お月様からの贈り物
「こんばんは、お月様。素敵な夜ね」
月に向かって話しかける少女。
「あなたはいつも独りでいらっしゃるの?」
勿論月から返事があるわけもないが少女は気にせず喋る。
「寂しくないのかしら?私はとっても寂しいのに」
そう言って少女は下を向く。さっきまで笑顔だった顔が曇っていった。見る見るうちに少女の目には涙がたまりぽたぽたと落ちていく。涙はとめどなく溢れ静かな夜の中に少女の泣き声だけが響いていた。
「夢、か」
まだ幼かった頃の自分だ。寂しくなくなった今でも時々見る。嫌な夢を見たせいで輝く朝日とは対照的にどんより曇った憂鬱な目覚めだ。普段なら毛布を蹴飛ばすくらい元気よく目覚めるのに。のそのそと起き上がりパジャマをワンピースに着替えて靴下と靴を履きストラップを留める。普段よりもずっと覇気がなく着替えかたが適当だ。ベッドの上にはパジャマと毛布が散らかっている。しかし憂鬱でも髪だけはぬかりなくセットする。念入りに髪をとかし二つに分けてリボンで結ぶ。大きい鏡の前でチェックをする。髪を結ぶリボンはちゃんと横結びになっている、ワンピースに糸くずとか埃はついていない、汚れもついていない。
「よし」
準備ができたから階下へ降りる。今朝の夢のせいでおじ様がどこかへ姿をくらませていないか心配になってきた。階段を何回か踏み外しそうになりながら早くおじ様が消えていないか確かめたくて慌てて螺旋階段をぐるぐると駆け下りていく。
「おじ様! モーントおじ様!」
「朝から騒がしいね。一体何の騒ぎだい?」
よかった、ちゃんといた。
「いいえ、何でもないわ。おはよう、おじ様」
「おはよう、テネル。相変わらず綺麗な髪の毛だね」
さっき髪の毛を念入りにセットしたのはおじ様が褒めてくれるから。おじ様はお母さん譲りの艶やかなブロンズの髪だと言う。
すっかり出来上がっている朝食を二人で向かい合って食べる。あまりおじ様からは話しかけないけれど私が何かを話しているときはとてもよく話を聞いてくれる。
「おじ様、私がおじ様と出会う前どんなに寂しかったか知っていらっしゃる?」
「ああ、知っているよ」
「まあ! やっぱり知っているのね」
おじ様はいろんなことを知っているのだ。今まで私がわからないことを聞いても答えられなかったことは一度もない。おじ様がそう言うならきっと本当に知っているのだろう。
おじ様は何でもできる。普通ならお手伝いさんをおいてもおかしくはない。しかしおじ様は料理もできるし狩りもできる。それから私に勉強を教えてくれる。まさにおじ様は多才なのだ。以前そうおじ様に言ったら笑いながら褒め過ぎだよと言われた。きっと歳は五十歳くらいだと思っている。五十歳だと断言できないのは歳がわからないから。いつか何歳なのかを聞いてみたが困ったような笑顔をしてはぐらかされてしまいそれ以上は聞けなかった。
朝食を食べ終わりエプロンを着けて食器を洗う。これくらいは私にもできる仕事だ。その後はいつもおじ様に勉強を教えてもらう。
「おじ様、今日は何を教えてくださるのですか?」
「そうだな、歴史を教えてあげよう」
おじ様の授業はいつも楽しい。面白いエピソードなどを交えて教えてくれるからするりと頭の中に入ってくるのだ。
午後は自由な時間で自分の好きな事をする。家の西側には書斎がある。夕日で赤く照らされた書斎で本を読むのが好きで私はいつもそこで日が沈むまで本を読み耽った。書斎にはおじ様が若いころから集めていた本が沢山あり好きな物を読んでもいいと言われている。今日は詩集を読むことにした。
そして日が沈むまで読み耽っているとおじ様が夕食だよと呼びに来る。辺りはすっかり暗くなってランプなしでは本を読めない。おじ様に目が悪くなるからと暗いところで本を読むのを注意されているのだが完全にランプをつけるのを忘れていた。おじ様には内緒にしておこう。そんなことを考えながら食堂へと向かう。扉を開けるとすでにはゆったりとした様子でおじ様が古びた木の椅子に座って待っていた。
