、避難民達のテントは濡れている。俺はその間を明かりを手に持ってブーケファロスで歩く。
トックハイ村に着いたときにトルエスさんとは別れている。感謝と挨拶をしてトルエスさんが屋敷に戻るのを確認して俺は家に帰った。
避難民達は誰でもではないが、外に出て雨が落ちてくる天に祈りを捧げていた。少なくない人々の祈りの声が聞こえる。
それを見て俺は少し腹立たしくなった。
冷たい雨に濡れて、体調でも壊したらどうする?服の着替えもそんなに持っていないというのに無茶なことをして、と言葉をかけたくなるが我慢してブーケファロスを厩舎へと連れて行く。
そんなことを言っても価値観が違う。どれだけ声高に、命令しても人は一度信仰すればそれを捨て去ることは難しい。
別に信仰が悪いとは思わない。
ただ風邪を引いてほしくないだけだ。ちゃんと寝て、明日に備えてほしいだけなんだ。
俺は自分の無力さを悔しく思いながら屋敷の玄関まで行き、中に入らずに明かりを置いてマルックの毛皮を脱いだ。ずぶ濡れになった毛皮から大量の滴が落ちて、玄関の石の床を黒々と濡らす。水で濡れた毛皮を脱いだら体が軽くなり、少しすっきりする。だけどその一枚脱いだだけで寒さが堪える。身を震わせて、俺は脱いだ毛皮と明かりを抱えて玄関を開けて中に入った。
温かい。
そんな感想しか出なかった。屋敷は暖炉に火をいれているのか、外よりも随分と暖かった。
俺は玄関のすぐ横にある木のコート掛けの一番下にマルックの毛皮を掛けて、荷物を持ち部屋に戻ろうと歩くと、その音を聞いたのか声が掛かった。
「ゼン様、お帰りなさいませ。やっぱり濡れておりますね。少しお待ちください。すぐに布をお持ちします」
エンリエッタは玄関まで来ると俺を見てそう言って、また居間に引っ込んだ。
エンリエッタと代わるように居間からひょっこりと顔を覗かせて母上が出てきた。母上は濡れ鼠のような俺を見て、開いた口に手を当る。
「まあ、風邪を引くわよ、ゼン!温かいお茶を用意するわ」
「それは嬉しいですね。お願いします、母上」
俺は熱々の香木茶の香りを思い出しながら笑顔でそう答えていた。
この冷えた体を温めるには香木茶がいい。砂糖あったかな?今は疲れた体を癒やすには甘いものが必要だ。残っていたら贅沢に使おう。
その甘い熱々の香木茶を想像しながら俺はエンリエッタを待つことにした。
「エンリエッタ、報告したいことがあるんだけど」
俺は新しい服に着替えて熱々で砂糖のたっぷり入った香木茶を飲み干し、食堂のテーブルに座りながらそうエンリエッタに声をかけた。
ニコニコと俺がお茶を飲むのを目の前で楽しそうに見ていた母上が不思議そうに可愛らしく首を傾げながら俺を見る。
本当に母上は一児の母なのだろうか?年頃の女性だってこんな風に可愛らしい仕草をしていないように思う。
俺が声をかけたエンリエッタは配膳室でなにやら作業をしていたが、その手を止めてこちらを見た。
その顔は何を思っているのかあまり掴めない。静かにこちらを見て口を開く。
「なんでしょう?」
「リーンフェルト家の家計を守るエンリエッタに報告とお願いがあるんだよ。一緒に座ってゆっくり話したいんだ」
その言葉に一瞬エンリエッタは目を光らせる。
エンリエッタはこの屋敷の財布を握る人だ。
リーンフェルト領、というか俺たちリーンフェルト家の財布や家計を守る人物が二人居る。
リーンフェルト領の運営をするトルエスさんとリーンフェルト家の財務を管理するエンリエッタの二人。
この二人の立場はエンリエッタが上で、トルエスさんが下になる。それはエンリエッタが領運営の資本金などの財源を管理しているからだ。エンリエッタが管理する資本金を元にトルエスさんは領運営を行う、株主と経営者みたいなもの。
