穏やかな日常
三人称視点です。
温かい春の光をたっぷりと溜め込んだ風が教室のカーテンをはためかせて、禅の顔を撫でた。柔らかな春風は禅の髪を梳いて流し、彼は漏れる光に目を細めて外を見る。
そこはどこにでもある朝早い高校の教室。少し年期の入った床と使い古された机が規則正しく並んでいる。窓側の最前列の席が禅・ラインフォルトの席だった。
彼は黒い髪だが、目は碧く顔立ちは日本人離れしている。整いすぎて目鼻立ちは冷え冷えとした鋭利な刃物のよう。ただ今は少しその顔が何かを迷うように曇っていた。
禅はこの学校では浮いた存在だった。
入学当初はクォーターの美貌で女子生徒を色づかせるが、同年代達が聞いたこともないような堅い言葉とピリピリとした彼の雰囲気に飲み込まれて誰も近づけないでいた。声をかけてもその碧い瞳から心を見透かされているような気にさせ、あまりにも周囲とは違う存在感で声をかけた者は言葉を詰まらせる。禅が答える前に他の者は謝って逃げていく。
彼へと最初に近付いたのは、校内でも特に素行の良くなかった上級生だった。目つきが気にくわないと吹っかけるが、彼はそれを全て無視する。それに怒った上級生達は仲間を引き連れて彼を校舎の裏へと呼び出すが、後悔したのは上級生達だった。嗚咽と反吐をまき散らしながら地面にうずくまる。
彼らは知らなかった。暴力という怪物を知った禅が、その怪物の使い方を心得ていることに。彼らのちっぽけな報復の意志を禅は完全に折ったのだ。
そのことが校内で噂になり、彼に近付いてはならないと見解が全校生徒の間で一致する。
しかし、次第に禅は周囲に馴染んでいく。
彼は持ち前の学習能力と人間観察で瞬く間に順応した。言動も雰囲気も優しくなり、一人ずつ彼に声をかける者が増えていった。積極的とまではいかないが一定の距離で禅は周囲と関わりを持ち、普通の高校生というものを学んでいく。
友人は多くないが、角が立たない人間関係で高校生活をこなすことが、祖父を亡くした彼の二年間だった。
平穏な日常、不足のない生活。
禅は祖父と暮らした生活が他の同年代と比べて異常だったことを初めて知った。死にかけるような稽古や少年兵訓練キャンプや大会社の秘書見習いもそこにはなかった。一点、不満があるとしたら予備知識もなく普通の高校生活を過ごす驚きだろう。同年代の友人と遊んだ記憶はあまりなく、娯楽と言えば読書のみ。それも堅い古典書。友人と話を合わせるためにテレビを購入しドラマを見て、流行の本を買い込んで一から知識を吸収しなければならない。
彼はその驚きの生活の中で、ゆっくりと積もっていく羽毛のような真綿に息が詰まる思いをしていた。苦しみのない緩やかな絶望。彼にとってそれは死と似ている。目的もなく不自由のない生活は、緊張を強いられ苦しくも生への実感に満たされた修業時代をより際立たせ、彼に迷いと焦りを与えていた。
彼の祖父が強引に見せた世界の一部はあまりにも鮮烈で、彼はそれが本当の世界だと信じている。鮮烈な世界での修行は全力で走り抜ける価値があり、その全てが自分のためとなると確信していた。それに向かっている間、彼は世界への拓けた全能感と達成感に包まれる。どんな場所でも自分なら生きていける、その思いが彼に一種の酩酊にも似た希望となり、あらゆる苦痛から彼を解放していた。
だが、それが突如としてなくなり、世界が一変する。その衝撃は様々なことを学んだ彼でも容易には受け入れられない崩壊だった。どこにも逃げられず、足下から自分の地盤が崩れゆき、宙に放り出される。自分というものが崩れていくような気がしていた。
一枚の紙切が、まざまざと彼にそのことを見せつけている。