「おじ様、遅くなってごめんなさい」
「いや、構わないよ。読書は楽しかったかね?」
「ええ、とっても楽しかったわ」
「それは結構なことだ。ただし暗くなったらちゃんとランプをつけるんだよ」
やっぱりばれていた。おじ様は本当に何でも知っていて見抜けてしまうんだわ。驚きながら椅子に座る。
普段ならおじ様の作った美味しい夕食を食べながら楽しいお喋りをするのだが今日は今朝見た夢のせいで自分の過去のことを思い出していた。
今からおよそ一年半前の九歳の頃、母様と父様は町へ買い物に行ったときに暴走した馬車にひかれて亡くなった。引き取り手が見つからなかったが家事を自分でできることが幸いして孤児院には行かずに家で独り暮らしていた。半年ほどそういう生活を続け慣れてきた頃、おじ様が家にやって来た。おじ様がかけてくれた言葉は今でもはっきりと思い出せる。
『お嬢さん、迎えに来ました』
『あなたは一体誰なのですか?』
『これからお嬢さんと一緒に暮らす者です。あなたの遠い親戚です』
あのときは夕日がもうすぐ沈み頃合いだったわ。おじ様は微笑んでいてとても格好良かった。私を孤独な生活から救ってくださったのだ。そしておじ様の家に住むことになった。それからの毎日はとても楽しくてあっという間に過ぎてしまっている。
気が付くとお皿に乗っていた料理はいつの間にか胃袋の中に消え、食器は空っぽになっていた。お皿を台所へ運び食器洗いを始める。お皿に汚れが残らないようにごしごしと強く洗う。こんな風に洗うようになったのもおじ様が、テネルがしっかり洗ってくれるからピカピカで気持ちがいいよと褒めてくれたからだ。そして次はぎゅっぎゅと力をこめてお皿を拭く。これもおじ様が褒めてくれたからより力をこめて拭くようになった。
夕食の後は二人で星を見たり、お喋りをしたり、トランプで遊んだりする。夏には夜風にあたりに散歩に行き、冬は暖炉の前で火にあたる。一日の中で心穏やかになるこの時間が一番好きだった。そして寝るときはおじ様がベッドのそばの椅子に座り私が眠ってしまうまでいてくれるのだ。いつか私が怖い夢を見てうなされたときから毎晩そばに座っていてくれるようになった。
今日は星を見に行くことになり二人で並んで歩いていた。私は星も好きだったが月のほうが好きだ。独りで暮らしていたときに今朝見た夢のように毎晩窓から月に話しかけて寂しさを紛らわせていた。勿論返事が返ってきたことは一度もない。それでも月のおかげでどうにか独りに耐えることができたのだ。大袈裟かもしれないがおじ様と同じくらいに感謝している存在だ。しかし最近星はよく見えるのに月を見ていない。どうしても雲が覆い隠してしまう、月の辺りだけをだ。今日も見られなかった。しょんぼりとしているとおじ様が話しかけてきた。
「どうした、テネル。浮かない顔をして」
やっぱりおじ様には私が悲しんでいるのがわかるのね。
「私、月を見るのがとても好きなのに最近月が全く会えないんです」
「そうか」
そう言うとおじ様は珍しくばつが悪そうに顔を空へと向けた。普段は絶対にそんな顔をしないのに。一体どうしたのかしら。
「おじ様? 体がよくないのですか?」
「いや、大丈夫だよ」
おじ様はそう答えたがいつもより顔色が優れていない。万が一に備えて大丈夫だと言うおじ様の手を引っ張り普段よりも早く家に帰った。
おじ様は少し疲れただけだ、テネル、今日は寝るまでそばに入れなくてすまないなと言って寝室に入っていった。おじ様大丈夫かしら。普段おじ様は働き過ぎなのかもしれない。二人分のご飯を毎日三食作って、私に勉強も教えて、きっと私の知らないところで働いているんだ。ああ、どうしてもっとおじ様の体のことを気にかけなかったのだろう。自分の大切な人をこれ以上失いたくないのに。今すぐにおじ様のところに行きたかったけどおじ様の睡眠を邪魔してはいけないと思い大人しく自分の部屋に戻った。
