そこに咲くスミレ
これは、子供の頃の話。
私がまだ小さくて、何も知らなかった頃の話。
まだ生まれて十年も経っていなかった私には、友達と呼べるような相手は全然いなくて、いつも一人ぼっちでいた。
当時九歳。小学三年生の春。
四月、十七日。
一人ぼっちの帰り道には慣れていた。
みんなが楽しそうに談笑しながら帰っているのを横目に見ながら、私は地面を見つめていた。
今日はこんな石が落ちてるなぁ。
今日はこんなゴミが落ちてるなぁ。
昨日落ちてたあのゴミはどこへいったんだろう?
そんな、どうでも良いことばかり。
当時の私は、誰かと話をするのが苦手だったらしく、入学してすぐに誰かに話しかけることが出来なかった。
入学前の友達は皆別の学校へ行ってしまったため、新しく友達を作らなきゃいけなかったんだけど、当時の私にはそんなことが出来るハズがなくて、自然と一人ぼっちになっていた。
去年の家庭訪問の時、先生が母にこんなことを言っていた。
「鞘子ちゃんはいつも一人で、心配です」
その日以来、母が私の学校生活のことをしきりに心配するようになった。
一人だって、問題ない。ちゃんとやっていける。テストの点数だって取れる。
ただの強がりだって、今ならわかる。だけど当時の私は、肩肘を張って頑なに大丈夫だって思い込んでいた。友達なんていなくても大丈夫だって。
ただ、ちょっと寂しいだけで。
そうして入学から二年が過ぎて、三年目の春がきた。
四月十七日。
私の誕生日。今年で、九歳。
祝ってくれるのは家族だけだったけど、それでも私はご馳走やプレゼントが楽しみで、帰路の足取りは自然と軽くなっていた。
そんな、時だった。
「こんにちは」
歩く私の前に、立ちふさがるようにして女の子が現れた。
私が前を見てなかっただけなんだと思うけど、その子は足音も気配もなく、まるで突然そこに現れたかのようだった。
下を見ていた私が、その子が女の子だと気付けたのはその子がスカートをはいていたってだけなんだけど……。
顔を上げると、三つ編みの女の子がいた。
当時の私と同じくらいの年齢。多分九歳か十歳くらいに見える女の子だった。
「えっと……」
返答に困っていると、女の子は不意に私の手を取った。
「行こう」
「ど、どこに……?」
女の子は内緒、とだけ答えて、ちょっとだけ強引に私の手を引いて駆け出した。
しばらく一緒に走って、女の子は公園の前でピタリと止まった。
「今年はここまでっ」
「今年……?」
女の子が何を言っているのかはわからなかったけど、同年代の女の子と話をするのは年単位で久しぶりだったせいで、昂揚感が違和感を打ち消してしまっていた。
「あの、名前……」
口にして、先に名乗るべきだったと後悔した。だけど、その時女の子はニコリと笑って答えてくれた。
「私はすみれ。貴女は?」
「私は……鞘子。藤堂鞘子」
「それじゃあ、さーちゃんだね」
あだ名をつけられたのは、その時が初めてだった。
嬉しくて嬉しくて、目の前にすみれちゃんがいるのに、私はにやついた笑顔を浮かべてしまっていたのを今でも覚えている。
「じゃあ、来年はここで会おうね」
「来年って……明日は会えないの?」
私の問いに、すみれちゃんは寂しそうに首を振るだけだった。
「じゃあね、さーちゃん」
「あ、すみれちゃん!」
すみれちゃんはすぐに私に背を向けて、どこかへ駆け出して行った。途中までは追いかけられたんだけど、いつの間にかすみれちゃんはどこかへいなくなってしまっていた。
四月十七日。
すみれちゃんに出合ってから一年が経った。
あれから一度もすみれちゃんに会うことはなかったし、私は何度もすみれちゃんと初めて会った場所と、別れた場所――公園に行ってみたけど一度も会うことが出来なかった。
この一年の間に「友達」と胸を張って言えるような相手は出来なかったものの、前と比べて人と話すことが出来るようになっていた。もしかすると、私にも友達が出来るかも知れない、そんな風に考えるようになっていた。
そうして迎えた四月十七日、私はすみれちゃんとの約束通り学校の帰りに公園へ行った。
