第17話 揚げ場への潜入――証憑を追え
王都の臨検車が村に到着。
臨検官による照合で、俺が仕込んだ欠番に“輪”がつまずき、裏帳簿の空白が露呈する。
西の小丘の揚げ場から見つかった写し板で“消された行”の影を拾い、証憑は支部へ二重封で保全。
だが市場では“印のない薬”が堂々と売られ、売り手の腕の焼き印=三重の輪が発覚。
露店の男が吐いた「第二の口」――外輪の存在。
レオンは「名前で認識される覚悟を」と告げ、臨検官は外輪の同時封に動く。
俺たちは、次の一手へ。
朝の冷気が上がり切る前、道の向こうに土埃が立った。
村の子が井戸端から指を伸ばし、「来る」と短く言う。
砂を引く音、馬鈴の間隔、車輪の軋み――王都の臨検車だ。
黒塗りの箱馬車を先頭に、平荷の台車が二、三。
先頭の御者台に座るのは灰色の制服。後ろには穂先を布で包んだ槍を立てた兵が同乗している。
箱馬車の扉が開き、書記風の男が降りた。銀の留め金で束ねた書板、蝋封の壺。
その後ろから、鞘の短い印剣を吊った細身の役人――臨検官が一歩ずつ地面を踏み確かめるように現れた。
「臨検官、到着」レオン・ド・カルトが短く告げる。
外套の裾を払って一歩進み、儀礼の角度で指先を胸に当てる。
臨検官は会釈もそこそこに周囲を観察した。
焦げた柵、煤の匂い、人々の目。
「状況把握は?」
「死者なし、柵に損害。襲撃は昨夜。護衛の少年が鎮静と防衛に寄与しました」
レオンが、こちらを示した。
臨検官の視線が、俺の顔の高さより少し上で止まる。
十歳の少年を見下ろすという動きには、わずかに戸惑いが混じっていた。
「少年?」
「護衛です」俺は胸に手を当てて応じる。「エル・アナシスタ。護衛依頼、遂行中」
臨検官は無表情のまま頷いた。「規定に則り、積荷と保管状況、流通印の照合を行う。古堂を開けよ」
村長が短くうなずき、古堂の横木が外される。
中は昨夜整えた写し場のままだ。
板の上で乾いた薄紙が重なり、赤墨の印が冷たく光っている。
欠番を仕込んだ項番列が、まるで歯車の歯のように並んでいた。
臨検官は歩幅一定で机へ近づき、蝋封を割る。
「王都流通監査印――開封。……照合を開始する」
書記が木札を読み上げる。
「量目札:干燥薬草 〇〇束、同 〇〇束、抽出油 〇樽……」
俺は目線だけでリナと合図し、村長の背後にいる三人の立会人――少年、若い男、女将の姪――を位置どりさせた。
彼らの目が、読み上げられる数字に痛みのように反応する。
知ってしまった重さは、もう元に戻らない。
「照合に不一致がある」
臨検官の声が、氷の粒のように落ちた。
「裏流通標“三重の輪”の引合と、村側の量目が一致しない箇所が複数。……一例、先月第三週、引渡量に空白」
空白。
俺は、肺の奥で小さく息を吐いた。
(引っかかった。仕込んだ欠番ラインに――向こうが勝手に踏み抜いた)
レオンがちらとこちらを見て、わずかに口角を動かす。
意図は読めない。賛意か、観測か、それとも、確認か。
臨検官は顔色を変えずに続けた。
「この空白は“抜き取り”か、帳簿上の操作か。……いずれにせよ、村の内部では説明不能だ」
村長の喉が鳴る。「わ、わしらは書けと――ただ書けと、言われた通りに……!」
「誰に?」
臨検官の視線が針のように刺さる。
村長は言葉を失った。
レオンが前に出た。
「臨検官、現場検証の優先を提案する。揚げ場――夜間の荷の出入り口の検分。輪の“口”を見れば、数字の意味が実体を持つ」
臨検官はわずかに眉を動かした。「護衛少年の提案か」
「そうです」俺は一歩出る。「西の小丘。風が裂ける帯の内側。低木が円に踏み固められている場所。――そこに揚げ場がある」
「根拠は?」
