1.君はそう言って俺を見つめた
二ノ瀬香乃葉さんは公園に着くといつも、ジョギングの前に軽くウォーミングアップをする。テニス部時代にやっていた、ストレッチとエアロビクス運動を数セット。軽く息が弾む程度に。
それから周りを見渡し、人がいないのを確認すると奇妙なヒップホップ風のダンスを始める。イヤホンの音楽に合わせて。
あまりリズム感というものが備わっていないのだろう、それは、焼けた鉄板の上で見えない虫を追い払い続ける人のように見える。
俺はなるべく距離を取り、同じ動きをする。なんという至福の時なのか。俺もだいぶこのダンスが上手くなった。
彼女は誰かの気配を感じると虫を追い払うのをやめて「なにかしら?」という表情でストレッチをする。
それから足下の感触を確かめるように、腕の振りや膝の感覚、身体のキレを点検するみたいにゆっくり走り出す。何事もよく考え、慎重に取り組むのが彼女だ。
一周したところでペースを上げる。お気に入りの曲がかかると更にペースが上がって、後ろからでもどんな顔をして走っているのか想像できた。こっちも嬉しくなる。
ノルマは8周。5周目から目に見えてペースが落ちるけど、途中で歩く事は決してない。
こうして離れて走って、彼女が何を考えているのか、どんな事を感じているか想像するのが俺は好きだ。それで幸せだ。
そう思った時、違和感があった。そうなのか? と。
いや、幸せだった。この間までは。
3日前にルナと出会った。その日から二ノ瀬香乃葉さんを思い浮かべる度に、それまでと違った感情を覚えた。今日、数日振りにこうして彼女を見ているけれど、以前程には幸せを感じていなかった。
ルナは俺の話に笑い、俺の背中を叩き、俺に手を振って、俺に笑いかけた。
ルナは俺の聞いた事のない色々な話をして、何か聞くとその10倍くらいの事を教えてくれた。彼女は俺に向かって話し、俺を笑わせようとする。俺もそうした。ルナと過ごした時間は本当に楽しかった。そんな体験はしたことがなかった。
初めてわかった気がする。あれが人との関わりというやつなんだろう。コミュニケーション?
そして俺が今やっているのは。一応任務の名目はある。二ノ瀬香乃葉さんを見守り、彼女を想う。
これ以上の幸せはないと、今の俺は言い切れない。
彼女と向かい合い、話し、笑い合えたのなら。俺の言葉によって変わる彼女の表情が見られたら。心を通わせることが出来たなら。
その方が幸せなのではないか。
こんなのは当たり前なのかもしれない。だから恋愛小説や映画の登場人物達は恋する相手との関わりを求めてやまない。そんな事も、俺には今までわからなかった。
本当は薄々気がついていたと、今は思える。だから俺はあの日、彼女の事を忘れようと、競泳水着を届けに行った。
彼女と向かい合う勇気なんかなかったから、忘れようとした。
見ているだけで幸せだって、思い込もうとしていた。
本当は。
自分の気持ちを頭の中で言葉にしてしまう。
本当は彼女と友達になりたかった。
なんて今更なんだろう。やっと、俺は気付いたんだ。ルナが言ってくれたような純愛なんかじゃない。誰しもが勇気を持ってやっている事ができないだけだ。好きな人に想いを伝える。そうじゃなくても、ただ話しかけるだけでもいい。俺はそれくらいの事をやろうともしなかった。
気付くと二ノ瀬香乃葉さんの姿が遠くなっていた。ペースを上げて距離を詰める。他にもちらほらとランナーはいる。考え事に気を取られて、彼女の警護がおろそかになっていた。反省し、程よい距離を取って彼女の後に続く。
その時、俺の体が誰かによって強く引っ張られた。
気配は何も感じなかった。勘は働いていなかった。しかし、走っていた俺は横から現れた人影に茂みに引き込まれ、気付くと芝生の上に仰向けに押さえつけられていた。そして俺の上に馬乗りになっているのは。
……顔にストッキングをかぶった男だった。
その状態のまま、俺は鮫島さんに電話をかける。1コールで出た彼に状況を伝えた。変質者に捕まりました。いえ、俺がです。彼女の事は頼みます。はい。では。7秒で通話終了。
頭からストッキングをかぶった男は黙ってそれを見下ろしていた。
なんだか知らないが、ただの変質者だろう。なぜ俺を襲ったのか。
「……どいてくれよ」力づくでどかす自信は無いので、一応声をかけてみた。コミュニケーションだ。すると変態男が言った。
「お前は、女の子の後をずっと付け回していただろう? このまま警察へ行くか?」
驚いた。俺は彼女からは当然だが、周りにも気付かれぬように上手くやっていたはずだった。こいつ、何者だ?それから、警察を呼んだら俺と一緒にこいつも捕まるだろう。
《組織》等と関係のない、ただの変質者なら話せばわかるか?余計わからない気もした。
「あんたこそ、ここで何をしているんだ?」
俺は尋ねる。ストッキング越しに表情は読めない。
「平和を守っている」
変質者はそう答えた。……最近こんな奴ばかり出会う。流行っているのか、妄想とか、正義とか悪とかが。
「だったら」俺は言った。「俺も似たようなものだ」
平和を守る男と俺は、なぜか連絡先を交換した。
組織の事は伏せて、彼女が夜遅くジョギングなんかしているのが心配で見守っているのだと説明をする。だいたい真実だ。
男は携帯電話を取り出した。俺をまだ信用していないから、一応電話番号とメアドを押さえておきたいとの言い分で、俺は頭がクラクラするのを感じながら従った。彼女に関する事以外、俺は万事がどうでもよく成り行き任せだ。
結果、俺のスマホに新たな連絡先が加わった。最近急に人気者になった気分だ。秘密組織のメンバー数人にミレニアムからやってきた女子高生、そして平和を守る男。そうそうたるメンツが揃う。どうしてこうなったのだろう。
茂みをかき分けて周回コースに戻った。鮫島さんに連絡。すみません、今戻りました、彼女が来たら任務再会します。了解、の返事。
テクテクとコースを歩く。いずれ彼女が追い抜いて行く。そうしたらまた、後ろを追いかけるつもりだ。彼女はコースの内側に沿って走るから、俺は外側に避けておこう。
そうして歩いていると彼女が力強く走り抜けて行った。ラストの一周を、彼女はいつも気合いを入れて走る。
走り出すタイミングを計っていた俺に、予想もしていなかった事が起こった。
彼女が。
二ノ瀬香乃葉さんが、くるっと引き返し、俺に向かって走って来た。
速度を緩め、目の前で止まる。
「緑川君でしょ?」
君はそう言って俺を見つめた。