すると、約束通りすみれちゃんは公園の入り口で待っていてくれていた。
「あ、さーちゃんだ」
一年も経てば、背も少しは伸びるだろうし何かしら変化はあるハズなのに、すみれちゃんは一年前と何も変わっていなかった。
でも当時の私は、すみれちゃんにもう一度会えたことが嬉しくて、そんなことなんか気にならなかった。
「じゃ、行こ」
「どこに?」
その時もすみれちゃんは、内緒、としか答えなかった。
すみれちゃんは去年と同じように私の手を引いて駆け出した。前は緊張と昂揚感で気が気でなかったけど、その時は少しだけ落ち着いていて、すみれちゃんがどこに連れて行ってくれるのか楽しみだな、なんて考えるようになっていた。
今度は森の入り口辺りですみれちゃんは止まった。
「それじゃ、今年はここまで」
今年は、ここまで。
ということは、来年も会える……そう考えて、私は微笑んだ。
「あ、あのね……すみれちゃんのこと……」
「なぁに?」
顔を赤らめてもじもじする私を、すみれちゃんは笑って待っていてくれた。
「すーちゃん、って呼んで良い……?」
今思えば、ビックリする程安直な名前だった。すみれの「す」ですーちゃん。一文字違えば、どこぞの釣り漫画のおじいちゃんになってしまうような名前。勿論当時はその漫画のこと知らなかったけど。
すみれちゃんは、しばらく呆気に取られたような表情を浮かべていたけど、すぐに笑顔を浮かべて――
「ありがとう。私達、友達だね」
と、そう言った。
その時の笑顔が、泣き出しそうな笑顔だったことに気付いたのは、その日からもう何日も経った後だった。
次の年も、その次の年も、すーちゃんは私の前に現れた。同じ日の、同じ時間帯に、必ず。私の……誕生日に。
毎年会う度に、すーちゃんは私の手を引いて森の奥へと進んでいく。森の中は、日中でも少し暗くて怖かったけど、すーちゃんと一緒だったから、大丈夫だった。一人で帰るのは少し怖かったけど。
すーちゃんはいつも「今年はここまで」って言うと、しばらくして私を置いてどこかへ行ってしまう。すーちゃんがどこの学校に通っていて、どこに住んでいるのかもわからなかったけど、私はすーちゃんに何も聞かなかった。
流石に私も十一歳になった頃には、毎年会っているのに見た目が全く変わらないすーちゃんに違和感を覚え始めていたけど、それでも私は何も聞かなかった。
もしかすると、その時点で既に私は半分気づいていたのかも知れなかった。
そして、すーちゃんに会うようになってから五回目の誕生日。
中学校に入学する頃には、私にも友達が出来ていた。
私がこうして他の人と話して、友達になれるようになったのは、すーちゃんのおかげだ。あの時、すーちゃんに会わなければ、私は変われなかったような気がする。
すーちゃんは特に何もしていない。突然現れて、私の手を引いて森の中へ連れて行くだけ。今思えば、すーちゃんと出会ったことと、友達が出来たことは全然関係がない。だけどその時の私は……いや、今も私は、すーちゃんのおかげだと思っている。
だから私はその日、私はすーちゃんにお礼を言おうと思った。
友達になってくれて、ありがとうって。
その年も、すーちゃんは私の前に現れた。いつも通り私の手を引いて、森の奥へと走って行く。
最初に会った時と、全く変わらない姿で。
もう、私の身長は彼女を優に越えていた。違和感はあった……けど、それを問うのはいけない気がして、私は問うことが出来なかった。
だからその時は、今年はどこまで行くんだろう? などとそんなことを考えながら、すーちゃんに手を引かれるままに進んで行った。
去年止まった場所も過ぎて、ドンドン走って行って、不意にすーちゃんはピタリと止まった。
木漏れ日が綺麗な場所で、そこはこの森の中のどこよりも綺麗に見える場所だった。
「綺麗……」
傍に立っている大きな木を眺めつつ、そんなことを私が呟く。すーちゃんはきっと、この綺麗な景色を私に見せたかったんだ。と、その時は思っていた。
「今年はここまで?」
すーちゃんが言うよりも先にそう問うと、すーちゃんは困ったように笑っていた。
