1/炎上
”世界は今、停滞期に入っている”と、なにかで耳にしたことがある。世界全体の発展は僅かなものに過ぎず【革新的な】と言われるような新たなものが創造されることはない。
先進国と発展途上国という名で隔てられていた国々も、今となってはそう差はなく、そのおかげか戦争もあまり起きることのない平穏な毎日が続いていた。
そう。だからこの平穏な毎日はそれこそ永遠のもののように思えてしまう。誰もがそう思っているはずだ。無論、俺もだ。
なんてことのない平坦な一日。その一延長線、その日の午後にあいつに話しかけられるまでは、だ。
あれからは何もかもが幻想であったのだ。すべてがあらかじめ創造され、計画しつくされていたことである、と俺は最後まで気づくことができなかった。今更自分の不甲斐なさを呪ってもしょうがないのに。しかし、やはり俺は何もせずに最後まで傍観していたにすぎなかったんだ。
†
午後一番の授業は世界史だった。学生の唯一の休息である昼食も済み、昼休みの気怠い雰囲気を引きずったままでの授業。しかもそれが教師の解説で授業の大半が潰れる世界史ともなると、授業を受けている生徒たちの眠気は最高潮へと達していく。
そんな催眠にも等しい授業を、窓際の席で受けている空裂刀熾も例外ではなく、うとうととしていた。
眠たいのは今日に限ったことではなかった。世界史があるのはどういうわけかいつも午後だ。そのため、刀熾は高校に入学した四月から現在七月に至るまで、世界史の授業をまじめに受けたことがなかった。加えて今日は気温が高めだ。窓から暖かい日差しが差し込み、その心地よさのせいで眠たさはさらに増す。うなだれた頭がぷかぷかと浮き沈みする。
意識も朦朧として夢に落ちようとしていた刀熾は、突然頬に鋭い痛みを感じ一気に現実へと引き戻された。
頬をさすりながら、何事かと辺りをこっそりと見回すとこちらを見てにやにや笑っている反田一輝の姿が目に入った。一輝の手元、机に開かれたノートの上には数本の輪ゴムがあった。どうやらさっきの痛みは一輝が輪ゴムを飛ばしたものらしい。
「あのやろ…………」
一輝は刀熾の一番の友人である。ただ彼は時折授業中にちょっかいを出してくる。刀熾はそんな一輝に少しだけうんざりしていた。クラスの人気者であるのは確かだが、お調子者でもある。
刀熾は一輝を睨む。しかし一輝はそれを無視した。すでに別の眠っているクラスメイトをターゲットに据え、輪ゴムを指に構えている。刀熾は一輝を気にすることをやめ、はぁ、と息を吐いた。
依然として止むことのない世界史教師の解説の雨。神経を衰弱させんとばかりに書き連ねられる黒板の細かい文字。この中をやり過ごすためには「寝る」という行為が一番だと刀熾は思っていたのだが、一度起こされてしまうともう寝る気にはなれなかった。
刀熾は仕方なくノートを開きシャープペンシルを筆入れから取り出す。面倒ではあるが、黒板の文字を写すことにした。久々にまじめに授業を受けることになるので授業内容が分るかどうか少し心配だったが、授業は運良く分かりやすい範囲だった。
授業の範囲は世界史でも比較的近代。西暦二〇二〇年代付近。ここは小学校でも中学校でも学習した。それは人類にとって大きな転換期。
二一二二年の現代から約百年前のことである。
「それで、一九九〇年代から各国の様々な研究者が集まり極秘裏に勧められていたプロジェクトがあった。それがいわゆる【統一言語】プロジェクトだな。【統一言語】の開発ということだ」
ここ重要な、と赤のチョークで黒板に書き込む教師。
「【統一言語】は研究途中二〇〇〇年から一半に知られるようになり、研究が始まって約三十年。二〇二〇年あたりにほぼ完成し、それから急速に広まった。これには【自動学習装置】の発明も関係する。【自動学習装置】のおかげで、五年ほどで世界中に広まった。ただ、その後【統一言語】に関する重大な欠陥が見つかり、【知識削除装置】により【統一言語】は人々の記憶から抹消された。言語としては刹那のような時間で広がり、そして消えていった不思議な存在だということだ」