その紙は進路調査票。他の生徒達にとっては不安と希望の妥協点を記載する紙切れだ。無数に存在する希望から自分の精一杯の努力でたどり着ける合理的判断のもとに下される。時には冒険心と虚栄で、欄の上に背の届かない希望の場所を書き込むだろう。しかしその下には常に現実と合理性が書き込まれる。
禅は望めばどこにでも背が届いた。全国模試でも上位者である彼に選ぶ不自由はない。ないのは自由への意志。選ぶ以前に彼は決定する意志を持ち合わせていない。望むがままを手に入れられるのに望みがなかった。
祖父の遺産と彼の知識。祖父が残したそれらを禅は受け継ぎ、富めるものの一員と今なっていた。他者が禅の悩みを聞いても理解は難しいだろう。いくら優しく気遣い、ゆっくりと見つければいいよ、と言われたところでその心の底ではちらりと妬みの炎が揺れる。禅はそれを機敏に感じるが故に誰にも相談せず、ただ黙って己を顧みている。
聖職者は別として、高い知能と熱い信念を持ち、社会貢献のために官僚、政治家、企業家、医師などになることも彼の頭にはあった。特に医者は、少年兵訓練キャンプから卒業試験のために乗せられたトラックの荷台で難民キャンプに駐留する非政府組織の医師達を見たことがある。同乗していた監視役の訓練官は医師達を不信仰者と揶揄して唾を飛ばしていたが、彼にとっては神という存在が眉唾物だ。トラックが通り過ぎる僅かな時間でじっと見守り目に焼き付けた。
その人達は、瓦礫と砂塵が覆う難民キャンプで汚れていない唯一の存在だった。その時の彼は、いつか自分も同じような崇高な信念で何かを追い求めるのだろうと漠然と感じていた。祖父の下で修行を積めば、いつかそれが叶うと信じていた。
しかし、現実は祖父の死で禅は迷っている。祖父がどんな目的で彼を育てたのかはわからない。
禅は今、自分の望みではなく、祖父の望みを探っている。針の穴に駱駝を通すよりも困難なことをしていたのだ。
禅の祖父リオ・ラインフォルトの過去は謎に包まれている。方々手を尽くしても戸籍ぐらいしか彼の過去を知ることはできない。戸籍ではフランス生まれで由緒ある家柄だそうだ。フランスの田園地帯の不動産を所有し小さな会社を興していた。それがどうして永住許可を得られたのかは知らないが、確実に言えることは日本の国益に貢献したということだ。
調査した書類にはどれも表面上の事しか書かれていない。禅が祖父の望みを知るような手がかりはそこにはなかった。
「・・・」
禅は迷いに喘ぎ、ため息を吐いた。そのため息は春風に紛れて彼の横へと流れていく。
「悩み事ですか?」
ほんの小さな音が一人の女生徒の耳に入り、禅にそう聞いていた。清涼で涼やかな声。
禅は少し驚きながら隣にいた女生徒の方へ顔を向ける。
そこには百合の花を思わせる可憐な少女が上品に座って、禅を微笑みながら見ていた。
天月翠。黒絹の反物のように光沢ある深くて長い髪を腰まで垂らし、白い肌は汚れを知らない生成りの絹のように滑らかだ。側にいるだけで白檀の香りが立ちこめるような美しい日本人女性。
禅は天月翠といると、祖父と暮らした屋敷を思い出す。檜や畳の匂いに溢れた日本家屋で午後の日だまりの中を眠っていた幼少期。彼女だけは祖父との記憶を柔らかいものにしてくれる。
禅は自分が吐いたため息が聞かれたことに苦笑し答える。
「ああ、進路のことでね」
彼女は禅の答えに首を傾げる。天月翠は学校にいる誰よりも禅の事を知っていた。
禅は大きな悩みを抱えているが、日常生活で悩むことはほとんどない。これは厳しい修行の中で彼が体得したことだが、悩むことは優先順位がつけられないということだ。その一瞬の逡巡によって傷を負うのが日常茶飯事だったために彼は最初から答えを用意するのが常だった。
天月翠はその彼の迷いに小さく目を見開いた。