「すーちゃん、あのね」
私が話を切り出すと、すーちゃんはなぁに? と首を傾げる。
「私ね、すーちゃんに感謝してる」
「どうして?」
キョトンとした表情を浮かべるすーちゃんの手を、私は強く握った。
「私、すーちゃんのおかげで友達が出来たんだ! すーちゃんが友達になってくれたから、私、勇気が出た!」
その言葉を聞いて、すーちゃんは嬉しそうに微笑んでいた。
「そっか。良かった」
まるで自分のことみたいに、すーちゃんは心底嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「だからね……その……ありがとう」
「うん。私こそ、ありがとう」
そう言ったすーちゃんの言葉に、私は首を傾げた。
「毎年毎年会ってくれて、ありがとう。いつもいつも、今年はダメかな……って私心配してたの」
少しだけうつむいて、その後すぐにすーちゃんは顔を上げた。
「でもさーちゃんは、毎年来てくれたね。ありがとう」
お礼を言われたのが照れ臭くて、私は少しだけうつむいてしまっていた。
「今年で、おしまい」
「え――――」
すーちゃんの言葉に、私は息を飲んだ。
「もう、着いちゃった」
「着いちゃったって……だからって、何で今年でおしまいなの?」
不安げな声音でそう問う私に、すーちゃんは何も答えない。ただ寂しそうに、笑顔を浮かべるだけだった。
「それじゃ、後はお願いね」
スゥッと。すーちゃんの後ろの景色が見えた。
景色の中に、少しずつすーちゃんがとけていく。
「え……すーちゃん……!?」
握っていた手の感触が、だんだんなくなっていって。
「ありがとう、さーちゃん」
すーちゃんの後ろの景色が、だんだんクッキリとしていって。
「ちゃんと、見つけてね」
声も、どこか遠く聞こえ始めて。
気が付いたら、そこにすーちゃんはいなかった。
何度も辺りを見回して、必死に姿を捜したけど、すーちゃんはどこにもいない。もしかしたら、来年もまた来れば会えるかも知れない……そんな考えも心の片隅にはあったけど、理解していた。もう会えないと。
――――ちゃんと、見つけてね。
その言葉の意味が理解出来なくて、私はその場でわんわん泣いた。ただただ泣いて、泣き腫らして、私はトボトボと家に帰った。
きっと会える。
そう信じて、私は次の年も四月十七日に森の中へ向かった。だけど、いくら待ってもすーちゃんは姿を現さなかった。
気が付けば、去年すーちゃんと別れた場所。
そこは去年と変わらず綺麗で、またしても私は見とれてしまった。
――――ちゃんと、見つけてね。
ふと、すーちゃんの言葉を思い出す。
何か、見つけてほしいものでもあったのだろうか。そう考えて、私はここで何かを探してみることにした。何を探せば良いのかわからないけど、何か見つかるかも知れない。
そうして探すこと数分。私は大きな木の後ろ側で、言葉を失った。
骨、だった。
学校で見かけた骨格標本のような……人間の骨。でも学校で見かける骨格標本とは違って、その骨は小さかった。
まるで、小さな女の子みたいに。
自然と、涙がこぼれた。
その骨は、すーちゃんみたいな体格で、すーちゃんみたいな服を着ていて、すーちゃんみたいな……
「すー……ちゃん……っ」
傍に、スミレが一厘咲いていた。
神崎純玲。
私がすーちゃんに出会う二年前から行方不明になっていた女の子。それがすーちゃんだった。
彼女が私を毎年森の中へ連れて行っていたのは多分、私にあの骨を……見つけてほしかったからだったんだと思う。年に一度、少しずつだけ案内して、私に見つけ出してほしかったんだと思う。
すぐに見つけてあげられなくて、ごめんね。
あれからもう何年も経って、私は大人になったけど、すーちゃんのことは片時も忘れていない。彼女の、今にも泣き出してしまいそうな笑顔が、忘れられない。
四月十七日。
この日がくると、決まって私はここに訪れる。
すーちゃんに、会いに。
「ありがとう、すーちゃん」
木漏れ日に照らされながら、私はそっと、囁くようにしてそう言った。
今もあの場所に、スミレは咲いている。