1.陛下の脱走
『王子殿下の冒険と王家男子の事情について』の半ばあたり、フレデリックが二度目の離宮に行った日からです。
宰相ヴァージル・ドラモンドの執務室に国王ウィルフレッド脱走の報が届いたのは第一王女クリスティーナの七歳の誕生日の九日前、国王誕生祝賀式典と夜会の十八日前。来月には国王主催剣術大会を控え、それが終われば官吏登用試験と従騎士選抜試験。約二ヶ月半後には建国記念祝賀期間が始まり、そして約四ヶ月には第一王子フレデリックの十歳の誕生日と立太子の儀…という猫の手でも熊の掌でも蛇の尻尾でも何でも良いから借りてきたいほどに忙しく睡眠時間と精神をすり減らし、心も体もギリギリで駆けずり回っている、そんな時だった。
「今、何て言いました?」
「陛下が出奔されました」
「どこに?」
「えーっと………」
「あー、良いです良いです。そのうちダレルが報告くれるんで」
目を泳がせた第一騎士団の騎士にちらりとだけ視線をやるとヴァージルは手元の書類に目を戻した。
十八日後に開催される国王誕生記念夜会の招待客リストの最終確認だ。いつもなら部下に任せてしまうような仕事だが、今回はそういうわけにもいかない。
今年は夏に三年に一度の国王主催剣術大会と秋に立太子の儀があるため春の社交最盛期を過ぎても領地に戻らず王都で過ごす貴族が多い。そのため、招待状を出しても通常なら三分の二は代理が来るのだが今年は当主や次期当主の多くが出席する。当然、付随して夫人や令嬢令息も王都に残るため夜会や茶会が催されると参加者が倍とは言わないがどれもかなり増えるのだ。
国王誕生記念夜会はまだ良い。そもそも伯爵家以上の当主か当主代理とそのパートナーのみの招待なのでそれほどおかしなことは起きない。このリスト確認は念のためだ。
問題は約二ヶ月半後に催される建国記念の夜会だ。騎士爵や準男爵も含め貴族籍を持つ家の者であれば誰でも参加ができる。ただでさえ無法地帯になりやすいというのに今年は居残る貴族が多い。つまり参加者が爆発的に増える。
昨年の社交シーズン最初の夜会でアンソニー・オブライアンが襲われた件のような事件がまるでそれこそ虫が湧くようにいたるところから湧いて出るのだ。
今年は例年とは違い、社交シーズン最初の夜会でも使った別棟の大ホールではなく正宮の正面玄関を入り玄関ホールを抜けて目の前にある大扉や謁見の間、大小の部屋の扉も全て開け放ち、正宮の一階全てを会場にして夜会が行われる予定となっている。
結果として別棟をひとつ丸ごと控室として使うことになるのだが今年はあんな失態を犯すわけにはいかない。あの事件も胃が痛かったがその後に続く第二騎士団ポーリーン・ファーバーとアンソニー・オブライアンの王命結婚騒動は更に胃が痛かった。結局王弟ライオネルがいつも通り被ってくれたがそれだって本来であればヴァージルの望むところではない。
「まだ何か?」
招待状への返事リストと招待客リストを見比べつつ突っ立ったままの騎士にヴァージルが視線もやらずに問うと、騎士は「あ、いえ、その」と実に歯切れの悪い返事をする。何もないなら邪魔だから出て行けと口を開こうとしたところでこんこんこん、と宰相室の扉がゆったりと叩かれた。
「はい、どちら様」
「ダレル・ストークスでございます」
「あー、ダレル!入って下さい!!」
待ち人来る。目の前の顔だけ良い歯切れの悪い騎士が来たのが五分前。今回もダレルの仕事はかなり早い。
「失礼いたします」
「待っていましたよダレル」
入って来た地味な色彩の男にヴァージルがひらひらと手を振ると国王の侍従ダレル・ストークスは「お待たせいたしました」と穏やかに微笑んだ。
「君、もう戻って良いよ。あとはダレルに聞くから」
「はっ、失礼いたします!」
「君たちも、二時間くらい休憩しておいで」
ダレルと入れ替えに頼りにならない騎士を追い出し、休憩の二文字に狂喜する部下たちを苦笑いで見送る。扉が閉まるとヴァージルはべちゃりと執務机に突っ伏した。
「ダレルー、今度は何かな~?」
気心の知れた国王の侍従ひとりを前にしてヴァージルの気力がぶちりと切れた。皆の前ではぎりぎり保っていたが、ただでさえ執務だけでいっぱいいっぱいなのにもう国王のお守なぞやっていられない。
「お疲れのご様子ですね、閣下。お茶をお淹れしますか?」
「お願いー。茶器と茶葉はいつも通り適当で」
「承知いたしました。厨房で明日の茶会用の焼き菓子を焼いておりましたので少し分けていただいてまいりました」
「あー、食べるー」
国王が脱走なぞ本来であれば異常事態であり悠長に茶を飲んでいる場合では無いはずだが、ダレルが茶の用意をすると言うのなら問題なく事が運ぶということだ。
であるならば、茶とお菓子を堪能してから話を聞いても罰は当たるまい。今も昔も許されるぐらいヴァージルは頑張っているはずだ。
手慣れた様子で宰相室の茶器を用意し茶葉を選んでいるダレルを眺めつつ、ヴァージルは周りに積まれた書類を倒さぬよう気をつけながら伸びをして立ち上がり、応接セットへと移った。
「どんな感じ?」
「王子殿下の件はすでにお聞き及びに?」
「ライオネル殿下が来たよ」
「ああ、ではその件です」
温めたポットに茶葉を掬い入れながらダレルが眉を下げ微笑んだ。
王弟ライオネルからは第一王子フレデリックが東の離宮とその森に興味を示していること。恐らく王家の谷へ向かうこと。いったん様子を見て何かあれば手を出すことと銀大蛇の繁殖期にも当たるため騎士団を動かすことの事前報告をすでに受けている。
本来であれば王子を止めるべきなのだが、この国の王族は止めたところで余計酷いことになるだけなので手札が見えているのならそのまま見守るのが一番安全なのだ。
「あれって陛下と妃殿下には厳重に内緒だったよね?」
「陛下ですから。隠したところでどこからともなく…ですよ」
「あー、じゃ、行き先は東の離宮か」
「そうでございましょうね。離宮にはすでに朝の時点でライオネル殿下が入られています」
「んじゃ良いや、酷いことにはならないね」
「そうは思いますが一応、経緯のご説明を差し上げても?」
ふたり分の茶と焼き菓子の乗った皿を用意したダレルがヴァージルの前にひとつずつ置き、反対側にも置いて自分もソファに座った。
「よろしく。ちゃんと聞くよ」
目頭を指で揉みつつ頷いたヴァージルに、ダレルは「いつもすいません」と困ったように微笑んだ。
エピソードタイトル修正します。




