オークザラム⑩ 光り輝く絆
リザベラ夫人に館を案内してもらった後、俺とトルエスさんは個別に用意してくれた客室に入った。
客室は意外とこじんまりしており、地味だが素材がよさそうな机と椅子、そして一番嬉しいのは羽毛がたくさん詰まったマットレスのベッド。柔らかいベッドで久しぶりに横になる感触は気持ちがいい。清潔なシーツと布団もあって快適に眠れそうだ。
俺がベッドの感触を楽しんでいると扉をノックしてトルエスさんが入ってくる。
その表情は俺が見たことがないほどに焦燥し、瞳は怒りの色を帯びている。
出迎えたがそんなトルエスさんに俺は驚きつつ、椅子を勧める。
「ゼン、ヘルムート伯が言った公爵家との婚姻はまずい。あれは危険すぎる」
開口一番に彼は憎々しげな表情でそう言った。いつもと違う。余裕のない様子だ。
彼のあせり具合は分かる。ハスクブル公爵家との婚姻。寝耳に水だが、比較的中央主権を敷いたルーン王国で一公爵が氾濫を起こしても東部の一大勢力であるハスクブル公爵家と王国が協力すれば平定できる公算は高い。
俺が上手く立ち回ればいいのだ。言い換えれば会社の幹部クラスで起きる権力争いと変わらない。
俺は落ち着いた声を意識して彼に答える。
「ええ、分かっています。対立関係の矢面に立たされるのですから」
俺の言葉にトルエスさんは頭をかき、鋭く俺を睨んだ。そして少し声を荒げながら言う。
「いや、分かってない!この状況がどれだけやばいか。クローヴィス家はまずい。俺がお前に言ってなかったってこともあるが、あの家は異常だ。クローヴィス家はカソリエス教会の信教を基にした法を定めて、その領地での犯罪行為は神の冒涜であるとされるんだ。そして裁判はすべて宗教裁判だ。あらゆる拷問を受けて自白させられるが、ほとんどは有罪だ。拷問の苦痛よりも死を選ぶからな。それだけあの家はカソリエス教会の猛信者、いや狂信者といってもいい」
その言葉に俺は唖然としてしまう。
それではまるで魔女狩りではないか。火あぶりや水責めで魔女と断定し、残虐したあの禅の世界で克明に刻まれている宗教の暗い歴史。
そんなことははじめて聞く。クローヴィス公爵家や教会に犯罪行為と疑われるだけで拷問される。そんな攻撃的な領主が統治している場所なんか相手にすると考えるだけで恐怖を覚える。
だが、リーンフェルト領のカソリエス教会は違う。あの堅物だけど人のよさそうなドルット神父がそのようなことを訴えたことはない。そのような暴虐を父上が許すはずがない。
「そんな・・・。カソリエス教会はもっと穏やかではないですか」
「教会も一枚岩ではないからな。ここらにいるのがカソリエス教会でも穏健派のミティス派だからだ。ミティス派は元々一般信者からできあがった派閥だ。だから、あらゆる人に信仰を伝える宣教師のほとんどがミティス派から排出されている。ミティス派はその出自ゆえに信仰を強制しないがアースクラウン神国、本場は違う。あの国は生きている民すべてが完全なトールデン信仰の原理主義者だ」
彼は感情が抑えきれないのか、椅子から立ち上がって辺りをうろつきながら独り言のように俺に答えた。
その内容は完全に禅の世界でも存在する。自らの神を信仰するがゆえに凶暴な獣となる人々を思い出していた。
考えればそうなることぐらい必然であったと、なぜ気づかなかった。
神が存在する。信仰は信じるだけではなく、そこから隷属が起き、それを否定するものを攻撃するだろう。人は盲目に信じなくてもいい、ただそれに付き従えばいいという安心感が人の理性を狂わせる。理性が狂気に変わるのだ。
「くそ!あの狸め!やられた!」
トルエスさんは取り乱しながら叫ぶ。
あまりの事に俺は思考が付いていかない。
彼は尚も俺に状況を説明する。これ以上言われても俺には受け止められない。それぐらいに俺は思考が停止いている。
「その上、南部のフッザラー家は金の亡者だ。トローレスとの貿易で私腹を肥やしている。そしてそのトローレスは現国王となってからクローヴィス家に匹敵するほどカソリエス教会に従っている。そんな状態でカソリエス教会の後ろ盾をクローヴィス家が取るとフッザラー家は靡くぞ。たちまち王国は王都、ハスクブル家とクローヴィス家、フッザラー家に二分される。トローレスとアースクラウンの支援がある両家と対決して王国中が戦火で燃えるぞ」