【統一言語】。それは当時世界の約七十パーセントの人間が使用していた共通言語である。すべての人類が同じ言葉で意思疎通を出来るようにすることを目的として研究され、完成したものだった。
「現在ではすべての情報が破棄されているそうだ。五十年ほど前まで使われていたとはいえ、【知識削除装置】でほぼ完全に削除されているからもう話せる人間はいないらしい。それで、次に覚えて欲しいのが…………」
淀みなくスラスラと話している世界史教師。今日もそのトークは冴えている。あんなにしゃべり続けてよく喉が枯れないな、と刀熾はどうでもいいことを考えていた。無意識にくるくると回りだすシャープペンシル。
「――で、ここの範囲な。次回、小テストするから、ちゃんと勉強しとけよ」
そんな教師の台詞が聞こえ、刀熾はいつも通りカンニングペーパーを早めに作成する。
「時に、空裂。そこ、また火屋はいないのか?」
突然名前を呼ばれ、ドキッとしながらも刀熾は教師の視線の先――顔を上げ前を見る。そこは火屋操佳の席。
「ええっと……知りません。いつものことですよ、先生。登校だけはしているみたいですけどね」
半ば乱暴にそんなことを言ったが教師もそうだな、と小さくうなずき、また別の解説を始めた。
火屋操佳。刀熾は授業を受けている彼女の姿をまだ一度も見たことがなかった。この高校に入学して約三ヶ月、一度もだ。それは刀熾だけではなくクラス全員がそうであろう。朝と帰りのホームルーム、そして授業の合間の短い休憩時間と掃除時間――ようするに授業以外の時間は確かにいるのだ。しかし授業となるとふっとどこかへ消えてしまう。入学当初こそ可愛いと男子から評判だった彼女も今では「幽霊」があだ名である。こんなことを続けていると普通退学になりそうなものなのだが彼女はそうはなっていない。刀熾が聞いた噂によると、操佳の実家は相当な金持ちらしく、私立であるこの学校に多額の寄付をしているらしいということだった。
なんとなくぼうっとしたまま五十分が過ぎた。チャイムが鳴り授業の終わりを告げた。
「きりーつ、きょーつけー、れぇい」
学級委員である古雅美里がいつものように間の抜けた号令をかけ授業は終わった。号令をかけた本人が真っ先に教室を飛び出す。刀熾はそんな彼女をなんとなく目で追いながら背伸びをした。
「ああ、やっと終わった。また眠くなってきたな……」
刀熾は片手で目をこすりながら、片手で次の授業のために引き出しから教科書を取り出し――――顔を上げたところでいつの間にか目の前にいた火屋操佳と目があった。
「――――え?」
刀熾は突然のことにそんな間抜けた声を上げる。
授業の終わりのとき、そこには誰もいなかった。授業が終わってまだ一分ほどしか経っていないのだ。彼女はいつ現れたのだろう。それに、彼女はなぜこちらを向いているのだろう。
操佳は刀熾から視線を外さない。しばらく見つめ合ったまま刀熾は声すら出せずにいた。気のせいか周りからも視線を感じる。ほとんど教室に姿を表さない操佳。彼女がいるだけで、彼らにとっては十分すぎる話題の種となるのだ。
「ねぇ、」
先に口を開いたのは操佳だった。
「さっきの時間、なにか変わったことはなかった? 空裂くん」
「は…………?」
「だからさ。さっきの授業。えっと……そう、世界史。そのとき空裂くんに普段と違う出来事があったか、てことを訊いてるの。空裂くんはいつも世界史の授業のときは寝てるけど、今日は起きてたでしょう? 何で? 何かあったんだよね」
操佳の勢いに圧され、刀熾は苦笑いをする。しかし相手にその表情の意味は伝わらなかったらしく、なぜか殺気じみた視線を向けてくる。このまま答えないでいると殺されかねないと思えるほど強い視線だった。だから刀熾は彼女の真意が分からないまま、問いに答えることにした。
「終盤起きてたのは反田に起こされたんだよ。指で輪ゴムはじいて飛ばしてきたんだよ」
その回答が彼女の求めている答えなのかは分からなかったが、操佳の視線は少し穏やかになったようだった。
操佳はふーん、と少し考えた後何か思い出したようにして反田のほうを睨んだ。こっちを盗み見していたらしい反田は突然睨まれ、驚くべき速度で反対を向いた。
