十二、覚悟
質問が御座いましたが、クロードがシルヴァナを愛称で呼んでいるのは、ユリシアの様子を報告するため長いこと文通をしており、その際に彼女が面倒だから愛称にしなさい、といったためで、愛人ではありません。愛人ではありません。
『クロードさん? どうしたんですか、こんなところで』
喧騒から切り離された、人気のない入り組んだ場所に一人蹲る、暗い雰囲気の青年。落ち着いた外見と不釣り合いな悪趣味な服をまとった彼は、高級そうな生地が汚れるのも気にすることなく地面に膝を付けていた。
そこにたまたま通りかかった、栗色の髪に異国の服をまとう愛らしい外見の少女は、そんな彼の背中を見付け、近寄って声をかける。
『……花を、見ていました』
青年の視線の先には、水も栄養も足りないだろうに、凛と咲き誇る黄色い花があった。鮮やかな色をした花弁は僅かに差し込む光を反射し、殺風景な風景をぱっと明るくする。
他は雑草に埋もれた花ばかりなのに、その花だけは不思議と草はおろか、虫すらも居なかった。
『わぁ、綺麗ですね、このお花』
『…そう、ですか……私はそうは思えません……』
宝物を見付けたようにきゃっきゃとはしゃぐ少女の声に、青年は沈んだ調子で返す。冷めた意見に、少女は少し不満そうな顔になる。
『どうしてですか?』
『……だって、』
――目が、覚めた。
息が、し辛い。胸が痛い。喉はからからに渇いており、全身をじっとりと、嫌な汗が覆っている。
視界に移るのは、人気のない灰色の空間ではなく、とうに見慣れた白い天井。上品な金色の照明は今は灯っておらず、外から差し込む朝焼けを飴のように歪めて映していた。
「……っ、ゆ、夢……?」
煩く鳴る心臓を服の上から押さえつけ、ゆっくりと上体を起こす。机の上にあったカップに残っていた、すでに冷え切ったコーヒーで一先ず喉を潤し、一息つく。またも寝落ちしてしまったらしい。
机に突っ伏したまま小さな寝息を立てるクロードに毛布を掛け、起こさないよう細心の注意を払いながら、私は外に出た。
「……寒いわね」
まだうす暗い空は一面雲が覆っており、時折吹く風は、体温を容赦なく奪ってゆく。そんな時間帯にわざわざ散歩を始める酔狂な人は私のほかにいる筈もなく、いつも騒がしい校内は、水を打ったような静けさがあった。
全く違う空間に迷い込んでしまったみたいで、普段見ることのない細かい所が目につく。壁の落書き、誰かの落とし物、小さな鳥の巣…。
「……あ」
ふと、小さな庭に面した通路で、足を止めてしゃがみ込む。ぼんやり歩いていたら、いつの間にやらこんな辺鄙なところまで来ていたらしい。
――夢で見た、黄色い花。
若竹色の細い茎は、力を籠めれば簡単に折れてしまうだろう。しかし、けしてそれをしてはいけないような、そんな神聖さがその花にはあった。
「…何をなさっているのですか?」
頭上からいきなりかけられた声に、心臓が口から飛び出しそうになる。まさかこの時間帯に、他に出歩く人がいるなんて。
慌てて服についたホコリをはらって立ち上がると、声の主は、リーネ嬢だった。
「……何をじっとご覧になっているのかと思ったら、花、ですか」
「り、リーネ様……随分、お早いのですね」
お互い様なのです、と返すリーネ嬢の後ろに、彼女の狗、べイルを見付ける。彼女が自分の狗と一緒に居るのを見るのは、久しぶりだ。
しげしげ見ていると、それに気づいたべイルの顔が分かりやすく歪む。彼は実に表情豊かで、同時に喧嘩っ早い。
「……あんだよ、じろじろ見んな……っぎゃ、いってぇ!! 何すんだよリーネ!!」
「それはこっちの台詞なのです。いつになったらキミはその言葉づかいを改めるのですか」
リーネ嬢の裏拳が見事に命中した鼻を抑え、べイルが叫ぶ。粗暴な言葉遣いの彼は、こう見えても名のある貴族の生まれだ。
庶民出身なのに常に慇懃なクロードとは対照的で、彼が敬語を使っている所は見たことも無いし、想像も出来ない。また、二人の相性もあまりよくないようで、クロードが珍しく敵意をあらわにした相手の一人だ。
「直んねえもんはしょうがねーだろ、っいってぇ!!」
「はい、もう一発」
すぱこぉん、と軽快な音を響かせて、赤くなったべイルの鼻っ面に、またも拳がヒットする。あまりに綺麗に当たるので、今にも鼻血が出るんじゃないかと、ハラハラする。……あ、出た。
この二人、ゲームではむしろ距離がかなり開いていたのだが、どういうことか今世ではかなりバイオレンスなカップルになっている。幼い頃共に図書室で教育をしていた時も、鉄拳制裁が一番多かったのは、この二人だ。
体育教師も真っ青な体罰の数々に、余計気持ちが遠ざかるのでは…と心配したこともあったが、今では逆に仲が深まっているようだ。ただでさえ堪忍袋の緒がもろい彼だが、それでも他人に手をだしたことはなかった。が、他の狗に自分の主がけなされた瞬間、見たことも無い形相になり言った相手を半殺しにしたらしい。
「すみませんのですユーリ様、後できちんと躾しておくのです」
「まだ殴りたりねぇのかよ……」
涙を浮かべたままぶつぶつ呟くべイルにリーネ嬢はすかさず拳を振り上げ、びくりと身をすくませた彼の首根っこを掴んでそのまま歩き去っていった。その数秒後、訪れるはずの衝撃が無いことに安堵したような、怯えてしまった自分を恥じるような、そんな怒声が辺りに響く。
ぎゃーぎゃー騒ぐベイルと、冷たくあしらうリーネ嬢。声こそ怒っているものの、二人の後ろ姿は非常に仲睦まじかった。
それを見て、私はひとつ、決心をする。
「――話そう、全てを」
狂人扱いされてもいい、気持ち悪がられてもいい。距離を置かれて、友人を失うかもしれないが、それでも構わない。
――わたくしの世界を、守りたい。
そう決めた瞬間、霧が晴れるような、そんな清々しさが全身を包んだ。
一度収まった鼓動が、また騒がしくなる。しかし今度のそれは嫌なものではなく、不思議と心地よかった。
*その後、リオネア部屋にて*
リーネ「……それで、いつまで鼻血を垂れ流しているのです?」
ベイル「お前のせいだろうが!!」