彼が告げる内容で俺はルーン王国中に戦いの音が響き渡り、焼け落ちる民家、死に行く兵士達を想像できた。
かつて禅の世界で存在した数多くの大貴族間の抗争、血みどろの戦い。その戦いへとこの国は静かに向かっているのだとハッキリと実感する。
そんな渦中の矢面に立ってしまうのかこのまま・・・俺とハクスブル公爵家の婚姻が成立すれば。
だが、まだ決まったわけではない。
何とか落ち着くために一度深呼吸してからトルエスさんにそのことを言ってみる事にした。
「トルエスさん、まだ婚姻が成立したわけではないですよ」
俺の言葉にトルエスさんは歯を食いしばり、左手で額を押さえ長いため息をつくと声を上げる。
そのため息は苦悩に満ちて、俺の一抹の希望を暗雲の帳へと突き落とすかのようだった。
「いや、この婚姻は成立する。絶対にだ。相手があのハスクブル公爵家、つまり元王女マリアーヌ様の嫁ぎ先だからな。いいか、ゼン。マリアーヌ王女はな、トルイを愛していた」
その言葉に俺は頭が真っ白になる。
父上が一体どういうことをしてきたのかはわからないが、つまりハスクブル公爵夫人は父上を愛していた女性ということになる。
もはや状況が、伝えられた言葉の重みで体が傾いでしまいそうだった。ベッドに座っているがもう自分が座っているのかさえ実感がない。
トルエスさんは苦悩に満ちた表情で過去のこと、悲しい思い出を語るように王女のことを話し出す。
「マリアーヌ王女は美しくて素直で純粋な女性だ。王女としても人気が高かった。だがな、ゼン。彼女はどこまでも女だったんだよ。トルイを愛し、あらゆる手段を使ってトルイをものにしようとした。当時の王宮はそのことで混乱した。身分違いの恋なんて物語だけのことだ。トルイのことをよく思っていない貴族が彼女を利用して厄介払いしようとしたんだが・・・貴族たちの思惑を超えて彼女はやりすぎたんだよ。最後の最後でアイリを殺そうとしたんだ。それが問題になる前に国王はリーンフェルト領を与えてトルイとアイリを彼女から遠ざけた。だからな、自分が手にいれられなかったもの・・・それを自分の娘で手に入れられる。トルイのそばにいられるなら彼女はこの婚姻を確実に認める。何が何でも成立させるはずだ」
唖然としてしまって口が開かない。
母上を殺そうとした?そんな危険が母上に迫っていたなんて。
マリアーヌ王女の激しい愛に俺は吐きそうになる。一人の男を愛し、それが叶わなかった悲しい女性の物語。だがその物語の激しい憎悪が俺を臓腑から震え上がらせる。ただの物語ならいい。だがその矛先が俺の愛する母上に向いていると考えるだけで身が張り裂けそうになる。
その感情に眩暈を感じ、上手く考えが回らない。禅の時に学んだことが一切役に立たないのだ。
こんなはずではなかった。俺が学んだことはこんな人間の暗い感情ではない。猛々しくも燃え上がる憎念を俺は知らない。
トルエスさんは呆然とした俺を見つめている。
俺の瞳を鋭く見て、奥を見透かすように。今、彼は真剣に俺を見定めている。俺に教えようとしている。この世界のことを。
「それを全て見越してヘルムート伯はこの話を彼女に持っていこうとしている。わかったか、ゼン。この状況がどれだけ危険か。お前は聡い。俺の何倍も能力がある。だがな・・・貴族を舐めるな!たちまち骨の髄まで食い尽くされるぞ」
その一言に稲光を打たれた。
なんて俺は思い上がっていたんだと。先ほどのヘルムート伯の交渉が自分の思い通りに進んだと思い込まされていた。本当は違う。俺は完全にヘルムート伯の手のひらで踊っているんだ。いい気になっていた俺を殺してやりたい。
ゼルが殺されたとき俺はなんと感じた?
俺は油断した。火の仕掛けが上手くいったから都合よく撤退を考えて、それがすべて自分の思い通りになったと思い込んでいた。
そうしたらグラックパリオンにゼルが殺されたんじゃないか!
俺があの時、ゼルに近づいて敵に背を向けたからじゃないか!