「珍しいですね。ラインフォルトさんならどこの大学でもいけると思いますけど」
禅は彼女の答えに微笑んだ。その微笑みはどこか空虚だった。
「大学にこだわりはないんだよ。何をしようかと思って」
天月翠は禅の言葉で少し考える仕草をとり、あまり良い考えが思いつかなかったのか首を傾げつつも尋ねる。
「剣道とかはどうですか?インターハイ初出場、初優勝なんですからそのまま世界大会とか」
「剣道か・・・」
禅は呟くとそのことを考えた。
彼は剣道のインターハイ優勝経験がある。祖父と武術の稽古は主体が刀だった。一度はそれも目指してみたが、禅の剣術は完全な実戦形式で競技ルールを守っても邪道、卑怯と罵られた。優勝して評価されるどころか嫌悪される始末。あまりにも周りと試合への気構えが違うために結局、彼は剣道部を辞めてしまった。全力で戦えないのなら意味はないと。
禅はその時のことを思い出して肩をすくめる。
「剣道も考えたことはあるけど、人生として考えるのはちょっとね。それだったら、大学の経営学部に入って卒業したら会社でも興すよ」
「すごいですね。やっぱりラインフォルトさんはちょっと違います」
天月翠は禅の返答を聞いて、ため息交じりにそう言った。彼女はため息を吐きながら禅がどのように学校で過ごしているかをずっと見てきた。
禅は学校生活であまり自分の意見を述べない。静かに聞いて答えを求められら答えるという消極的な部類に入る。しかし、教師や他の学生達の印象は違っていた。年齢以上の落ち着きと凄みがある禅は、嘘もごまかしもなく、ただ理路整然とした言葉で周囲に向けて話す。
集団の中で正しい意見は通りにくい。正しい意見が効果があるのはそれを冷静に分析できる人が多くないと難しいのだ。多感な思春期でころりと意見が変わりやすい集団をまとめるには、彼らに響く言葉を選ばなければならない。身につけた技術で禅はそれをくみ取り、意見を断言する。
禅という存在は異質だが、周りを落ち着かせて従わしてしまう雰囲気があった。教師も扱いづらいと感じる場面もあるが、最終的には彼を頼り甲斐のある存在として認めている。
天月翠の言葉はそんな彼に向けられた言葉だ。学校で浮きつつも、ひとかどの存在としての禅を。
「そうかな?会社経営なんて誰でも考えそうだけど」
禅は不思議そうに天月を見ていた。
彼自身はそんな自分のことを正しく認識しているが、特別だとは思っていなかった。彼は息を吸うのと同じく、そうなるように作られている。
不思議そうな顔を浮かべる禅を見て、天月翠は微笑む。
「まあ、考えるだけならそうですけど、ラインフォルトさんなら本当にできて、成功しそうな感じです。私のお爺様の会社でも働いてらっしゃいましたし」
「隆源爺さんか。働いたってほどのことしてないけど、いまのところ大学卒業したら爺さんの会社でお世話になろうかと思ってる」
そういって禅は天月翠の顔を見ながら彼女の祖父とは思えないような線の太い快男児を思い浮かべた。
天月隆源。
彼女の祖父であり、総売上二兆円を超える天月総合商社の会長。以前、禅が修行にいった大会社の社長でお世話になった人だ。豪放磊落、一度は不況のあおりを食らい業績は低下したが数ヶ月で立て直した経済界の長。そんな大会社に就職するのは、最難関の大学に入り、数万以上もの就活生から選ばれた一部の人間だけだ。本来なら簡単なことではないが、禅はその現会長から直々に入社を認められている。書類だけだせば高校卒業後でも最優先で入社可能。
天月隆源は禅を気に入っている。秘書見習いでも、大事な会議や記者会見、株主総会といった場所へ常に彼を伴って出席して、周りの人間からも禅が後継者なのかと勘ぐられていたぐらいだ。彼に会社の一部門を任せられた時はある意味で最も胃を痛めるような経験だった。
