船長室の美酒
普段の思慮深げな青い瞳を今は遙か西の先にある重く沈んだ灰色の雲のごとく曇らせながらセバンは舷牆に身を預けて、一人静かに海を見ていた。
ルーン王国の旗艦レディウス・カエルザ号は向かい風に立ち向かい西北西に進み、波頭の上をさながら海鳥になったように軽やかに滑っている。時折進路を保つために海兵達が索具を数人がかりで引っ張り、空の色を写したような青く巨大な帆を切り返すかけ声が波頭の音の間を音頭のようになって響いていた。
切り返すことで船は蛇行しつつ進路を真っ直ぐ走ることが出来る。切り返す時には風によって船体が逆側に傾くが、セバンは長年海軍として勤めているだけあって、その傾きにも動じずに器用に体重移動をして甲板の上を慣れた様子で立っていた。
セバンは振り返って東の高い空で燦然と輝く真夏の太陽に手で日陰を作りながら目を向ける。
その天の頂きの下、レディウス・カエルザ号メインマストの中で最も高い物見台である主檣楼にいる男を見上げた。三本のマストに繋がれた多くの帆と無数の索具が太陽によって真っ黒な巨木となって空を覆い尽くそうとしていた。この時間帯に主檣楼を見上げても無駄だとセバンも分かってはいるが、どうしてもそこに目を向けてしまう。
最上部の主檣楼には小さな錫製の鐘が備え付けられている。その鐘が鳴ると言うことは即ち、敵艦発見の合図、戦いの合図である。
不安に染まったセバンは苦い顔をしつつもかぶりを振り、初めての海戦に怯える見習い水兵のようだと自らを恥じた。
あそこにいる物見はただの物見ではない。
魔物を使い目では見ることの出来ない遙か水平線の向こうにいる敵を発見できる祝福持ちだ。例え、今鳴ったところで海戦までには数刻の猶予がある。不安を感じている暇があれば勝利するための作戦を考えている方がよほど有益だと自らに言い聞かせる。
帆の切り返しがない時は船はほとんど揺らがずに僅かに船体を斜めにしているだけだった。セバンは船首楼の甲板を下りて、海平達とすれ違いながら索具やら道具を踏まないように注意しつつ船尾の船長室へと歩んだ。船尾楼の甲板に上がる階段を上っていると操舵室から顔を覗かせている操舵手と目が合う。彼は軽く敬礼を行い、また視線を船首の遙か先へと向ける。
船は狭い。全長50m、幅15mという軍艦としても最大級の大きさを誇るが、それだけの広さしかない甲板の上で最敬礼のために足を止めたり、手を止めることは軍規によって排除されている。航海中は例え王族であろうとも最低限の敬礼で許され、海兵達は忙しく動き回っていた。セバンは索具を操っている海兵に背を向けて、船首楼の最後尾にある入り口の階段を下りて船長室の扉をノックした。
「殿下、セバンです」
「ああ、入ってくれ」
中からシャルルの感情のこもらない声が聞こえてきて、セバンは扉を開けて中に入った。
中は、王太子の旗艦レディウス・カエルザ号の名に恥じない豪華絢爛な船長室だった。
扉を開けて直ぐは船長公室。
そこは作戦会議や高級士官達がシャルルと食事を取るときに食堂として使われる。高貴な青と呼ばれるだけあって、壁一面に鮮やかな青色に金の装飾を施された壁紙、重厚な深い黒檀のテーブルと椅子、海軍の紋章と王家の紋章が飾られている。テーブルの奥にはシャルルの執務机があって、その上には海図と航海図、記述用の定規や羽ペンなどが散乱していた。
シャルルは執務机に座り、海図を睨んでいた目を上げて、セバンを見た。
黄金色の髪にシャルルの背にある窓から光が差し込み輝いていた。
「丁度いいところに来てくれた。今、航路から敵との遭遇地点を割り出していたところだ」
シャルルは椅子に身をもたれさせて肩を鳴らす。
セバンは船長室の中に入った直ぐの場所から眩しい物を見たかのように目を細めた。
「そうですか。今のところ風向きは変わらないようですが、西から厚い雲が来ています。もしかしたら時化になる可能性が・・・」
