桜がなければ、春はもっと穏やかだったのに
今宵は月夜が美しく、満開の桜は月光浴を楽しむかのように、ひらりひらりと舞い踊った。
私たちはただひたすら川の上流をめがけて歩いていた、長い黒髪、白い肌、穏やかな目、そんな彼女を時々盗み見ては、悟られぬように上流の果てにある、黒く畏怖を感じさせる大きな山に視線を移す。
口の中が乾く、胸の鼓動が跳ね上がり、普段とは違う何かが血液をめぐっているのが分かる。
恋をしてしまったのだろうか。
私たちは何一つしゃべらず、歩幅を合わせて、また合わせて、いつしか一歩一歩の歩みは花びらが落ちる速さと変わらないほどだった。
風はなかった、そのせいなのか桜のにおいが川とともに流れず、私たちを包むように纏わりついた。
そんな甘美な妄想を知ってか知らずか、彼女は立ち止まり、私の服の袖をつまんで引き留めた。
童のような幼い顔つきで、母親のような優しい表情で彼女はベンチを指さした。
「少し座ってもよろしいですか、桜を少し眺めたくて」
「あぁ、そうだった、桜を見に行こうと言ったのは私だったのに、すまないね」
気恥ずかしさを隠すようにぎこちない笑顔を浮かべて腰を下ろした、月明かりは私の引き攣る口元を露わにしたのだろうか。
彼女はただ顔を挙げて、桜と月を見上げていた、きっと私の小さな醜態など知りもしないのだろう。
幾ばくかの沈黙は、軽やかで滔々と絶え間なく聞こえてくる水音を一層際立たせた。
彼女とはよくこうして時を過ごした、最初は何の気なしに、ただただ私も彼女も空を見上げていたのを覚えている、そしていつしかどちらかが会う口実を見つけてはどんなところでも歩いて、渡り鳥が木の枝で休むかの如く腰を下ろした。
雨の東屋、大木の木の根、噴水の縁、そうして過ごすうち、言葉もほとんど交わさないというのに、私は彼女の隣に居ることを願うようになった。
「目を奪われてしまいますね」
彼女は目を細めて、慈しみ深き視線で舞い落ちる桜の花びらに手を伸ばした。
そうして私も顔をあげる。
「桜がなければ、春はもっと穏やかだったのに」
彼女は不思議そうな顔でこちらを見た、予想外の私の言葉に少し驚いたのだろう。
私も少し動揺していた、まさか私の嫉妬心が思いもよらない事を吐き出させた、いや、心の奥底では思っていたことなのかもしれない。
そして言い訳じみた言葉を続けた。
「『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』、伊勢物語の在原業平が詠んだ句だそうです、人は桜の花が咲くのを心待ちにし、咲いたと思えば、花が散るのが気になり落ち着きがなくなる、人の目が、心が、桜に奪われ乱される、そんな桜の魅力を称えた歌だと」
彼女は少し笑って、あなたらしいですね、そう言ってまた顔を挙げた。
「桜がなければ春は味気ないものになるかもしれませんね」
彼女はそう呟いた、ただ揺れ落ちた儚き花々をただ見つめて。
それが私はたまらなく嫌だった、気がつけば私は彼女の手に自らの手を重ねていた。
再び私と彼女の視線が交錯する、その時、たくさんの景色を思い浮かべて、そこで出てこなかった言葉が、喉に引っかかった気持ちが、羞恥心が追いつく前に自然と宙にに溶け込んでいった。
「私にとってあなたこともそう思っています」
彼女も私も笑った、照れくさそうに頬を桜色に染めて。