刀熾はなんなんだろうと思いながらも操佳とはこれ以上関わりたくはなかったので、再び授業の準備をはじめた。
気づくと操佳はまたどこかへと消えていた。神出鬼没な彼女を、刀熾はそれ以上気にすることはなかった。
それはすべての授業が終わり、ちょうど清掃の時間のことだった。けたたましい音を上げ、校内に非常ベルが鳴り響いた。火災が起きたことを示す警告音。生徒たちはその音に一瞬ざわついたが、そのざわめきはすぐに収まった。誰一人としてそのアラートを真に受けている者はいなかった。普段から悪戯や誤作動がないわけではなく、比較的よく鳴っていたからだ。それに――火災というものが自分の身近に起きるはずもないという現実逃避か。
教室の掃除をしていた美里が学級委員らしくクラスメイトに落ち着くように声をかける。いつもは抜けている感じの彼女だがやるときはやるのだ。やり過ぎることもあるが。
非常ベルが鳴り、約一分ほどで校内放送がスピーカーから響いた。
『火災発生。火災発生。火元は西棟第三理科室です。生徒の皆さんは落ち着いて速やかに避難してください。教師の皆様は近くの生徒たちを誘導してください。繰り返します……』
明らかに空気が凍りついた。スピーカーから聞こえる教師の声は切羽詰まっている。生徒たちから笑顔が消える。教室に血相を変えて駆け込んできた担任が生徒たちにすぐに校庭へ避難するよう促す。悲鳴を上げる者も数人いたが、大半は動揺しつつも日頃の避難訓練のおかげもあってか冷静に逃げ始めた。
刀熾のクラスは学校の四階だ。逃げるためには無論階段を降りなければいけない。早足で階段を降りる生徒たち。とはいえ、やはり詰まってしまう。刀熾は人の波の一番後ろにいた。
思うように前に進めず、刀熾はため息をついた。自分が一番後ろだ。自分が助かれば前にいる人間は少なくとも助かる。余裕はありそうだ。
四階から三階、三階から二階、そしてようやく一階へと続く階段に差し掛かったところで、刀熾は突然腕を掴まれ歩を止めた。
「え…………?」
驚き、振り返る。すると、そこにはなぜか火屋操佳がいた。
「な、なんだよ」
刀熾は操佳の腕を振り払い、少しだけ身構えた。しかし操佳は何をするわけでもなく、ただ刀熾をじろじろと観察した。刀熾はその舐め回すような視線に戸惑う。どうしたものか、ととりあえずこの辺な状況からは抜け出したい。
「――なにしてるんだよ。火事だぞ! 速く逃げなくていいのかよ。俺は逃げるぞ!」
刀熾はそれだけ言い、踵を返し再び逃げ始めようとし、
「■■■■■■■――――」
操佳の一言に動きを束縛された。聞き違えのはずだった。刀熾はそれでも確認するために振り返り操佳に問うた。
「今、なんて言った?」
はっきりと聞こえたその言葉はなんとも冗談で、ばかばかしいものだったから。
「だーかーらー。火事を起こしたのは私だよって言ったんだよ。どこがどの程度、どんなふうに燃えてるか把握してるから私と刀熾は逃げなくていいんだよ」
信じられるものではない。ただそれが虚言であるという証拠もない。もしそれが本当だとしたら、それを平気でそれも笑顔で言う彼女はなんなのだろう。さっきの警報は誤報ではないだろうからどこかが燃えているのは確かだ。ただ彼女が犯人だったとしても、それを今ここでカミングアウトするわけも刀熾には理解できなかった。
刀熾は彼女の言葉をただの冗談だろうと決めつけた。普段からよく分からない奴だから、と。
「こんな時に冗談なんか言ってる場合かよ。お前が何を考えてるかしらないけど、俺は逃げるからな」
こんな電波少女に付き合っていられないと、刀熾はこんどこそ生徒用昇降口を目指して走り始める。もう生徒の大半は避難できているようで、生徒の姿はちらほらしか見えない。
ちょっと待ってよ、と背中で操佳の声が聞こえたが刀熾はそれを無視した。こうすれば彼女も諦めて逃げてくれることだろう。彼女が自分になんのようがあるのか走らないが自分のせいで人がどうにななるのは嫌だった。
しかし刀熾の考えは甘かった。
操佳のやることは刀熾の想像の範疇からずれていた。
「――ねぇ。なんで逃げるの?」
「な…………っ!」
目前に突如として操佳が現れる。
