十四、来訪
香ばしい匂いが鼻孔を満たし、誘われるようにベッドから這い上がる。靄がかった視界は次第に鮮明さを取り戻し、やがて、ひとつの影を捉える。
「おはようございます、ユリシア様」
ポットを片手に優雅に振り返るクロード。彼はいつも通り全身を、黒でまとめた質素な服で覆っている。お金もかけていない、至ってシンプルなデザインだが、彼ほどの美形が着ると、どこか気品が漂う。
上体だけ起こした私に、おそらく彼のだったであろうカップを差し出し、「ご支度が済みましたら、お声かけください」と離れていった。明るさからして授業までまだ時間はあるが、いつまでも寝巻きのままでいるわけにもいかない。
冷える足先を数回さすって、私はクローゼットを開けた。
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髪を整え、薄く紅をひく。特に見せる相手もいないのだが、淑女のたしなみだ。鏡台の前を離れると、直立のままのクロードに声をかけ、部屋を出る。
「……なにやら、騒がしいですね」
ぽつりとクロードがひとりごちる。彼と一緒に居ればいつものことだが、どうやら今日の騒がしさは、それと違うようだ。
女生徒たちの視線の先には、普段は足早に避けて通るはずの学長室。周囲のざわめきとは対照的に、不気味なほどに静まり返っている。
「どうかなさったの?」
近くにいた女生徒に声をかけると、びくりと大げさに驚かれたあと、震える声で説明された。……そんなに怖い顔してたかしら、私。
「わ、私もよく知らないんですが……なんだか、異世界から人が来た、とか……」
「そう、ありがとう」
――やっぱりか。予定通り、イベントが始まった。何度も見たシナリオを、ライバル視点で見るのは新鮮だ。詳しく確認しようにも、ドアの隙間はぴっちりと詰められ、覗くことは不可能だろう。
と、視界の端に驚いたような、決まりの悪そうなエレナ嬢とリーネ嬢を捉える。今起きていることが信じられないのか、罪悪感を覚えているのか。私に責める気がないことを証明するため、にこりと微笑んでみせる。
――瞬間、まだ騒がしい女生徒たちの喧騒を切り裂くように、大きな音を立てて扉が開いた。現れたのは、不機嫌そうな顔をした教育長。十年ぶりの異世界人への対応に忙しいのに、当たりの騒がしさに苛立ちが耐え切れなかったのだろう。
彼女は私たちの姿を見るやいなや、中へと招き入れる。クロードは部屋で待たせておいたほうがよかったのだろうが、なぜかそれは躊躇われた。
「他の者は、教室に戻りなさい。従わないものは、罰を与えますよ」
今尚退散する気配がない彼女らに、教育長が強い口調でそう言うと、途端蜘蛛の子を散らすように去っていき、周囲は、あっという間に元通りの静寂を取り戻した。
久しぶりに入る学長室は、やはりどこか威圧感を感じる。着席を促され、来客用のソファに腰掛ける。向こう側に座っているのが、ヒロインか。
「――さて、マルキード嬢、クレヴァー嬢、マルキード嬢。わざわざ呼び立てる手間が省けました。もう耳にはしていると思いますが、異世界から人がきました」
「あっあの、紅音麻里です! あの、私、ここは……」
教育長の視線に怯えつつも、鈴を転がしたような声で自己紹介をするヒロイン。ただでさえ小さな体を必死に縮こませる様は、庇護欲をくすぐる。
「あなたたちには、彼女の世話を担当していただきます。異世界とはいろいろ風習が違いますが、これもあなたたちの優秀さを見込んでのことです。引き受けてくださいますね?」
「はい、謹んでお受けしますわ」
世話、と言っても下女の真似をするわけではない。何かと不安が多い異世界での生活をサポートするので、それなりの能力と人の良さがなければ、務まらない。
また、学園には異世界人専用の個室があり、使用人こそつかないが、それなりの設備が整っている。一度だけ覗いたことがあるが、さながら高級ホテルなみの内装で、物質面で困ることはまずないだろう。
主にすることと言えば、交流会の仕切りと、出来ることなら、悩みなどの相談に乗ること。交流会は言ってしまえばただの固めのお茶会だが、物珍しさに参加を希望する生徒は少なくないため、参加者の絞込みが必要だ。
割と簡単そうに聞こえるが、参加者同士の派閥やら仲良しグループやらありとあらゆる面から熟考を重ね、最も無難なメンツを選ばなければならない。――私の姉さんも、このことで愚痴をこぼしていたっけ。
「……それじゃあ皆さん、あとは任せますよ。今日の分の出席は免除しておきますので、囲まれて動けなくなる前に案内を済ませてくださいね」
「はい、かしこまりましたわ」
そう言うと教育長は、分厚い書類の束とのにらめっこを再開する。法律も物理法則も違う異世界人の保護は、七面倒臭い手続きが必要だ。しかし異世界人のもたらした知恵によって暮らしは格段に豊かになったので、進んで異世界人に危害を加えようとするものはほとんどいない。
仮に危害を加える理由があったとしても、処分は普通の人間相手とは比べ物にならないほど重い。通常の神経なら、死んでもできないだろう。
「――マリさん、まだご不安なことも多いかと思われますが、私たちが付いておりますので、どうぞよろしくお願い致します」
「え、あ、は、はいっ! こ、こちらこそ!」
エレナ嬢がしとやかにお辞儀をすると、麻里も慌てて体を折った。彼女はまだ現状に追いついていないのか、大きな目をぱちくりさせている。
緊張のせいか早口で動く桜色の唇、目元に影をつくる長いまつげ。華奢ながらも芯の通った小柄な体格は、嫌味なまでにゲームで見た姿そのものだった。