自分の部屋へと続く螺旋階段を心配と後悔と一緒にとぼとぼと上っていく。どうしよう、おじ様がいなくなってしまったら私はどうすればいいのだろう、おじ様がいない世界なんて考えられない。そんな世界寂しすぎる。思わず泣きそうになりながらドアを開ける。ベッドに寝転がって寝返りをうったときベッドの横に掛けてある私とおじ様、二人で写った写真が目に入った。その瞬間涙が溢れてきた。
「嫌だ、嫌! おじ様のいない世界なんて嫌!」
あとからあとから涙が零れてきて止めようがない。口に手を当て塞ぐが嗚咽が止まらない。涙で顔はぐしゃぐしゃになりワンピースは濡れてしまった。
「い、や。そん、なの、ぜったい、いやっ!」
嗚咽で途切れ途切れになりながら叫んだ。精一杯の心からの叫びだった。
ひとしきり泣くとどうにか落ち着いてパジャマに着替え始めた。今朝のパジャマよりもひどくワンピースや靴下を床に脱ぎ散らかした。ベッドに横になりまだ少し嗚咽を漏らしているとさあっと部屋に光が注ぎこんで明るくなった。窓から色白の月明かりが差し込んできたようだ。空を見ると自分が前から会いたいと願ってやまない月が姿を現した。
月明かりは今までに見たことがないくらい美しく、夜だというのに床の木目が見えるほどの明るい光を床に落とした。
「お月様?」
あまりの明るさにその光が本当に月から出ているものなのか疑ってしまう。魔力を放つような美しさに吸い寄せられるように窓辺へ近づいて行った。
「お月様……」
さきほどの疑問形から変わり感慨深そうに小さく呟きが漏れた。
「ああ、お月様! 会いたかった! どうして今まで姿を見せてくれなかったんですか? 寂しかった!」
久しぶりの再会でとても嬉しかったが長い間会えなかったので怒りも少し含んだ言いかただった。普段なら私が一人で勝手に話しているだけだったがこの日は違った。
「泣かないで」
「え? お月様?」
「涙を拭いて」
今までお月様が口を開くことなんて一度もなかった。そのお月様が喋ったのだ。いや、もしかしたら私の空想かもしれない。けどそれでもいいと思った。昔からどれほどお月様が話すことができたらと願ったことか。しかし今は喜びよりも驚きのほうが強かった。人は叶うはずもない願いが叶うと喜ぶよりも驚いてしまうことをテネルは知った。
「笑って。笑って、テネル」
テネルは涙で濡れた顔で一生懸命に笑って見せた。テネルはお月様が再び話すのを待ったがそれ以上月は何も話さなかった。もっと沢山話したかったな。でも、それでも久しぶりに会えて嬉しかった。さっきまでの沈みきった心はどこかに行き穏やかな気持ちになっていた。テネルは月に見守られ不思議な懐かしさを感じながら眠りについた。
珍しくテネルが朝早くから起きている。おじ様のかわりに朝食を作っているのだ。多才なおじ様には劣るがだてに独りで暮らしていただけありその辺の主婦と張り合えるくらいの腕前だ。
「おじ様、おはよう。栄養満点の野菜たっぷりのスープと柔らかな白パンを持って来たわ。体調はよくなったかしら?」
少しでも元気になって欲しくてなるべく明るい声を出す。
「ああ、テネル、おはよう。すまないね」
おじ様は体を起こし、弱々しく微笑しながら申し訳なさそうに言った。
「おじ様、ご自分で食べられる?」
こんなことを何でもできるおじ様に聞くのは失礼かしらと思いながらも心配になって聞いてしまった。しかし内心では万能なおじ様でも風邪をひくんだわ、とよくないことだとわかりつつも嬉しいようなほっとするのを感じた。
「ああ、大丈夫だよ。今日は勉強も教えられないから本でも読んでおいで」
「わかったわ、そうします」
暗くなったらランプをつけるんだよという声を背中で聞き、昨日よりも元気を取り戻したおじ様の部屋をあとにした。しかしテネルが部屋を出た後、モーントはテネルと話していたときよりもずっと表情に生気がなくなりぐったりとベッドに倒れこんだ。
ある日、段々と衰弱していくモーントにテネルはあることを聞いた。
「おじ様。おじ様はここにずっと一緒にいてくださる?」
もしかするとこれは聞いてはいけないことなのかもしれない。そう直感が告げていた。しかしどうしても聞いておきたかった。「ああ、勿論だよ」そう言って欲しかった。