セバンは振り払ったはずの不安が胸の内より湧き出て、先ほど見てきた海の様子をシャルルに伝えた。
シャルルはその話を聞いて少し考えるように目を漂わせると鼻筋の通った鼻と均衡のとれた顎に手をあてる。
「ふむ・・・。ならば風向きが乱れるな。敵の風上の利がなくなる」
「はい。ですが、操舵が難しくなり、艦隊が乱れます」
シャルルは目の前に立っているセバンの言葉を聞いて、一瞬怒りが膨れあがる。
彼の瞳には行く道を塞ごうとする幾多の顔がちらついていた。
単独での討伐を宣言した会議室に並んだ貴族達の顔を思い出して憤りが這い上がってくる。あの日、彼は自分をあざ笑う小声とその顔がベッドの中にまで潜んでいるように感じた。お飾りの司令官、世間知らずの王子。確かにそう囁く声が何処までも自分の耳元に張り付き、無数の顔が頭の中を駆け巡る。それに感情が逆撫でられて、寒気が走るような憤りを堪え忍び、眠りにつくまで明け方までかかってしまった。彼はその時のことを未だに度々夜思い出す。
その光景を思い出していたシャルルだが、その憤りを自らが信じる賢王と神の名によって封じ込め、長い悩ましげな息をはき出し自分を治めた。
ただ示せば良い、その考えだけが彼の救いだった。
息をつくとシャルルはセバスに疑わしげな視線を送る。
「セバン。お前はこう言いたいのか?中止せよと」
そのシャルルの目線を僅かの間、黙って見ていたセバンは頭を下げて自らの心情を隠した。
「いえ、殿下が戦に赴くとあらば是非もありません。ただ、補佐の勤めを果たしたいと思う故です」
その答えでシャルルは安堵の息を吐く。表情を緩ませて彼を親しげに見た。
「少し疑いすぎたな。お前の忠誠心を疑ってしまった。すまない」
シャルルはそう言いながら立ち上がり、セバンに微笑みかける。
「疑ってしまった詫びだ。私のとっておきを一杯やろう」
そう言うとシャルルは執務机の側にあったキャビネットから固定用の紐を解いて酒瓶とグラスを取り出した。
「さあ、掛けてくれ」
「・・・ではお言葉に甘えさせていただきます」
そう言うとセバンは上座のシャルルの横に座り、シャルルの手すがら注がれた琥珀色の酒を一口あおる。その酒はシャルルがこよなく愛する酒の都市バッカルスの最高級品。セバンは鼻に抜ける豊潤で甘やかな香りと高い酒精のひりつくような刺激を心地よく味わった。喉を過ぎてその酒が胃に落ちる頃にはセバンも胸の内に秘めた不安が少し溶けていくように感じた。
シャルルはその様子を見てから自分も静かにグラスを傾ける。
「やはり美味いな。本当は一樽でも持ってきたかったが、そうしてしまえば部下達の酒が少なくなり、暴動が起きてしまう」
茶目っ気を出してシャルルは頬を緩ませて言った。
セバンはグラスを握っていた手をテーブルの上に下ろす。最高の美酒を前にしてセバンも僅かだが気持ちが軽くなっていた。
たった一杯の酒が波で揺れる船長室で二人を繋いでいた。
セバンは少なくなった酒を惜しむように見てからシャルルに笑みを向ける。
「そうですな。この酒一樽あれば、兵士達が飲む酒三十樽は購入できます。戦のためにどちらを取るかは司令官の采配が試される難題ですな」
「ああ、実に難しい任務だったよ、セバン。そして・・・私は思うのだ。この難題は実に我が国の問題と似ているとな」
シャルルはしみじみとその目の前に置かれていた酒瓶を見て言った。セバンはそのシャルルの意図が何処にあるのかを探るようにシャルルと同じく酒瓶を眺め、そして首を傾げながらシャルルに尋ねる。
「どういうことですか?殿下」
セバンの問いにシャルルは僅かな沈黙を要して、彼に視線を送る。