彼は禅を信頼しており、仕事だけではなくプライベートでももう一人の孫だと言っては何かにつけて呼び出していた。
禅は、大恩もあり、そんな天月隆源に少しでも恩返しできればと考えていた。もしそんなことを考えていると知られれば、水くさいと言われて殴られるとわかっていても、彼にはそれぐらいしか迷いを振り払う手段はなかった。
でもそこに祖父が望んだ物はあるのだろうか、と禅は寂しさを滲ませて思った。天月総合商社で働くだけならあのような過酷な修行をする必要はない。
禅の祖父が教えてくれた武術や知識。それらのピースをどんなに集めてつなげても、祖父が望んでいた絵を禅は見ることができない。。
一体、彼は何を求めていたのだろうか。
一体、彼は俺という絵をどんな風に完成させたのだろうか。
不意にわき起こった不安が禅の脳裏をかすめる。その不安は恐ろしく深くて底知れない。
禅は祖父を疑問視しているのではない。彼は祖父が作り上げた自分という絵を、自分が分かっていないことに対して不安を抱いていた。
祖父が死ぬ前に禅自身を誇れと伝えた。だが、禅は彼が何を誇って良いと言ったのか分かっていない。
祖父を失い取り残された子供は、長い時をかけて、初めてこれが喪失感だと理解した。それを理解したとき彼は世界でただ独りきりの孤独を味わう。世界が暗闇に飲み込まれ、自分だけがその場所に存在するような途方もない寂しさが胸を締め付けた。胸が砕け、散り散りになった欠片が暗闇に消えていく。
もう永遠に失われてしまったのだ。砕けた魂は永久に戻ることなく、禅は自分が永遠に祖父の思いを知ることができないことに心の中で嘆いた。
彼はただ祖父が誇った人間になりたかった。
彼の墓標に胸を張って生きていると言いたかった。
それが禅の願いだった。
「納得はしてらっしゃらないのですね?」
禅が考え込むのを見て、天月は、どこか誇らしげに笑って尋ねる。
深く考えて彼女のことを忘れていた禅は、その言葉で目が覚めたように少し驚く。
彼はどんなに辛くても表情をコントロールしている。先ほどまでの考えが彼をさまよえる羊にしようと関係がない。それが彼の生きていた場所で身につけた技術だ。
途切れていた会話を思い出す時間を少しおき、彼は天月翠に申し訳なさそうな顔で答える。
「・・・すまない。隆源爺さんのところで働くのが嫌というわけでは・・・」
「はい、分かっていますよ。昔のラインフォルトさん・・・いえ、禅君はもっと生き生きしてました。いまが悪いという訳ではないのですが、最近は風が吹けばふらっといなくなってしまいそうな、そんな顔をしています」
彼女は禅の顔を伺うように上目遣いで、昔の遊んだ時のように彼の呼び方を変えてそう言った。彼女には表情には表れていないが、時折見せる禅の寂しげな雰囲気が気にかかっていた。その時の彼はまるで手を伸ばしても掴めない風のようだった。そうなってしまうと彼女は不安になる。
禅は彼女を見ながら苦笑した。
「そんな顔してたか。うん、本心をいうと納得してない。リオ爺ちゃんが誇れるような生き方ができてないと思ってる」
「なら、それが見つかるまで旅をすればいいんじゃないんでしょうか?禅君」
天月翠の言葉に禅は一瞬考え込んだ。
一年か二年。大学へ進学せずに免許をとって車かバイクで全国各地へ行くのもいいと彼は思った。祖父が連れて来た家庭教師達を訪問して、祖父の昔話を聞き、それからゆっくりと人生を考えるのもありだと。
ふっと心が軽くなる。それがとても名案だと感じたのだ。何も慌てて進学しなくてもいい。十年ぐらい遊んでも大丈夫な資産は十分にある。今まで人の五倍ぐらいは生き急いできた。少し緩めて、旅に明け暮れたとしても誰も文句はいわないだろう。