「すまない、テネル。それはわからない」
しかし、モーントはテネルの期待を、希望を裏切り『わからない』と言った。その一言はテネルを混乱させるのには十分過ぎた。今までどんなことを聞いてもわからないことなど一つもなく、すぐに答えてくれたモーントが『わからない』と、そう言ったのだ。テネルの頭の中にその一言がぐわんぐわんと響き続ける。外はいつの間にか鈍色の雨雲に覆われ雷が辺りに鳴り響いていた。
その日の夜は自分の中のおじ様が徐々に壊れていくのをはっきりと感じて悲しくて泣きながら眠りについた。
それからはテネルがモーントと話すことがめっきり減った。たまに話してもどこかぼんやりとしていたり、前のテネルなら花が咲いたような笑顔だったのが今では張り付けたような感情の伴わないどこかから借りてきたような笑顔になった。
モーントにテネルは無感情に、それでも挨拶だけは忘れずにし毎日食事を用意する。最近のモーントはただ微笑んでいるだけになった。体が弱くなり話すことはほとんどなくなっても微笑みは常に絶やさなかった。テネルはそれが自分に向けられているものだと気付いていたが微笑み返す気持ちにはなれなかった。
昼食を持って行った後、少し昔なら午後は本を読み耽っていたが自分の部屋に戻りベッドの上に仰向けになった。窓の外からは時々小鳥のさえずりが聞こえ春の暖かい昼下がりそのものだった。何もする気がおきない。おじ様が床に伏してからいつもこの調子だ。なんだか心にぽっかりと大きな穴が開いたようだった。
本当は気付いていた。こんなに楽しい生活が長く続くわけがなかった。おじ様がいつかいなくなってしまうことも。何でも一人でこなせてしまうおじ様は、どこか現実離れしていて人とは一線を画しているように感じていた。髪はふさふさと波打つ白髪なのに澄んだ泉のような瞳にはいつも若々しい光が宿っている様子も現実離れした感じを一層際立たせていた。
すっかり秋になり虫の音が響き渡る夜のこと。テネルはすでに夕食をさげたというのにモーントの部屋に入ってきた。最近はほとんど話さなくなったモーントでさえ驚いて尋ねた。
「どうしたんだい、テネル」
「おじ様……」
これは聞いてはいけないことかも知れない。前に聞いたことよりもずっと聞いちゃいけないかもしれない。
「おじ様は人、ですか? 人なのですか? 人ですよね?」
テネルは懇願するような目で質問攻めにした。モーントは驚いた顔をしたものの徐々にその顔には困ったような微笑が広がっていった。
「テネル、私は人ではないんだ」
さらに続ける。
「それから――」
「やめてっ!」
続けようとするモーントにテネルは叫んだ。これ以上聞いてはいけない。聞いたら今までには戻れなくなってしまう、そう直感が告げていた。
モーントは苦笑いしおそらくテネルが最も聞きたくないであろうことを続けた。
「――私はもう長くはない」
テネルの目には見る見るうちに涙が溜まり次から次へと床へ零れた。涙と共にテネルは床に崩れ落ちた。
その夜、テネルは夢を見た。
夜中にふと目が覚めた。再び眠ろうとしたが目が冴えてしまい眠れそうにない。空に浮かぶ月は不気味に輝いて見えた。
「怖い……」
何か得体の知れない恐怖を感じた。
「おじ様」
そうだ、おじ様のところに行こう。おじ様に何かお話でもしてもらおう、そして私がすっかり眠ってしまうまでそばにいてもらおう。そう考えテネルはランプを手に持ち階下へと降りていく。窓から入ってくる不気味な月明かりに照らされた廊下を小さなこつこつという足音をたてながら歩いていく。辿り着くまで残り数メートルの辺りに来て耐えきれずに走り出し、ノックもせずにモーントの寝室に転がり込んだ。
「おじ様」
普段ならどうしたんだいと優しく聞いてくれるモーントの姿がない。
「おじ様?」
おかしい。いつもなら寝室にいるのに。書斎で読書をしているのかしら。書斎を見に行く。隅から隅までを確認する。
いない。