俺は自己嫌悪以上に自分に激しい怒りを感じていた。
ゼルが・・・。ゼルが俺を守ったことを無駄にするのか!ゼルが死んだことを無駄にするのか!と。
俺は彼の死から何も学んじゃいない。
リオ爺さんが一番最初に教えてくれたこと。
一片たりとも無駄にはするな、その思いが俺に芯を入れてくれる。
俺は歯を食いしばりトルエスさんに聞く。今の状態では俺に考えはない。彼に聞くしかない。
「婚約を破棄させる方法はありますか?」
「ヘルムート伯を殺すしかない。んなことは無理だよなぁ!くそ!たかだか金貨400枚の餌に釣られて、食い殺されちまう!」
俺はトルエスさんが言う突拍子もないことを冷静に受け止める。
殺すことが確実だ。今の段階だと殺せば全ては白紙に戻せるが、俺ではヘルムート卿の側に仕えている騎士に勝てない。
ならば一番最後のカード。最も頼りになる人物。
「父上はどうですか?」
俺が静かに言うと彼は俺を諭すような目つきになり言葉を言う。
「お前、トルイはこういったことが理解できない。もし、理解してみろあいつなら確実にお前をとる。そうするとここはヘルムート伯とトルイが対立する!駐在軍の上層部がこんな最前線で分裂してみろ。今度はトランザニアに食い殺される。俺達は今完全に板ばさみだ!信用できるのは自分自身だけだ。俺もあてにするな!そんなんじゃ生き残れないぞ!」
彼の言うとおりだ。
なんて甘いんだ俺は。
そもそも当てにするのが間違っている。生き残るなら己を信じるしかない。
俺が黙って反省しているとトルエスさんは頭をかき、一つの提案をする。
「ゼン、お前は12歳になったら直ぐに王都のラライラ学校に入学しろ。おそらく成人まではこの婚姻を発表しないだろう。あの学校なら貴族の学生は戦火に巻き込まれない。警備も万全だ。リーンフェルト領にいて、もし外部に婚姻のことが漏れたら確実に暗殺される。例え護衛が付いていてもここやハスクブル公爵家の城ではトルイの息子であるお前は完全に妬まれる。それこそ妬んだ貴族に婚姻について一声もらせば暗殺を企てる」
彼の提案は非常に的確だ。俺は成り上がりのトルイの息子だ。他の貴族からすると有名すぎる父上の名に妬む輩は大勢いるはずだ。暗殺したいと思う者もいるだろう。それがハスクブル公爵家との婚姻ともなれば公爵家の地位を狙っていた上流貴族が群れをなして俺を狙うかもしれない。そんなことは容易に想像できてしまう。
トルエスさんはその提案を俺が真剣に考えている様子を見て、少し落ち着きを取り戻す。
さきほどまで甘く考えていた愚かな俺がこの状況を理解し、気持ちを入れ替えたのを感じ取ったに違いない。
彼は俺に近づいて、屈み俺の両肩に手を置く。優しい彼の瞳が俺を覗いていた。
「すまないゼン。興奮してしまった。だがこれしかない。ただの時間の引き延ばしだけだが俺にはこれ位しか思いつかない。俺がどんなに努力しても状況は俺の上で巻き起こっている・・・無力な俺を許してくれ。月並みな言葉だがお前は今、自分自身のみの力で生き残る術を持たなければならない。このくそったれな世界で生き残るんだ。そのために俺は出来うる限りのことはする」
本当に彼がいてくれてよかった。
そうでなければ近い将来に俺は自分の傲慢さで身を滅ぼしていたかもしれない。
ここは禅の世界とは違う。死が常に側にある。それを分かった気になって忘れていたのは俺だ。
分かった気になっていた言葉で自分を騙すことはもう止めよう。
俺は彼の瞳を見返しながら決意する。
「トルエスさん、ありがとうございます。俺を助けてください。俺は生き残ります」
彼に助けてもらうこと。
彼を当てにするのではない。俺は彼とともにこの世界で生き残る。俺も彼を守り、彼も俺を守る。そうでなければ、こんな世界では塵のように消え去ってしまう。
「ああ、もちろんだ。生き残るぞ、ゼン」
俺の言葉を受けて真剣にトルエスさんが言葉を返しながら頷いた。
その仕草に彼との強く輝いた絆を俺は感じる。
明るい日向を歩いていたゼン、彼はここにきて引っくり返されます。
それはドロドロとした暗い日陰。彼はこの世界の暗い部分を知ります。
父や母の過去。教会の恐ろしさ。貴族の狡猾さ。
そんな中でも彼は絆を感じます。パンドラの箱のように、最後には希望があります。そんなお話でした。
生き残れゼン!
こっちは一気に状況が複雑になって書くのが大変なんだからね!