「大丈夫だって言ったのに。私の言葉、理解できてる?」
なんの前触れもなく、まるでずっとそこにいたかのように。腰に手を当て刀熾に立ちはだかる。
「なんなんだよ、お前は――!」
たじろぎ、言いよどむ。目の前で起きた不思議な現象に刀熾は混乱していた。
――――超能力。そんな単語が頭に浮かぶ。テレビなどでそんなものを見ても、所詮画面上ではヤラセとしか思えず信じられるものではない。しかし、瞬間移動じみた光景を目の当たりにしてしまえばもうなにも疑うことは出来ない。超能力者…………。
「ま、それも言い様。超能力者か」
ゆっくりと操佳は刀熾に近寄る。意味深な笑みを浮かべて。刀熾はつい後ずさる。なんだか心の中を読まれたような気がして気持ちが悪かった。
「私は超能力者なんかじゃないよ。こんなことは多分あなたもできる。気づいてないだけでね」
「どういう…………」
刀熾は眉をひそめる。だが操佳は何も答えなかった。操佳は無言で刀熾の手を引き階段を上っていく。
「ちょ、ちょっと待てよ。逃げるんじゃないのかよ! 火事だぞ、火事! さっきから何を言ってるのか分からないけど、状況把握していないのはお前だろ!」
無論刀熾は火事がどの方向に広がっているのかは把握はしていない。外からは消防車の音が聞こえている。もう消火活動も始まっているようだ。いずれにせよ、火事が起きていることには間違いない。校舎に戻るのは自殺行為以外の何物でもなかった。
操佳はそんな心配をしている刀熾を無視し、どんどん進んでいく。
刀熾はなんとか操佳の腕を振り解こうとするが少女のものとは思えないほどの強い力で握られていたため、それは無理だった。
結局そのまま操佳に引き連れられ辿りついたのは屋上だった。
屋上へ行くまでは厳重に鍵をかけられた扉があるがそれはなぜか開いていた。
操佳が扉を開ける。
大きく開いた屋上。刀熾は屋上に来るのが初めてだった。普段は鍵がかかっているから当然なのだが。校舎自体が大きいため、屋上もなかなかの広さだった。端はもちろん落下防止策で囲まれ、しかしそれは大きな檻のようであった。それが刀熾の目には気味が悪く映った・
屋上からはグラウンドが見える。グラウンドには全校生徒が避難していた。しかし数人の教師がせわしなく動いている。何か探しているようだった。おそらく自分たちをだろうなと刀熾はすこし申し訳なくなった。いくら操佳に連れてこられたからといっても自分が彼らに迷惑をかけていることには間違いはなかった。
「ふぅ。やっぱりまだ燃えてる。あはは、水かけても意味ないのに頑張るねぇ、彼らも。まぁそれが仕事だし当たり前だけどね」
操佳は西棟を見てそんなことを言った。刀熾もつられ西棟の方を見る。
――確かに燃えていた。もくもくと黒煙をはきながら大きな火の手が上がっている。西棟と東棟は直接はつながっていない。そのおかげでまだ東棟には火がきていないようだった。
それにしても変だった。
火の勢力は強く、ちょっとやそこらの放水では火が消えないことは刀熾も理解していた。しかし勢いを抑えるには効果を発するはずだし、第一こんなに早く火が回るものなのだろうか?
刀熾はちらと操佳を見る。
「な――――っ!」
刀熾はその光景に言葉を失った。
操佳が空に向かって手を挙げ、何かを呟いている。
――それだけなら問題はなかった。
問題は別にあった。
グラウンドの上空、空を覆いつくす巨大な火の塊。
空気を介して伝わってくる圧倒的な熱気。急に砂漠に飛ばされたかのような気温の上昇。周囲が赤の光に包まれ目が眩む。
グラウンドにいる生徒たちもそれに気づいたようで、しかしそのあまりにも非現実的な光景に唖然としていた。
あまりにも唐突であまりにも馬鹿げた現実を大きく外れた光景がそこにはある。それが何であるか、それがどうなるのか。刀熾はなぜか理解してしまった。理解できてしまった。
馬鹿げている。
でもそれが現実。現実はいつでも唐突に歪む。
「フェーズ2。選別開始、」
ふいに操佳がそんなことを呟いた。
刀熾はばっ、と操佳のほうを向く。
「止めろ――――――――!」
しかし、その声は意味のないものだった。
操佳の手が振り下ろされる。
同時に地獄が落下した。