「国とはこの船のような物だ。様々な兵達がいて、将官がいる。将官とは私やお前のことだなセバン。我らだけがこの美味い酒を飲むことが出来る。そしてその酒を手に入れるためには兵達の酒を諦めなければならない。だが、敵に勝つにはその酒では足りないのだ。全ての兵が平等に同じ酒を飲み、仲間として団結せねば勝てる戦も勝つことが出来ない、それまでか航海すら難しくなる。私はこの船の上に立つ者としてそれを許せないのだ」
シャルルの独り言のような話をセバンは聞き心の中で唸った。
その内容はセバンにとっても許せるものではなかった。
等しく酒を与える。それが意味することは、セバンの忠誠心が船首に打ち付ける泡沫のごとく消え去ることと同じであった。
セバンは信じている。弱き者を助けるためには神ではなく人間を頂点とした正しき王という絶対なる存在が必要だと。絶対なる王を頂として法と秩序ある国家を形成し、あらゆる外敵からその国家が臣民を守り、正しき道に導く。
神という存在は余りにも超常すぎてセバンにもその神意が見えない。その神の下で生きている人間は個別の神によってその行動を示し、その行動はセバンから見ると無法と変わらなかった。無法は闘争を呼び、争いが絶えない。
だからこそセバンは信じている。正しき絶対なる人の王を。人が定める人のための法と秩序を敷かれた国家の中に生まれる臣民の豊かな生活とその笑顔をセバンは信じて止まない。
しかし、今その信じる王の可能性を秘めたシャルルから出た言葉にセバンは落胆しそうになる。例えそれが年相応の理想を宿した優しき王子から出た言葉でも彼の心には小さなさざ波が立っていた。
セバンは難しい顔をシャルルに向けて、揺れる心の内にある言葉を口にしそうになったが、臣下である自分がそのような言葉を行っていいものかと思いとどまり濁す。
「それは・・・」
シャルルはセバンに向けていた瞳を琥珀色の酒が満ちた酒瓶に移して、その瓶を取ると自らのグラスとセバンに注ぎ、そのグラスを手にすると口を開く。
「ああ、父上のように一樽の酒を優秀な者だけに与えて強固な序列と船への忠誠心を築くことを批判しているわけではない。浅はかな私の考えは、この酒一樽手に入れるよりも普通に美味い酒三十樽を皆に分ければよいと思っている。そうすれば今のような内乱も意味を無くす。そのような酒は売ってしまい、皆で飲める酒を皆と楽しく飲めば良いのだ。まあ少量とは言えこの酒を独り占めしている私が言えたことではないがな」
シャルルは自嘲気味に笑ってグラスの酒を一口飲んだ。
黙って聞いていたセバンは、シャルルがその正しき王という重圧に抗う一人の青年であるとその時気がついた。
次期王として民の期待する声も高く、海の神に祝福された幸福な王子という姿はそこにはなかった。賢王としての偉大な父と内乱を抱えた王国の問題、謀を企む汚い貴族たちの嘲笑や海賊討伐という大任をその肩で背負い、潰されまいと頑なに背筋を伸ばすその姿にセバンは哀れみと崇高な王子への敬服を抱く。
同時に自らがシャルルに対してその重荷を軽くするように努めてきただろうかと恥じた。ただ自分は彼に更なる重荷を背負わせてきたのではないか、自らの期待という重荷で彼を苦しめていたのではないだろうかと。
―――もし私がシャルル殿下であったならば、逃げ出さずにこの場に座っていられるだろうか?
自らを恥じたセバンの脳裏にそんな自問が不意に響く。
そして、その答えは決まっていた。
否であると。
30歳前後のときの自分がそんな重すぎる荷物に絶えられるはずがない。その場に立つことですら足が震えるだろう。
―――ならば、私がすることは決まっている。
目の前で美しくも儚げに酒を口にしている青年にセバンは心を打たれている。
「殿下、もし一人でその酒を飲むのが寂しく感じる夜がありましたら、この命が尽きるまでお話しする相手をつとめさせていただきます」
「感謝するぞ、セバン。一人で飲む酒はやはり味気ないからな」
そう言ってシャルルはセバンに信頼の笑顔を向ける。
旗艦レディウス・カエルザ号の船長室、琥珀色の酒が穏やかに二人の間で揺れていた。