トルエスさんは領地の運営をして、その領地を潤すことで王国と領主である俺たちに貢献する。俺がこれまでに手伝っていたのはトルエスさんの領運営だから俺はエンリエッタの財務のことをあまり良く知らない。エンリエッタはそういうことを俺にさせるのを嫌い、手伝わせなかった。とは言え、俺もこの世界で半年以上過ごしているからここの資本がどれぐらいあるかは想像がつく。
一言で言うと、我が家はかなり裕福だ。
ルーン王国の国王から下賜された領地はある程度自立していて、それがそっくりそのまま手に入ったわけで、我が家からはお金はほとんど出していない。それに父上の年収もあったりすると我が家は蓄えが増える一方だ。それに加えて、ここでの生活は自給自足に近くてお金を派手に使う所があまりない。時たま知らないうちに俺の洋服ダンスに見慣れない服やら、貧しい領地にしては多い魔法薬などの存在がある。
襲撃を受けた後でかなりその財源はダメージを負っているが、エンリエッタが管理しているのだ流石にゼロになることはないはずだ。運営資金の調達としてトルエスさんとオークザラムにも行ったし、少しぐらいは蓄えを残しているだろう。
それを当てにして俺は今から収穫祭のことをエンリエッタに話そうと思う。
まあ、お祭りをするからと言う理由だけで資本金に手を出すのはどうかと思ったりするが、今は領地の危機だし、しょうがないよね。
「なんでございますか?」
エンリエッタは母上の横にある食堂の椅子に座ってそう聞いてきた。
俺は少し口ごもりながら彼女に説明をする。
「今日、ナートス村に行ってきてね。ちょっと問題があったから言っちゃったんだ。領地を上げて、収穫祭をするって」
その言葉だけで状況を理解したのか、エンリエッタは俺を鋭く睨んだ。
「ゼン様、昨日も申し上げましたが、そういったことはちゃんと相談してください。私もこの家を守るものとしてそういったことがないと、簡単に承諾できません」
俺はエンリエッタの言うことがあまりのも正論過ぎて、恐縮してしまう。
ぐっと弱音を吐きたい気持ちを抑えて言う。
「それも分かってる。俺が悪いんだ。ごめん。でも、領地の人たちは襲撃のこともあったり、畑仕事がなかなか進まなくて不満が溜まってるんだ。俺も領主の代理として彼らに少しでも報いたくて・・・それに宣言しちゃったんだ!ごめん・・・」
「はぁ・・・もう言ってしまわれたんですね」
エンリエッタは珍しくため息をつきながら、呆れたように言う。
彼女はため息の後で少し口を微笑ませて、こちらを見た。
「ですが、私としてもその考えは賛成です。領主様としては素晴らしい考えだと思います。ご安心ください。できうる限りのことは致しましょう」
「ありがとう!エンリ!」
俺は思わずエンリエッタに抱きつきたくなった。
「よかったわね、ゼン」
その横では俺たちが喜んでいるのを見て嬉しそうに母上が言う。
いや、母上は他人事のように言いますが、母上と父上のお金のことを相談していたんですよ?
もうちょっと真剣になられてもいいのではないですか?
そんなことを思って母上を見つめる。
「あら、ゼン。私にはお金のことをなんてさっぱりわからないわよ。そんな目で見ないで」
その思いが伝わったのか、肩をすくめて母上は自分には関係ない振りをする。
俺はその様子を苦笑しながら見てからエンリエッタに真面目な顔で声をかけた。
「エンリ、じゃあ相談なんだけど、最高の収穫祭にしたいと思っているから―――」
「ほどほどでお願いします」
俺の言葉を遮って、すでに無表情になったエンリエッタは冷静に言った。その顔はなんだか苦笑しているようにも見えた。
それから俺はエンリエッタと相談して、収穫祭の予算や規模などについて夜遅くまで話していた。
二人して横でうとうとと眠そうな母上に笑いながら。




