平穏なるゼン・リーンフェルトの日常
10/7 一部加筆修正しました
なるべく音を立てないコツは丹田に意識を集中して、重心の位置を固定、下半身はなるべく力を抜いて前に重心を傾けたら自然に足がでるようにすること。腸腰筋や足腰を鍛錬していると自然に足音を殺す歩き方ができるとリオ爺さんに教わった。
両手がふさがっているので苦労しながら屋敷の扉はゆっくりと開けて、音がでない様に。
音を立てずに扉を閉めた時、俺は安心で小さくため息が出る。
「ゼン様」
なので声をかけられた時は、飛び上がるほど吃驚した。
エンリエッタが明かりをもって屋敷の玄関にいる。
無表情なのがことさらに怖い。
「奥様!ゼン様がお戻りになられました」
エンリエッタは声を出して、母上を呼ぶ。
冷や汗が出る。
ドタドタと食堂から母上が飛び出してくる。
「ゼン!遅いわ!もう夜よ!?」
食堂から飛び出してきた母上が仁王立ちでそう怒りをあらわにする。
じっと俺をみて、溜息をつく。
「もう・・・大体何があったかわかったわ。とりあえず食堂に来なさい」
「はい・・・」
俺は母上を先頭、後ろにエンリエッタという逃げ道のない状況で食堂に連れていかれる。
食堂のテーブルにとりあえず両手に持っていた籠を置いて、母上に深く頭を下げる。
「すみませんでした、母上」
頭を下げているので母上がどういった顔をしているかはわからないが、溜息をついて呆れているのだろう。
「頭を上げなさい、ゼン。もう、お父さんと同じね。頭を下げて謝ればいいと思ってるんじゃないの?」
「い・・・いえ・・・そんなことは」
横でエンリエッタが手を出したので、釣られて肩に背負っていた弓と矢筒、腰の短剣を渡す。
流石はエンリエッタ。その所作も美しい。
「どうせ、狩りが終わった後の宴会に付き合ってたんでしょ?」
「はい・・・。今日は特に大きい獲物がとれたので・・・」
「はぁ・・・。大きな獲物がとれる息子に喜んでいいのか、謝る姿があの人そっくりなことに呆れたらいいのかわからないわ。いいから、身体を拭いて着替えてらっしゃい。すごい臭いよ」
母上は嫌そうな顔で鼻を抓む仕草をする。
その横ではエンリエッタが、お湯の入った桶と身体を拭く布をもっている。
いつの間に。
「ゼン様、身体をお拭きします。お部屋に行きましょう」
「あ、いや自分で・・・いえ・・お願いします」
じっと俺を訴えるように見ているエンリエッタに負けてしまった。リーンフェルト家ではこうなったとき男の立場は弱い。父上が怒られた時はなるべく擁護しようと思う。この二人にこんな風に見られると反論なんてできない。
リーンフェルト領の視察から半年経つと俺の生活は一変した。
父上は家に戻ってから一カ月ほど領主としての仕事を終えて、また任務にもどっていった。その間に剣術はお墨付きをもらって今は自衛団の訓練監督もしているルーン王国辺境警備隊のゼルさんに剣術の稽古を担当してもらっている。警備隊というのは禅の世界で言うと警察の派出所みたいな感じで国から警備隊を20人ほどが領地で警備を引き受けている。中でも警備隊長のゼルさんは52歳だが唯一の祝福もちだ。リーンフェルト領内に奥さんと引っ越してきている。
午前中はゼルさんや自衛団の人と稽古をしている。ルクラの長男アルザスも自衛団に所属しているので一緒に汗を流している仲間だ。
午後は、その日によって変わる。トルエスさんのところは小さな領なので仕事があまりないらしい。俺が手伝うと仕事がなくなるからと言って、週に2日程度トルエスさんの屋敷に掃除に行ったり、交易商人との相談や商談に付き添っている。
夕食に関しては、ウチの屋敷でとればどうか、と聞いてみたら俺の屋敷は独り者からすると毒なのだそうだ。なんとなく昔何かあったのかと思ってしまう。