地平線の先まで続く道を気ままに駆け抜ける。風を肌で感じ、脳みその血がぶっ飛ぶような速度で走れば何もかもを忘れ、今みたいにふっと何かが下りてくるかも知れない、そう禅は思いながら呟くように言う。
「旅か・・・。それもいいかもしれない。それにしてもよくわかるね」
禅は言葉の最後で名案を授けた女神を賞賛する。それに喜んだ彼女は得意気な顔を浮かべた。
「ええ、これでも幼馴染で許嫁ですから」
天月翠は冗談めかす。
事実、彼女の祖父はそれを冗談だとは思っていない。天月隆源は、禅が都内の高校に入学するとわかって、彼女を中高一貫の名門女子高校からわざわざ禅と同じ学校にいれたのだ。
その本気さを禅もよく知っているので困った表情をして首を振る。
「やめてくれ。あれは爺さんの冗談だよ・・・そう願ってる」
「あら、それは残念です。フラれちゃいましたね」
天月翠はころころと笑った。
禅は呆れた声を上げる。
「降参だ。からかうのはよしてくれ。でもありがとう、気が楽になった」
「いえ、どういたしまして」
そう言って互いに微笑んで見つめ合うと、見計らったようにガラガラと扉の音を立ててクラスメートが入り、朝の挨拶と共に教室が騒がしくなる。二人は目配せをすると会話を止めて授業の準備を始めた。
「でも、ちゃんと帰ってきてくださいね、禅君」
天月翠は騒がしくなった教室の中、誰にも聞こえないような声で独り寂しそうにそうつぶやいた。
春風はその声を運ばず、禅にはその呟きは聞こえなかった。
◆◆◆
―――ふぅ。
禅は一息つき、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングのソファに座り、テレビをつけ、パチパチとチャンネルを変える。
平穏で緩やかな授業を終え、自宅の道場で鍛錬を行ってさっぱりした後、独り静かに過ごす。
彼にとっては心地よい時間。毎日を平和に過ごしている実感。
そして言いようのない焦りが胸をチクリと刺す。今朝、天月翠の言葉に救われたとしても彼にはやはり不安と迷いが沈殿している。平穏を謳歌するほどそれがふわりと巻き上がり、彼の胸へと小さな傷をつけた。
祖父は何がしたかったのだろうと、禅はまた振り返る。厳しい修行の中で彼との記憶を掘り起こし、意味を探る。
―――総理大臣になれとでもいうのか?
武術は身を守るため。そう思ってそれを考えから閉め出すと、祖父からの教えは指導者を作ることに思えた。彼が語って禅に聞かせた多くのことは、集団のリーダーであり、国という大きな枠組を運営する方法だ。それも過去の偉人達、西洋の為政者の話。
しかし、禅は日本で総理大臣になったとしても祖父が望み、自分が全身全霊をかけるようなことには思えなかった。確かに、平和を維持し、国を背負う重圧があり、価値のあることだと思っている。それでも紛争地域に行くようなことが総理大臣に必要かと問われたら答えはノーだ。彼が自分の技術と知識が十分発揮できるような地位ではない。
―――なんてだいそれたことを。
禅はかぶりを振るう。それは自分の思い上がりだと恥じた。自分の得た知識が釣り合うからと言って目指すようなものではない。国のトップになるというのは心の内からわき上がる純粋な願いだ。例え若き日の炎が消えていようと、その志が立った時には燦然と燃え上がらねばならない。そうでなければ共に立ちあがった者や支持してくれる人達への裏切りになる。
馬鹿な考えはよそうと禅は全てを忘れるためにテレビ番組に集中する。
それはある男の物語。
映画なのかドラマなのか分からないが中世ファンタジーだという事は分かった。
