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赤ちゃんは泣くのが仕事

 小林貴子は込み合っているバスに乗り込んだ。スーツを着た男性。世間話をするおばさん達。スマホをいじる若者。騒ぐJK。それらで埋められた席に一つの空白も見当たらなかった。

 小林貴子は仕方なく入り口付近の吊革を掴む。胸にスヤスヤと眠る我が子を抱きかかえながら。バスは静かに動き出し、忙しない街の風景を走ってゆく。娘のかわいい寝顔は小林貴子の嫌なことを全て忘れさせてくれた。

 小林貴子と夫との距離はバスが進むにつれてだんだんと離れてゆく。バスが進むにつれてJKの喋り声は次第に生き生きとしてゆく。心に余裕が生まれ始めていたその時、バスは急ブレーキにより急激に車体を揺らした。

 小林貴子は身体を大きく揺さぶられ体勢が崩れ、後ろから押されたように前のめりになった。その拍子に前でゆったりと座る若者のブーツを思い切り踏みつけていた。娘は胸にピッタリとくっつき何事もなかったかのように幸せそうな寝顔を見せていた。

「ごめんなさい」

「オマエさ、人の足を踏んでおいて、それだけかよ!」

「本当にすみませんでした」

「許さねえからな!」

 小林貴子は悲しい素振りを一切見せず、娘を包むようにして真摯に若者へと頭を下げた。それでも若者は小林貴子を怒鳴り散らす。バスに響き渡るほどの怒号に娘は目を覚ましてしまった。そして怒号にも負けない大きな泣き声をバス中に解き放った。

「ひなたちゃん。大丈夫だからね」

「コイツうるせぇんだけど。早く泣き止ませろよ」

「すみません」

「もう少し抑えられないの?コイツの泣き声マジで耳障りなんだけど」

「今すぐ、泣き止むようにしますから。ひなたちゃん、よしよし」

「次で降りろ!今すぐ降りろ!」

 小林貴子は自分と共に怒る対象とされた娘を見て、胸が苦しくなった。娘は元気に泣き続ける。小林貴子の目頭は熱くなっていた。自分だけに向けられた怒りなら耐えられる。でも娘に向けられた怒りはどんな些細なことでも耐えることが出来ない。

 乗客の視線は小林貴子と娘に集中する。馬鹿にした笑いを浮かべる者。鋭い眼光で睨み付ける者。ブツブツと口を動かす者。そして背を向けて窓の外を平然と眺める者。

 小林貴子は目の前の娘のように思い切り泣きたい気分だった。




「はい、カット! もう全然駄目だよ! あのさ、ここで泣いてもらわないと困るよ」

「すみません」

「いつもはすぐ泣けるし、今回はバスで怒られて娘が泣き出すっていうイメージしやすい役だよ。どうした?」

「次は必ず泣きますので」

「何回目だと思ってるの? もう三回目だからね」

「分かってます」

「すぐ泣けて、泣く演技に定評があるから使ってるんだよ。泣けなかったら意味ないの!」

「もう一度やらせて下さい」

「泣けなかったら目薬使ってもいいんだぞ!」

「いいえ」

「分かった。もう一回だけだぞ! 赤ちゃんは泣くのが仕事なんだから泣いてくれよ」

「はい」

女優・赤坂美麗は今日も泣く。

赤ちゃんと呼び慕ってくれる監督のためにも。

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