なので、週4日はトックハイ村やちょっと足を延ばして他の村に行き、領地の仕事を手伝ったりする。トルエスさんから言うと領民と一緒に仕事をするのが領運営では一番の勉強になるとかなんとか上手いことを言われている。
本当にあの人は口が上手いと思う。
領民の暮らしに俺はすんなりと入ることができた。
することと言えば、禅の世界でしていた暮らしに近いからだ。狩りなんて5歳から15歳までよくしていたので動物の癖を知れば難しいことはなかった。イノシシのようなマルック、鴨のようなナルスト鳥、鹿のようなギルクークなどが主な標的だ。今日の獲物はイススと呼ばれるでかいクマのような獣だ。クマよりかは比較的穏やかだけど400キロもありそうな巨躯なので仕留めるのに矢を15本ほど使ってしまった。俺の力が足りないので矢が刺さりにくい。刺さっても浅いので、迫りくるイススから逃げつつ、大量の矢で何とかしとめられた。
ドルグの爺さんは試練だとかいって見てるだけだし。
仕留めた後にトックハイ村の男手20人ばかりで運んで、そのまま解体、宴へとなだれ込んで、なんとか途中で辞退して屋敷にもどってきたというわけだ。
チャプン
エンリエッタがお湯の入った桶に布を浸す。
彼女はシャツを脱いでいた俺の身体を見て、そっと手を伸ばす。
その手はいつの間にかできていた切り傷の上を優しくなぞっていた。
彼女の瞳は氷のように青く透き通っていてその表面には水面のように僅かに揺れていた。
「ゼン様・・・あまり無茶をなさらないでください」
あ、やばいと思った。
ここ最近、禅の経験が混ざっている俺は、感情があまりないように感じる彼女が実は非常に感情的なことを悟っている。
この表情はとても心配している顔だ。母上のように怒るでもなくただ不安げにされるとかなり堪えてしまう。
「ごめんよ、エンリ」
彼女は無言で静かに丁寧に俺の身体を拭く。
水仕事などで彼女の手はちょっと荒れているが、慈しみ深い優しい女性のもの。
「ゼン様が無事にお戻りになることだけが私の望みです。ですからお怪我のないようお願い致します」
そういうと彼女は、拭き終わり、新しい綺麗な服を着せてくれた。
「ありがとう、エンリ。気を付けるよ」
落ち込みそうになりながらも俺は彼女にお礼を言う。
「お願い致します。食堂にご夕食をご用意しております。奥様も食べずに待っておりますのでお早めに下りてきてください」
エンリエッタは頭を下げて、部屋を出ていく。
失敗したなと俺は溜息をついて、ズボンを脱いで下半身を拭く。
今度はもう少し早く戻ろう。
そんなことを考えていた。
翌日、この日というか一週間に一日は母上とエンリエッタと過ごす日にしている。
朝起きて、ソファで母上の横で本を読んだり、蜂蜜酒を一緒に作ったりとのんびりだ。
午後になって、来客があった。
「こんにちは、エンリエッタ様。ゼン様はいらっしゃいますか?」
玄関から聞こえてきたのはアンの声だった。
応対したエンリエッタが来る前にそちらに向かう。
「アンじゃないか。めずらしいね。どうしたの?」
出迎えるとアンは両手にいい匂いのする籠をもっている。
「あ、あの、昨日ゼン様が獲ってきたイススのラスクートを焼いたのでおすそ分けに」
ラスクートはミートパイみたいなこの地方の郷土料理だ。冷えても美味しいのでピクニックや狩りにもっていくこともある。肉以外にも野菜や果物、具を様々に変えて作ることがある。
俺の好物の一つで、エンリエッタもよく作ってくれる。
「あらあら、これはこれは。アンちゃんよね?ありがとう。ゼンもよくアンちゃんのお話してくれるのよ。是非上がってお茶でも飲んで行って」
ひょっこり母上が顔を出し、何故かウフフと笑いながらアンを観察する。
なんだろう、この顔どこかで・・・そうだトルエスさんが前にしていた顔に近い。
「え、え?いいのですか・・・?貴族様のお屋敷なんかに私が入って・・・」
