第十一話
「すみません、こちらに印鑑かサインをお願いします。」
そう言って僕は少女に受領書を差し出した。
だが僕の声が聞こえていなかったのだろうか、少女はただ黙ってそこに立っていた。
「…すみません?」
訝しみながらも僕が再度声をかけると、何かに気を取られていたかのように少女は固まった体を震わせた。
「あ。印鑑…。ちょっと待ってください。」
慌てたようにやっとそれだけの単語を答えた少女を僕は見送った。まるで小動物を観察している気分で、パタパタという少女の足音さえそれらしい。
そして少女は暫く戻る気配がなく、いい加減立ち尽くしているのも疲れてきた僕は玄関の上り口に腰を下ろしていた。
しかし豪華な家である。
どこにもお金持ちという人種は存在するもんなんだと変に納得し、”資本主義日本”だなんて事を考えていると漸く少女が戻ってきたが、どうやら探し物は見つからなかったようで、華奢な白い手にはペンを持っていた。
「ごめんなさい、お待たせして。あの、サインでも?」
美人は何をしても様になるもので、申し訳なさそうな顔をした少女に僕は暫し見惚れた。
「…ん、大丈夫です。では、ここにお願いします。」
やっとこれで帰れるな。
「ありがとうございました。失礼し…」
「あの、戸塚さんですよね。」
僕はこの少女にいつ名乗っただろうか?
いや、確実に名前なんて言っていない。では、どうして…?
そして少女は何を思っているのか、疑問符を最大限に浮かべているであろう僕の顔を見ても些かも気にすることなく話を続けた。
「覚えてませんか?…あれから少したってしまったけど、私、まだ、あの時と気持ちは変わってませんから。」
「…あの時って…。」
知らない美少女からの唐突な話に付いていけない。
どうなってるんだ?
僕は神原さんに頼まれてオルゴールを届けて…。
頭が痛い。
取り敢えず、帰りたい。
「すみません、人違いかと思います。失礼します。」
”帰りたい”もうその時の僕には、その気持ちしか感じることができなかった。
だから呼び止める少女の声が耳に入ることもなく、姿を振り返ることもしなかった。