第十六話
「おかえりなさいませ」
そう言って出迎えてくれたのは、見覚えのある暖かい顔だった。
「いらっしゃいませ、じゃなくて?」
僕が皮肉ってそう返すと、辛そうに彼女は笑った。
「坊ちゃまは旦那様のお子様ですから、この家の方ですよ。」
「そう…。あの人の息子だったね、僕は…。」
未だ断ち切れない繋がりを僕はこれから先も感じながら生きてゆくのだろう。
親子である以前に、僕はあの男の血を受け継ぐモノなのだから。
「あの人はいるね。」
「はい、坊ちゃまのいらっしゃるのを楽しみにされております。」
「…菱木さんも元気そうでよかった。」
ぼそりと零した僕の言葉は彼女に伝わったか分からなかったけれど、何年も会っていなかった優しい彼女の元気な姿にじっとりとした緊張が和らいだのは事実だった。
相変わらずの人の生気を感じさせない邸宅。
寂しくも侘しくもある孤独な空間。
こんなところで暮らしていては真面でいられるべくもないだろう。
だからといって、あの人を理解しようとは思わないが。
慣れた足取りで彼の人の部屋へと向かう。
今にも帰ってしまいたい衝動に駆られるが、それを僕の良心が許さない。
何も持たない僕にできることなど数えるくらいしかないのだから。
せめて俺の不始末は僕がつけなければ。
ノックの向こうから返るはずの返事を待たずにドアを開ける。
許可を待たなかったのは僕の微力な抵抗だと思って欲しい。
ここまで来ておいて愚かにも僕は怖くてたまらないのだ。
この、僕の父親という生き物が。
「ノックというのは、相手の返答を待ってからこそ価値があるのだよ。」
昼過ぎだというのに薄暗い部屋の奥から、さして驚いた風もなくゆったりと言葉を紡ぐその姿は、僕の最後の記憶よりも年老いていた。
「お久しぶりです。お元気そうでなにより。」
お小言は無視して造りこんだ笑顔で社交辞令を述べる。
部屋にジリジリと漂う気配はあの人から放たれているものだろう。歳を重ねても、まだ健在ということか…。
「社交辞令を言いに来たのではないだろう。」
ちらりとも僕をみることなくチクリと言い放つ。
どうせ見えているのだろう。
「ええ。では、僕の言いたいことはご存知ですよね。」
全てを真に受けていたのでは僕が持たない。
相手にするには分が悪すぎるのだ。
「さてな。お前がどこまで掴んでいるのか知らんが、協力してやらんこともない。」
「だが…。でしょう?その続きくらい読めますよ。」
馬鹿にするなと言わんばかりとため息交じりに言った言葉は僕の虚栄に過ぎない。
こうでもしないと僕はその場に崩れてしまいそうで、今こうして立っているのが不思議でならない。
「さんざん馬鹿をやってきたらしいが、頭はまだマシだったようだな。」
どこまで知っているのか、この男は。
父親といえども何年も離れていた身で、別れた息子の近況に詳しいなんて…。
どれだけの部下が投入されたのだか。
彼らも命令といえども私的な仕事には辟易しているに違いない。
「お前が言う前に私から言っておこう。どこまで私の手が入っているかなどは聞かんほうがお前のためだ。」
下卑た笑いを連想させるその科白に嫌気がさす。
「貴方に逆らう気など、疾うの昔に捨てましたよ。それより、榊の御嬢さんは処理してくれるんでしょうね。」
彼女に感づかれる前に早く消してしまいたい。
「お前の不始末が招いた結果だ。それなりの代償がなけりゃできんな。」
やはり親子といえども、この男には関係ないのだ。
僕を監視しておきながら、僕の人生を自分の駒として使う。
そして扱いやすいように捻じ曲げる。
「僕が借りを作る必要はないのでは?」
「お前次第だな。そんなものなくともと思わせる何かを持っているのか。」
痛いところを突いてくる。
この男の思い通りに動きたくはないと思いながらも、敷かれたレールに乗っているのが感じられる。
多分、気のせいではないだろう。
一体、なにが望みなのか…。
「ありませんね。貴方の望みは?」
僕に差し出せるのは、僕自身しかない。
「人に使われるよりは使う側にいたいと思うだろう?」
それがさも当たり前であるかのように言うこの男に嫌気がさす。
「なにを仰りたいのか。」
先は読めるが、あえて言ってもらおう。
「は。態とらしいな。…残念ながらお前の弟は使い物にならんのでな、お前に順番が回っただけの事。」
さも面白そうに言う姿は、現実でも自分の父親とは思いたくなかった。
「補欠に本番ですか。今更…。」
空笑が出るのを堪える。
「出番を与えてやっているんだ。感謝することだな。」
いくら僕が嫌と言ったところで、偉そうなこの男の言うことを聞かなければ今回の処理はできない。
結局、踊らされるのか…。
「僕は別に後釜なんて望んでいないんですけどね。彼については長い目で見てやったらどうですか?」
だが、素直に聞くほど僕は従順じゃない。
「お前に指図されるとはな。言うようになったものだ。」
「…どうも。」
「まあ、いいだろう。今回は手を貸してやる。あいつの成長よりお前のほうが面白そうだ。」
どうにか興味を引けたようで、これで借りはなしだろう。
「ところで、神原さんとはどういった関係なんですか。」
知らないと言って欲しいと願いながらも、どこかで手薬煉を引いている黒幕から真実を伝えて欲しいと思う自分が堪えきれずに口を開くのを僕は止めることができなかった。
久々の更新。
やっと展開…かな。