アンは恥ずかしそうに顔を赤らめながらちょっとたじろいでいる。
「私も元は平民よ。遠慮せずに上がってらっしゃい、エンリお願いするわね」
エンリエッタがアンが持っているラスクート入りの籠を受け取って食堂に向かい、母上はアンの手を握り居間のほうに彼女を連れていく。流石に問答無用で手を握られたのでアンも諦めたのか、嬉しそうな困ったような顔で母上について行った。
アンは出された香木茶を飲み辛そうに飲んでいる。
それはそうだろう真正面に母上がいて、ニコニコとアンを見つめながら黙っているのだから。
不意に母上が話しだす。
「エンリちゃん、ゼンが初めて女の子を連れてきてくれたわ」
俺は飲んでいた香木茶を吹き出しそうになる。
「ゼン様なら当然かと。むしろ遅いぐらいです」
エンリエッタは無表情にそう言い切る。彼女の中で俺は一体どんな評価なのか。
母上は嬉しいことがあるとエンリエッタのことをちゃん付けで呼ぶ。普段は気にしないが、何故か今はちょっと身構えてしまう。
「アンちゃん、ウチのゼンのこと好きなの?」
やめてくれ。
アンが泣きそうな顔をしている。
エンリエッタも無表情ながら凄く怖い。
「母上!アンが困っているじゃないですか」
「あら、いいじゃないの。こういうことは早めにわかったほうが私たちも色々と準備あるし。私とエンリちゃんの愛しい息子なんだからかっこよく、しっかりと受け止めてあげるべきよ」
母上は俺を当たり前!って顔で見てくる。
父上の存在がないのは何も言うまい。
エンリエッタは無言を貫いているが、その顔は母上と同じ心境なのだろう。
アンはアグアグと口をパクパクさせているし。ここは俺がでるしかないのかと、溜息をつく。
「ほら、アン、ここにいてはダメだ。僕の部屋に行こう」
俺は素早くアンの手をとって、彼女の顔も見ずに居間から出て、俺の部屋に連れていく。
何やら後ろで母上が『やるじゃない』とか言っているけども無視だ無視。
自室でアンを落ち着かせて、することもないので読み書きをアンに教えて、途中で色々なことを話した。
辺境都市オークザラムやトリアルバンの冒険に出てくる魔大陸のこと、好きな料理のこと、同い年の子とここまで喋ったことがなかったのでとても新鮮で楽しかった。さりげなくエンリエッタがパイスの果実水を持ってきてくれたり、母上が乱入してきたのも楽しい時間だった。そのときは始終アンは恐縮しっぱなしだったが、最後は笑顔で見せてくれた。
彼女をルクラの家に馬で送って行って母上達からはよくやった何故かお褒めの言葉を頂戴したりもしたが、とてもいい休日になった。
季節は秋、収穫の時期なので父上もあと少ししたら帰ってくる。
幸せな日々、平穏な日常。
禅の記憶でも、ゼンの記憶からも感じたことはない幸せ。
ぬるま湯に全身を浴しているかのような心地よさの中で、俺には罪の意識が芽吹いている。
この罪の意識すら俺を優しく受け入れてくれる人たちには裏切りなのかもしれない。
禅とゼン、二人の記憶、二人の人生から発生した俺にはこの幸せを感じる資格があるのだろうか。
仮面のようにゼンを演じる自分、当たり前に禅の技術を利用する自分。
言いしれぬ不安。
それは、突如として母上達からゼンという無垢な存在を奪った俺が糾弾されるのではないかというもの。
ただ自分が何者かを知りたい。
ゼンなのか、禅なのか、それとも全くの別人なのか。
禅の記憶を持ったゼン、そうしてしまえば楽だということはわかっている。
だが、俺はそう言い切れなかった。
禅の存在が消えてしまう気がして、俺には言い切れなかった。
平穏に潜む不安を心に残して俺は眠りにつく。
もう生ヒロインはエンリエッタでもいいのではないかと思います。
さて日常パートは終了。
そろそろゼンには頑張ってもらいましょうか。