第5話(2)
深夜2時。
帝国の宮殿に降り注ぐ雨音が、心地よいBGMとなって私を夢の中へと誘っていた。
ふかふかの羽毛布団に包まりながら、私はふと、かつての故郷のことを考えていた。
(……今日の雨は強いわね。きっと、あっち(王国)はもっと酷いことになっているでしょうけど)
王国の人間は勘違いしている。
あの国が晴れていたのは「神の祝福」でも何でもない。
単に、歴代の聖女が死に物狂いで結界を張っていたからだ。
そもそも、王国の国土は『嘆きの湿原』と呼ばれる、大陸で最も気流がぶつかる「豪雨地帯」にある。
放っておけば、年間200日は雨が降り、地面は沼のように沈む。
人間が住むには適さない土地なのだ。
それを私が、上空の気圧配置を計算し、風の通り道を作る『広域天候制御プログラム』を常時稼働させることで、無理やり「晴れ」を作っていたに過ぎない。
(屋根のない家に住んでおいて、「雨が降らないのは当然」だと思い込んでいたんだもの。……屋根(私)がなくなれば、どうなるかくらい想像できそうなものだけど)
ま、もう私には関係ない。
今の私の仕事は、帝国の魔導炉を安定させ、あとは心ゆくまで眠ることだ。
「……ふぁ。おやすみなさい」
私は枕に顔を埋め、意識を手放した。
私の寝室には、クロードが設置してくれた『完全遮音結界』と『室温調整結界』がある。
どんな嵐が来ようとも、私の安眠は約束されている――はずだった。
同時刻。
ソフィアの寝室がある塔の外壁を、音もなく登る黒い影があった。
王国最強の暗殺集団『影狼』。
隊長のザイードは、雨に濡れたバルコニーに張り付き、ニヤリと笑った。
(チョロいもんだ。帝国の警備などザルだな)
彼らは「魔力遮断のマント」を羽織っている。
これにより、魔導感知システムに引っかかることなく、城内への侵入に成功していた。
(ターゲットは、この窓の向こうで寝ている。……哀れな聖女様だ。温かいベッドから、泥まみれの王国へ逆戻りとはな)
ザイードは部下にハンドサインを送る。
作戦はシンプルだ。
窓の鍵を解錠し、侵入。
スリーピング・ガスを撒いてソフィアを無力化し、袋詰めにして連れ去る。
抵抗するなら、手足の骨を折っても構わないと宰相からは言われている。
カチリ。
特殊な工具で、窓の鍵が開く。
ザイードは音もなく窓を開け、寝室へと足を踏み入れた。
広い部屋だ。
天蓋付きの豪奢なベッドで、ターゲットのソフィアが規則正しい寝息を立てているのが見える。
(無防備なもんだ。護衛の一人もつけないとは)
ザイードは腰の短剣に手をかけ、ベッドへと近づく。
あと5歩。あと3歩。
勝利を確信した、その瞬間だった。
「――土足厳禁だぞ、ドブネズミ」
ゾワリ。
ザイードの全身の毛が逆立った。
殺気ではない。
もっと根源的な、生物としての「死の予感」が、脳髄を貫いたのだ。
「な……ッ!?」
振り返ろうとしたが、体が動かない。
いや、足の感覚がない。
見下ろすと、自分の足が床から「凍りついて」いた。
「バカな……! 俺たちは魔力遮断のマントを……!」
「ああ、その安っぽい布切れか? 雨よけ程度にはなるんじゃないか」
部屋の隅。
闇に溶け込むように置かれたソファに、その男は座っていた。
片手にはワイングラス。
優雅に足を組み、まるで舞台劇でも鑑賞するかのように、侵入者たちを見下ろしている。
黒髪に、鮮血の瞳。
帝国の支配者、クロード・フォン・ヴァイムルだ。
「き、貴様……いつからそこに……!」
「最初からだ。私の『妻(予定)』が寝ているのだぞ? 悪い虫がつかないよう、見守るのが夫の務めだろう」
クロードはゆっくりと立ち上がった。
その動作に合わせて、部屋の空気が絶対零度へと急降下する。
「ぐ、がぁ……ッ!」
部下たちが悲鳴を上げようとするが、声が出ない。
口元まで氷に覆われ、呼吸すら許されない。
ザイードたち『影狼』は、王国最強の精鋭だったはずだ。
だが、この男の前では、赤子同然の手も足も出ない。
格が、違いすぎた。
「……静かにしろ。ソフィアが起きるだろう」
クロードが唇に人差し指を当てる。
その声は優しいが、目は笑っていない。
瞳の奥にあるのは、底なしの殺意と、獲物を甚振る愉悦だけだ。
「わざわざ雨の中、ご苦労だったな。……ああ、もしかして、彼女を連れ戻しに来たのか?」
「う、うぅ……!」
「残念だが、私の大切な『妻(予定)』を渡すつもりはない。それに、彼女自身も帰りたがらないだろう」
クロードは凍りついたザイードの目の前まで歩み寄り、耳元で囁いた。
「なぜなら、あそこは『雨漏りのする欠陥住宅』だからな。……屋根を捨てた時点で、貴様らは泥に沈む運命だったのだ」
クロードの指先が、ザイードの額に触れる。
「さて、どう処理してやろうか。……ソフィアは優しいから、死体を見せると嫌がるかもしれん」
ザイードの視界が白く染まっていく。
意識が凍結する直前、彼が見たのは、悪魔のように美しく微笑む皇帝の顔と、その後ろで「むにゃ……残業代……」と幸せそうに寝返りを打つ、最強の聖女の姿だった。
「ゴミはゴミ箱へ。……いや、氷像にして王子の元へ送り返してやるのが、一番の『返信』になるか」
パキィィィィン……ッ!
その夜。
帝国の宮殿から、悲鳴一つ上げることなく、王国最強の部隊が消滅した。
翌朝、ソフィアが目覚めた時、部屋には塵一つ落ちておらず、窓辺には美しい氷の華が一輪、飾られているだけだった。




