5.真実なんかに揺るがされる程度の
夜の公園をジョギングする彼女の後ろをついて走る。
ジョギングはここ半年の彼女の日課であり、自動的に俺の日課でもあった。
彼女もたまにサボる日があって、今日あたりそうかもと思ったがこうして走っている。俺もまだまだ彼女に関する読みが浅い。
彼女がiPodで聴いている音楽はジョギング用のプレイリスト。アップテンポの曲が並ぶ。俺も同じ曲を揃えて聴きながら走っている。どうやってそのプレイリストのラインナップを知ったかはご想像通り、というか部屋に侵入してPCを調べた。
数10メートル先を軽快に走る彼女の姿は小さく朧げだ。しかし俺には感じられる。彼女の息づかいや感情が。今ヘッドホンから流れるのがどの曲なのかまでわかる。
俺は自分の胸を手でさぐる。まだ違和感が残る。筋肉を動かすと引きつる感覚があった。胸に弾丸を三発打ち込まれてから一日経っていた。
こうして俺が秘密組織の任務として(それ以前は自主的に)彼女を見守っている事を、二ノ瀬香乃葉さん本人は知らない。
まして、自分が《世界を裏で操る支配者》の後継者で、《秘密組織》が秘密裏に工作し《彼》と引き合わせようとしているなんて事を知る由もない。
彼女はこれまでの人生をすべて自分で選択してきたと思っている。
しかし、ドSクソ眼鏡キリカの言うには、二ノ瀬香乃葉さんが自分の意志で選んだつもりでいるすべてが、組織の思惑通りにコントロールされ、選ばされた事であるという。
組織の幹部である彼女の両親やその他の構成員により、趣味指向、人生観、癖に至るまで、彼女の存在自体が、組織に都合良く作られたものだと。
クソ眼鏡ビッチにそれを聞かされた俺は、それまでの人生で経験の無い程の怒りを覚えた。激昂しクソビッチに掴み掛かった俺は、三発の銃弾を胸に受けた。
瀕死の俺を構成員達が椅子に座らせ、縛り付ける。俺の身体はナノマシンとやらのおかげで勝手に治ってしまう。
俺を見下してクソビッチ眼鏡が言った。
「緑川君。落ち着いて聞いて。
今の彼女はとても純粋で、明るく、少し天然で、しかし非常に賢く、心優しい少女です。あなたが一番良く知っているわよね。
彼女の思考や人生観、世界観が、限りなくプレーンでフラットな状態であり続けるように我々は尽力して来ました。
組織のリーダーである《彼》から《カルマ》を引き継ぐには、余計な思想や信念等は邪魔だからです。そして、彼のカルマを継げる素質は香乃葉様にしかありません。
あなたがショックを受けるのはわかる。だけど、こう考えられないかしら?
我々の組織が無ければ、あなたの大好きな二ノ瀬香乃葉さんはいなかったのよ? あなたが好きなのは、組織によって作られた、明るく純真な今の彼女でしょう?」
俺は椅子に縛り付けられたままそんな話を聞き、嘔吐した。
俺にとって二ノ瀬香乃葉さんは世界そのものだった。
この世界にまったく興味が持てず、人生をやめるきっかけを探していた俺に、生きる素晴らしさ、世界の美しさを教えてくれたのが彼女だった。俺が勝手に教わったのだが。
彼女が一年以上前から進路について悩んでいたのを知っている。
友人達や家族と離れてアメリカへ行く事を選ぶまでの、彼女の心の葛藤は俺の心まで締め付けた。彼女の両親や友人達はむしろ反対していた。俺は心の中で応援した。
そして彼女は、世界に出て視野を広げたいという希望をかなえる為、渡米を選んだ。
それが、すべて組織の目論み通りだったなんて。
俺は椅子に縛り付けられたまま、涙を流した。色々な穴から色々な液体を出しながら呻き、嗚咽した。
俺が好きなのは、偽りの、作られた彼女なのか?
彼女があれだけ苦しんで決めた選択が、他者の思惑通りだった?
「あなたがつらいのは、わかります」
とクソ眼鏡。
わかるはずがねえだろう。
「あなたにはこの先も真実を少しずつ、教えていかなければなりません。少なからずショックな事もあるでしょう。
だけど、あなたの彼女を想う気持ちはきっと真実にさえ耐えられると信じています」
俺は嗚咽しながらその言葉を聞いた。
そんな事は言われるまでもない。見当違いもいいとこだ。
俺の想いは、真実なんかに揺るがされる程度のものじゃ無い。
ただ、彼女の本当の気持ちは。
俺が好きな彼女が作られたものだったとして、悲しむべきは彼女が本来あるべき姿を、彼女自身が選べなかった事だ。
それを思うと涙が止まらなかった。
走る彼女の後ろ姿を俺は追う。アップにした髪がゆさゆさ揺れて、俺を幸せな気持ちにさせる。
任務は一日休んだだけだ。
鮫島さんはいつもの豪快な笑いで俺を迎えてくれた。
この公園はトラックのように周回コースがあり、夜間も照明が明るいので女性のランナーも安心できるらしくけっこう見かける。
俺から見ればこんな照明があったとしても決して安全ではなく、二ノ瀬香乃葉さんにはもっと早い時間に走って欲しいものだとは思っている。
40分程走った彼女は汗を拭き、息を整えながら自宅までの道を歩く。警戒しなければならないのはここだ。
公園からちょっとした通りに出て、そこから閑静な住宅街へ入る。人通りはあまりない。俺は気配を殺し、出来るだけ彼女の近くを歩くようにしている。怪しい車や人影に対する警戒は怠らない。一番怪しいのは俺なのだが、彼女に気付かれるようなヘマはしない。
無事に彼女が帰宅するのを見届けた俺は安堵の溜息を漏らす。
今日も他の組織とやらは現れなかった。このまま平和に日々が過ぎて行くのを願う。
他の組織。
それは彼女の殺害を狙うのかもしれない。しかし組織やキリカさんが最も危惧するのは、彼女を奪われ、その組織の都合の良い人物に作り替えられる事だった。
真っ白なノートの様な状態の彼女に世界の真実を教え、彼女に備わった支配者としての素質を利用して、世界を意のままに操る。
だから彼女を守らなければならない。それは世界を救う事であって、俺の役割だとキリカさんや鮫島さんは口を揃えて言う。
俺は疑問をぶつけた。俺が今所属する《組織》。それが二ノ瀬香乃葉さんにとって、他の組織とどう違うのか。彼女を利用しようとしている点では同じじゃないか、と。
キリカさんの答えはこうだった。
「この世界にある真実はひとつではありません。無数の真実があり、それぞれが正しいのかもしれない。本当の真実は運命が決めます。そして、運命は決まっている。
彼女は《彼》の《カルマ》を継ぐのです」
思った通り、わけがわからなかった。
鮫島さんはこう答えた。
「てめえのやりたいようにやるだけだろう」
簡潔だった。
俺の考えは当然こうだ。
組織なんてどうでもいい。
二ノ瀬香乃葉さんの選んだ答え。それが真実だ。