食堂。
いない。
地下室。
いない。
広間。
いない。
玄関。
いない。
応接間。
いない。
どこを探しても見つからない。もう一度順繰りに見て回る。やはりいない。どこにも見つからない。
「どこ? おじ様……、いるのでしょう? 私を驚かせるためにどこかに隠れているのでしょう!!」
そうであって欲しいという願いも込めて叫んだ。しかし返事は返ってこない。一分、二分、時間はどんどん過ぎていきついには十分経ってしまった。テネルはどうしたらいいのかわからず呆然と立ちすくんだ。
「おじさまぁ、どこ? どこにいるのぉ?」
堪えきれず幼子のように泣きじゃくる。けれどもモーントは答えず現れなかった。
窓から日の光が降り注いでいた。太陽は真上に近いところまで昇っている。頬の辺りに手を置くと涙で濡れていた。
「おじ様……」
小さく呟き起き上がろうとするとそのおじ様の声が聞こえた。
「おはよう。よく眠れたかい」
「おじ様!? おじ様! おじ様!」
あまりに驚き三回も叫ぶ。
「ああ、おじ様だよ」
「おじ様……。おじ様!」
テネルはモーントに小さな手で抱き付いた。モーントはそれをしっかりと受け止めた。テネルはおじ様、おじ様と泣きながら繰り返した。
その日は久々に楽しい一日を二人で過ごした。いつもより遅めの昼食を兼ねた朝食を食べ、バルコニーでひなたぼっこしながら気がすむまでお喋りをし、幼子のようにモーントの膝の上に座り本を読み聞かせてもらう。おじ様の作った美味しい夕食の後はトランプをし、夜は眠るまでそばにいてもらい低くよく通る声で子守唄まで歌ってもらった。
まさに今まで通りの生活だった。楽しくてたまらない一日だった。しかしそれと同時に悲しい一日でもあった。それが二人で過ごすことのできる最後の一日だと気付いていたから。別におじ様が直接そう言ったわけではない。ただテネルは漠然とそう感じていた。
テネルはさとい子供であった。両親が死んだ後の自分の処理について話す大人達をよく見てきたから大人の事情とやらに敏感になり、すっかりませた子供になった。
「よくお眠り、テネル」
「おやすみなさい、おじ様」
最後の一日の最後に交わした言葉はそれだけだった。しかしその短いたった一言の言葉にはお互いの全ての想いが詰まっていた。だからそれ以上の言葉を交わすこともなくテネルは眠りについた。
二度とおじ様に会えないのならこのまま永遠に眠り続けてしまいたいと思ったが残酷にも朝がやってきてテネルを眠りから引き戻した。
「おじ様、もういないんだわ……」
おじ様が数時間前まで座っていた椅子を眺める。そこにはきらりと光る何かが置いてあった。
「ネックレス?」
三日月の形をしたチャームの付いたネックレスだった。おもむろにそれを取り上げ頭上にかざす。華奢な鎖がカシャリと音をたてる。
「綺麗……」
それの裏をよく見ると少しすり減った文字が小さく刻み込まれていた。
『小さなお嬢さんは月と話す
月は地上に降りていき
少女と共に暮らす
いつか月は空へ戻り少女と別れる』
最後の一行は文字が擦り切れていて読み取れなかった。それを首に巻き付ける。広間の全身鏡に姿を映す。
「似合うかしら?」
背中のほうまで見る必要はなかったがくるっと回ってみた。ふわりとワンピースの裾が持ち上がる。
おじ様がいなくなって最初の日、テネルはおじ様の椅子に座って朝食を食べ、おじ様がよく読んでいたテネルが読むには難しい本を読み、おじ様が着ていたテネルが着るには大きすぎるコートを着て外に出た。おじ様の寝ていたベッドで眠った。
テネルはそんな生活を毎日飽きずに続けた。
ある日、テネルはネックレスの裏を再び眺めた。そして裏に書いてある詩を口ずさんだ。
「小さなお嬢さんは月と話す、月は地上に降りていき、少女と共に暮らす、いつか月は空へ戻り少女と別れる」
そして読めなかった最後の一行の部分に付け加えた。
「そして心は少女と共に」
テネルはそう口ずさむとばさりと音をたててコートを羽織り、軽い足取りで外へ出て月に会いに行った。