彼女の約束
残暑を感じる9月に『菊花の契り』に思いを。
チリン…リン…リリ…リ…
仕舞い忘れた風鈴が虫の音を含んだ風に揺れた。
年をとったせいか気を抜くといつの間にか眠ってしまう。
さて、何を何処まで何をしていたっけ?
深呼吸して窓から見た月は何時もより大きく見える。
壁の暦に付けた印で自分の誕生日を思い出した。
『約束の日』だ、彼女が来るはず…。
いや…もう来ないのか。
日が落ちているので来るならばそろそろだろう。
皺が増えた手で彼女が好きだった切子の盃に酒を入れた。
チリン…
花柄の風鈴が揺れる。
この風鈴も彼女から誕生日に貰った物。
私にとって彼女は変わらない日常に変化をくれた風鈴を揺らす風のような存在だった。
彼女との出会いは数十年遡る。
2つ下の弟と家業の馬の育成にかかり切りて家族とは上手くいっていなかった私が逃げるように全寮制の女学校に入学した際、同室になったのが彼女だ。
初見で『コイツと仲良くなる事はないな。』と互いに思っていたようだが結局卒業しても連絡先を交わしていたのは彼女だけだった。
生真面目で勉強だけが取柄で要領の悪い私と
奇抜で勉強が苦手で要領の良い彼女。
トラブルに私が巻き込まれると彼女が助けに来てくれるし単位を落としそうと相談されると私が勉強に付き合うという気づけば互いの足りない所を補う関係を作っていた。
入寮翌年の私の誕生日に家族から『馬の出産を控えているから今年は帰ってこなくても良い。』と連絡がきた時も『実の娘より馬が大事とかあり得ない。』と当事者の私が引くくらい泣いて怒ってくれた。
『たとえ死んでも私がアンタの誕生日を祝う!』
死んだら祝えないわよと笑い飛ばしたが翌年から夫・子供が忘れることもあった誕生日を唯一忘れず祝ってくれたのは彼女だけだった。
全寮制の女学校も両親ではなく唯一大事にしてくれた祖母が入学する際に全額手配してくれていたが卒業を控えた冬に帰らぬ人になった。
卒業後、実家に一度戻ったが自分の部屋だった場所が物置きとして使われていたため両親に別れの挨拶をしてその足で家を出た。
卒業時に祖母が私宛に遺したお金で港町にでて住み込みで働ける場所を探した。
居住場所が決まって彼女にはすぐに連絡したが家族だった人達がどうなったかすら分からない。
風の噂で実家のあった場所が更地になり売りに出されている事を知った程度だ。
港町では通訳・翻訳を行いながら商家で物流管理の手伝いを行い最終的に夫となる人と出会うことになった。
結婚の知らせを彼女にしたら娘を嫁に出す母のように泣いて喜んでくれた。
『バージンロードの付き添いは私に任せろ!』
鼻の穴を広げて得意そうなあの時の彼女の顔は今でも思い出せる。
大抵の事はいい加減に済ませる大雑把な彼女だった。
聖夜や新年の挨拶はカードで済ませる癖に誕生日だけはどんなに遠くにいても祝いに来てくれた。
一方でいつ何処にいるか分からない彼女の誕生日を祝うのは難しく何処にいるか分かるようにして欲しいと頬を何度膨らませたかわからない。
手紙も返事を書いたら宛先不明で戻ってくることも度々あった。
金遣いの荒い彼女の母親から逃げているようで卒業から失踪するまで彼女が定住した場所はない。
野の花や綺麗な鳥の羽根…彼女の目に映る綺麗な拾い物ではあったがプレゼントの内容より会いに来てくれることが嬉しかった。
彼女との関係は私が結婚した後も続き、夫も最初は面食らっていたが一般的にはガラクタに分類されてしまいそうな彼女の宝物を受け入れるような大らかな人だった。
子供達も先触れなく現れる彼女を『びっくりおばちゃん』と呼び懐いて居たが成人して家を出て新年を迎える頃に顔を出す程度になった。
子育てを終えてゆっくりした時間を楽しもうと話していた夫も数年前に帰らぬ人になった。
そして昨年彼女が乗っていた船が事故に遭い行方不明になったと連絡が来た。
私の誕生日は今年から彼女が居ないものになるのは理解している。
それでも消息を絶った彼女に盃だけは用意したかった。
チリン…。
残暑の熱を感じる風に風鈴が揺れる。
窓辺に置いた切子硝子の盃は上から覗き込むと菊の花が咲いている様に見える。
昔から彼女はこの盃が好きだった。
先程、注いだ酒は触れていないのに半分ほど減っている。
私は眉間に力が入るのを感じながら盃の縁を指で撫でた。
先程まで聞こえていた虫の音や風鈴は突然痛いほどの静寂に変わった。
3階の窓から見える満月は何時もより大きい。
月下で光るように咲く白い曼珠沙華に何時もは感じない肌が泡立つ奇妙な感覚がした。
そして大きな月を背に宙に浮く懐かしいシルエット。
逆光で表情がわからない筈なのに嗤っている気がする
。
月光の光に思わず目を細めた。
そういえば彼女が消息を絶った地域では人を喰らい犠牲者の皮と記憶を使って次の獲物を探す魔物がいるという話を聞いた。
言いたい事がいっぱいあったはずが上手く言葉に出来ない。
ゴウ…と生ぬるい風が吹き抜けた。
死神は亡くなった夫ではなく彼女の顔をしているなら何となく納得できてしまう。
チリン…
風が吹いて風鈴が鳴る。
『誕生日おめでとう!
貴方に善き風が吹くよう魔除けの風鈴なんだよ。』
昔の記憶、彼女の声と遠くで風鈴の音が聞こえたのと同時に強い風が吹き壁に叩きつけられ意識が遠くなる。
遠くなる意識のなか誕生日が来るたびに彼女がくれたガラクタにしか見えない魔除けの宝物がキラキラ光って見えた。
翌朝、痛む全身にうめきながら起き上がると彼女から貰った風鈴は床に落ちて粉々に砕けていた。
窓の外を覗くと地面に狐に見える生きものが叩きつけられるように落下した形跡があった。
「一緒なら堕ちてもよかったのよ…」
分かるのは来年の誕生日には彼女がいないことだけだ。
アンハッピーバースデー。
オカシイなぁ、こんなオチにするつもりじゃなかったのに。