一人の男が旅立つ。孤児の男は友もおらず行く当てもなく放浪する。襲いかかる敵を倒して名を上げ、ある国に仕えた。だが、途中で国の重鎮に裏切られ命かながら国を脱出する。悲嘆に暮れるも男は再び旅に出る。今度は地の果てを目指し、異なる大陸へと赴き、世界の秘密を知り、大いなる力を得て再び生まれ育った大地へと戻った。彼は旅先や人々との交流の中で友を作り、友は仲間となり。家臣となって小国を興す。
その時世界は戦乱に燃えていた。彼はその小国から躍進する。ひとつ、またひとつと国を統合し、彼は偉大な王へとなる。その才は戦だけではなく、民をよく統べ、法を敷き、国を発展させる。その国はさらに隣国と同盟を組み、それは大陸を覆い尽くすほどの規模へとなる。
彼は世界を駆け巡った。彼に付き従う家臣や騎士達も、他の国の王でさえも彼と共にあることが誇りとなった。そして世界は平穏を迎える。
物語が終わるかと思ったが、まだ続いていた。
平穏の中、多くの人達から惜しまれ彼の寿命は尽きる。悲しみが冷めぬ間に、彼の後継者を巡って争いが勃発する。彼という存在がつなぎ止めていた国同士が離反し、争いが激化。
彼が理想とした世界が崩壊する。戦、飢餓、疫病が蔓延し、世界が疲弊する。
そこで物語が終わった。
「なんだ・・これ・・・」
禅は茫然とその物語の終わりを見た。濡れた髪は既に乾ききり、時間はもう深夜に差しかかっている。
彼には理解できなかった。その物語で主人公は自分が亡くなった後の事も明確に示し、平和が続くように細心の注意で取りはからっていた。
その手腕は禅も納得するほどよくできていた。だが、それは見る見る、それこそ導火線に火が付いたように破裂した。
―――国の裏で何かがあったのかも知れない。
禅はソファにもたれかかってそう思った。普通なら視聴者のも納得できるようにその裏側を描くはずだが、禅が見た物語にはそれが一切ない。禅は、言い難いやるせなさと物語を描いたスタッフに一言文句を言いたくなっていた。
彼は思考する。
自分ならどうするか?と。
彼は自分がこういった事を考えるために、知識を叩き込まれたとさえ思っている。
考えれば考えるほどに禅は主人公が羨ましくなった。
誇りと誉れの中、全力で敵将と戦い、仲間と共に感じる高揚。命をかけて付き従う騎士達、そしてそれに答える主人公。命を燃やし尽くした多くの出会いと別れ。
そこには今の禅が手を伸ばしても届かない崇高な輝きが光っている。
純然と彼の心にある思いが浮かぶ。
―――俺も彼のように生きてみたい。
自分の手足で、命をかけ、友たちと絆を確かめ合い、国を大きくし、世界を駆け巡りたい。
そこに自分が求めている答えがある。
「世界を統治するなんて夢物語だ」
彼は自らの妄想を一刀で切り伏せる。これがただの現実逃避だと自分に言い聞かせた。
彼は自分の考えを消すために寝てしまおうと決めた。リビングのテレビや照明を消し、寝室に向かう。
こんなにも疲れていたのかと驚くぐらい急激に眠くなる。目蓋が重く、身体でさえ自分の意志とは関係なくフラフラとした足取りで何とかベッドに辿りつき、心地よいひんやりとした布団に潜り込んだ。
その感触を楽しむ間もなく、彼は意識を失うように深い眠りへと落ちていく。
まるでこの眠りがすべての祝福であるかのように。
この日から彼の人生は大きく変わる。それは歯車。様々な人々がもつ歯車は噛み合い、軋轢を生みながらもガラガラと轟音を立てて回っている。巨大すぎて、決して人がその全てを眺めることはできない。それは一個の惑星という機械の歯車達。『運命の連なる歯車』が彼を飲み込んでいった。
10/6 修正いたしました
2016/04/18改稿しました。
サブタイトルを検討中です。