5.宰相、倒れる
この国では何かが大きく動くとき『女神のお導き』と言うことがある。十一年前も『女神のお導き』だなどと言った禿げ狸がいたが、ヴァージルは怒りのあまり「黙れ老害」とばっさり切り捨てた。ヴァージルもまだ青かったのだ、今よりは。
ヴァージルは十一年前のあれに対しては女神の導きだとは絶対に思いたくない。もしもあれが導きならば、ヴァージルの女神に対する信仰心が揺らぐ。思い切り。
「そうだねぇ…僕らは歴史にどう書かれちゃうんだろうねぇ。イングラムの御大に年代物のワインでも送ろうかなぁ…」
「後世でどう書かれるとしても今はただ為すべきを為すだけでございます。イングラム先生は賄賂は受け取った上で要求は飲まないたちでございますよ。渡し損です」
「グレアムは最近丸くなったなぁと思ってたけどやっぱり真面目は真面目だよねぇ…。ワインは止めとこう」
「左様でございますか?わたくし自身としては随分と融通の利く人間になったと思っておりましたが…。歴史の裏話と交換でしたら融通が利くかと存じますよ。イングラム先生が知らない裏話に限りますが」
「まぁグレアムは昔が凄かったからね、真面目というかがちがちに固くて。御大が知らない歴史の裏とかあるの?」
「そんなに凄かったでしょうか?あまり自覚は無いのですが…。誰も知らない閣下の黒歴史などいかがでしょう?喜ばれるかと」
「うん、良いんだよそれで。良く育ってくれたなーって、おじさんたちは嬉しいやら悲しいやらなだけだから。黒歴史なんて歴史書に残されたら死んでも死にきれないでしょ、本末転倒だよ」
真面目な話と不真面目な話を織り交ぜながら茶をすする。
今日のヴァージルは朝からどうにも胃の調子がいつにも増してよろしくないため胃に良いと評判の薬草茶を飲んでいるのだが、苦いだけでどうも効く気がしない。
グレアムにも同じものを飲ませているのだが嫌な顔ひとつせずに一緒に飲んでくれている。これがライオネルだと「苦いぞ宰相」とでも言って顔をしかめながらも結局は一緒に飲んでくれる。ダレルやベンジャミンなら「今度、胃に良くて美味しいお茶をご用意しますね」と微笑みながら一緒に飲んでくれるだろう。陛下は…下手をすれば薬草茶であることに気づきすらしない。
「悲しいですか?」
「うん、おじさんたち、足引っ張っただけだからね」
伏し目がちに微笑みながら茶を飲んでいたグレアムが不思議そうに目を瞬かせて顔を上げた。
あの頃のヴァージルは中央からできる限り距離を置こうと逃げていた。当時の宰相からは後を継げとせっつかれていたが嫌で嫌で逃げ回っていた。結果として全てが後手に回ってしまった。悔やんでも悔やみきれない…それこそ黒歴史だ。
茶の苦さより更に苦いものが胸をよぎる。「苦いよね、このお茶」と誤魔化し笑いをしたヴァージルに、グレアムが微笑んだままゆっくりと首を横に振った。
「閣下や皆様がいたからこそ、わたくしたちは今、こうして生きております」
更に苦いものがこみ上げる。冗談にならないからこそヴァージルは笑えないが笑うしかない。
「あっははー、うん……あー…うん、ライオネル殿下の縁談は僕の方で止めとくからよろしくね」
「お気遣い痛み入ります」
ライオネルに結婚を強いないのも、その側近や近しい者たちにある程度の自由を保障しているのもある種の償いだ。ヴァージルの目に光があるうちは決してくつがえさせるつもりは無い。
「君への縁談も止めとくからね」
柔らかく微笑んでいたグレアムの笑顔がぴしりと固まった。
「……まだ来るのですか?あれだけ拒絶したのに?わたくし、フレデリック様の立太子と共にいただく爵位は養子を取って継がせると公言しているはずなのですが…」
「そりゃー来るでしょう。君、ライオネル殿下と並んで競争率高いんだよ?」
「お若いお嬢さんをわたくしのような十以上も年上の男に嫁がせようとする方たちなどたかが知れておりますよ」
「残念、ほぼ御令嬢方の希望」
固まっていたグレアムの笑顔が引きつった。御令嬢方の親がごり押して来るならそれを理由に容赦なく突っぱねるが、本人の希望となれば邪険にはしないのもまたグレアムの良いところであり真面目で気の毒なところだ。
ひとりひとり丁寧に直筆の手紙を書き、それでも引かなければ一度お会いして丁重にお断りするという徹底ぶり。そういうところが真面目で固いのだ。
ライオネルやベンジャミンのようにこう、うまくあしらえるともっと楽に生きられそうだが…そこがグレアムの愛すべきところだから仕方が無い。仕方が無いのでヴァージルが止めている。
「……………レオ次第ですね」
「はい、ふりだしー」
結局はそうなるのだ。ライオネルが進退を決めたら周りの独身組も一気に動くだろう。遠くないとはいえ近くもないだろうことが予測できてヴァージルの胃が痛い。主に御令嬢やその家族からの突き上げで。
「ところで閣下」
「うん、何かなー?」
何とも言えない顔で薬草茶を飲み干したグレアムがじっとヴァージルを見ると困ったように眉を下げた。
「大変、お顔の色が悪い様にお見受けするのですが……」
首を傾げたグレアムにヴァージルはへらりと笑った。たぶん、笑えていると思うのだが定かではない。
「あー、ほら、僕、胃が悪いじゃない?」
「はい、存じておりますよ。心も体も休まる時が無く胃も改善しないと…」
「うん、そうなんだけどね」
「はい」
「どうしよう、すっごく痛い……」
「は!?」
ヴァージルも朝からかなりおかしいとは思っていたのだ。こうしてグレアムと話すのが好きなので痛いながらもへらへら笑って話をしていたのだが……痛い。どころの話では無くなってきた。額に脂汗を感じなくもない。
「あー……ごめん、ちょっと座ってられない……」
「え、あの、閣下!!とりあえず横になられてください!!医者をお呼びいたしますから!」
「うん、ほんとごめんねー」
引き絞られるような痛みというのだろうか。じんわりと汗が滲み背中が寒い。顔から血の気が引いていく感覚と共に吐き気がこみあげる。胃を押さえてソファにそのまま横になるが気持ちが悪くてソファの柔らかさですら嫌だ。
「謝るところではございません、閣下!!お気を確かに!!閣下!!!」
がたり、とグレアムが立ち上がる音がした。目を開けていられないので状況は分からないががたばたと音がするのでグレアムが何かをしているのだろう。
やはりソファの上だと落ち着かなくてヴァージルはずるりとソファから滑り降りてそのまま床に転がった。じゅうたんは気持ち悪いがソファよりはましだ。
胃を押さえ、体の左側を下にして横になり背を丸める。吐いてしまいそうな下してしまいそうな…そんな吐き気と腹痛に意識が飛びそうになる。
「あー、だめ、ねる、ごめん」
「閣下!?い…医者!!!!」
いつも穏やかに微笑んで鉄壁の如く崩れないグレアムがあまりの慌てぶりに扉を開けようとしてそのまま扉にぶつかったらしい。
ばごん!と鳴ったかなり大きな音と「痛い!じゃなくて閣下が!!」というグレアムの声に、良い音したなぁ、大丈夫かなぁ…と思ったのを最後にヴァージルの意識がぷつりと途切れた。




