1.君が好きなんだ
好きなんだ。
好きなんだ。
君が好きなんだ。
ママチャリを漕ぐ俺はきっと今、ツール・ド・フランス七連覇、ランス・アームストロングより速い。俺にはドーピングなんか必要ない。
二ノ瀬香乃葉さん、君が好きだ。
君を思うだけで涙が出る。
高校で同じクラスになってから三年間、ずっと君を見ていた。
授業中の真剣な横顔。友達と話す楽しそうな笑顔。クラス委員として発言する凛々しい顔。一人でいる時のちょっと油断した顔。
お昼に弁当のおかずを食べる順番も俺は知っている。嫌いなトマトは一番最初。微妙に入る眉間のシワがたまらない。
テニス部の君は誰よりも練習熱心で、だけどレギュラーにはずっとなれなくて、一人で泣いたね。それを見て俺も泣いた。
学校帰りの買い食いが君の一番の楽しみだ。君の好きなキーマカレーコロッケは、もう俺の好物にもなっている。体重を気にしてるのに和菓子屋の前に仁王立ちして、結局苺大福を買っちゃう君の意志の弱さも俺は好きだ。
サッカー部のあいつと君は一回だけデートした。あいつが変な事をしようとしたら殺そうと思ってた。だけど、君があいつを好きならば、身を引く覚悟はできていた。結局君は退屈そうで、俺は少し安心したんだ。
家族とは仲が良くて、特にお父さんとはいつも楽しそうにおしゃべりしてたね。彼氏はできないのかなんて聞かれると、怒ったふりしてむくれた声を出して、それが本当に可愛くて。
一人で部屋にいるとちょっと外れた音程で流行の歌をうたったり、ブツブツ独り言を言ったり。もう高校三年生なのにケロちゃん(多分ぬいぐるみ)と話をしたり。けっこういびきが凄いのが悩みだよね。俺は全然オッケーだけど。
君の少しだけ茶色い、ふわっとした髪が好きだ。君の顔が好きだ。切れ長の瞳が好きだ。平らな胸が好きだ。日焼けした首や腕や脚が好きだ。
クラスで一番可愛いってわけじゃない。だけど君が好きなんだ。
一言もしゃべった事が無い君を、俺は好きなんだ。
見ているだけで(望遠レンズ)、声を聞くだけで(盗聴)、君の後ろを歩くだけで(尾行)、俺は最高に幸せだったんだ。
だけど幸せな三年間はもう終わる。
君は親戚のいるロサンゼルスへ移住するという。
俺はずっと君を見ていようと思っていた。ロサンゼルスへついて行く覚悟もした。
しかし。それでいいのか。俺は解っている。もう、現実を見る時だ。
本当は、つらかった。どこへもたどり着かない思いを抱えるのに疲れてしまった。
クラスでも目立たない俺を、君は多分知らないだろう。名前くらいは覚えてくれてるかな。何の取り柄も無く平凡な俺に、君に思いを伝える事はできない。君を驚かせたり怯えさせたりキモがらせたりしたくない。
君の事を忘れてしまおう。
大好きな君を忘れて、俺は新しい人生を生きよう。
ごめんなさい。勝手な俺を許して欲しい。
そして、確信できることがある。
これから一生、他の誰かを好きになる事は、決して無い。
三年間の締めくくりとして、こんな勝手な思いの総決算として告白するなんてできない。
だけど、俺には最後にやっておかなくてはならない事があった。
二年生だった、あの夏。君が落とした小さな袋。声は掛けられなかった。なにが入っているのか、俺は知っていた。家へ持って帰ってしまった。あれ以来、悪夢にうなされる程自分を責めた。何度も返そうと思った。そうしようと思えば簡単だった。でも出来なかった。君に対する邪な感情。君を性欲の対象として見る、そんな考えが微かなりとも自分にあった、その事に打ちのめされた。
二ノ瀬香乃葉さん。
君がロサンゼルスへ行ってしまう前に。
君と会えなくなる前に。
君が俺の人生から消えてしまう、その前に。
君に競泳水着を返したい。
クリス・ボードマンのタイムトライアルの記録を塗り替えながら俺は疾走する。
夕暮れの街。君はもうすぐ家についてしまう。
追いつかなければ。腕時計に目をやる。
今、君は近所の犬に挨拶をしている頃だ。コロッケを少しあげちゃう事もある。今日は和菓子屋仁王立ちはしないはず。昨日15分立ってたから。
急げ。もうすぐだ。
君に会うんだ。
君に渡すんだ、この競泳水着を。
袋を開けた事は無い。たぶんカビだらけだ。
君はどう思うだろう。
俺のセリフは用意してある。
「これ、落とし物」
それだけ言って、世界最速のスプリンターより速く、走り去るつもりだ。
あの曲がり角だ。時計を見る。間に合った。じきに君が姿を現す。あと20秒程だ。
スピードを落とそうとした俺は妙な物に気付く。白いワゴン車が停まっている。スモークが貼ってあり、中は見えない。この三年間、こんな所でこんな車は見た事が無い。
車が俺と同じ方向へ走り出す。右へ曲がる。そこには君がいるはずだ。
俺はスピードを緩めない。
ツールのラスト、残った足を使い尽くしてゴールを切るレーサーより速いスピードで、俺はワゴン車の側面目がけてペダルを踏んだ。