「統合視」
言い切った瞬間、周囲の空気がぴんと張った。
リナが自然に俺の横に出る。「観察と推論。昨夜の矢の角度、風の筋、足跡の深さ。どれも一致してる」
臨検官は短く頷く。「案内せよ」
◆
小丘へ向かう列は、無駄が少なく、速かった。
臨検官と書記、兵二。レオンは同行するが距離を置き、彼の兵は村側から十歩離れて並進する。
道中、誰も余計な声を出さない。
草の擦れる音と、靴底が湿地を踏む粘りだけが耳を満たした。
低木の輪が見え始めたところで、俺は手を上げて合図する。
「ここからは足並みを狭く。踏み跡を重ねると痕跡が死ぬ」
臨検官は靴先を見て、踏み幅を半分に落とした。
(動きが早い。――現場を見慣れている)
円の内側へ入る前に、糸鈴を風上と風下へ投げる。
さらり、と高音と低音が二重写しになって、風に乗った。
臨検官が横目で見る。「音響合図か」
「射線と距離感を狂わせます。――“もしも”のとき用」
わずかに顎が動いた。「理に適う」
踏み固められた円の中心に、昨夜掘り出した埋め場の跡が薄く残っていた。
俺は膝をついて土を撫で、別の凹みに指を止める。
「ここも掘る」
ナイフで切って、掌で押し、指で掬う。
布。
開く。
写し板だった。
薄い木板の上に、煤で反転させた文字が薄く残り、端に三重の輪が焼きごてで押されている。
「書き置きの反故……転写の素」
カリムが息を呑む。「紙を節約するための“下敷き”……これがあれば、抜いた行の跡が拾える」
臨検官が板を受け取り、光にかざす。
書記が、携えていた細い刷毛で灰を軽く払う。
浮かび上がったのは、消されたはずの行の影だ。
日付、量、符号。
そして、取次の通り道を示す符丁の連番。
俺が仕込んだ欠番と、輪がつけていた連番が、醜く噛み合わずに軋んだ。
「……なるほど」臨検官が呟く。
次の瞬間、風が一段強くなり、糸鈴が高く鳴いた。
(来る)
「伏せて!」
複数の矢が草むらを切り裂き、先頭の兵の槍袋を貫いた。
兵の一人が即座に盾を上げ、臨検官の前へ。
リナは二歩詰め、二つ目の矢を柄で弾く。
矢の狙いが浅い。脅し、射線の試し。
(時間稼ぎだ――証拠を持って戻られる前に、ここで足止め)
「林の縁、右三十、左二十」
《統合視》の網が、音と風を数字に変える。
俺は丸太の端を蹴って転がし、敵の足を止める障害を作る。
リナが煙幕代わりに湿土を蹴り上げ、視界を曇らせた。
臨検官は盾の影で板を懐に入れ、短い号令を落とす。
「撤収、密集型。――証憑優先」
レオンの兵が一拍遅れて外側に回り、二重の楯ができた。
(動きが整ってる。――この人間たちは、戦うことではなく、“持ち帰ること”の訓練を受けている)
矢は数合で止み、敵影は引いた。
追えば道に引き込まれる。
俺は首を振って、戻る合図を出した。
◆
村へ戻る道。
臨検官は歩きながら短く言う。
「少年、君の“統合視”とやらは、どこまで行ける」
「結果の形が見えるだけです。未来ではなく、積み重ねの向きが」
「十分だ」
はじめて、臨検官の口調に評価が混じった。
古堂に戻ると、レオンが柱から身を離した。
臨検官は写し板と量目の写しを机に並べ、蝋封の壺を開ける。
「私の権限で、ここに臨時保存印を置く」
蝋が落ち、銀の印剣が沈む。
熱が冷え、印が固まるまでの一拍、誰も息をしなかった。
「この写しは、支部まで護送する。村側から三名、同行可。異議は?」
レオンの目が細くなる。「支部で止められれば?」
「その時は――王都だ」
臨検官は静かに答え、視線だけこちらに流した。
(試されているのは、ここからだ)
◆
支度は短時間で整った。
村からは、昨夜と同じ三人の立会人が同行を希望した。
女将の姪は髪をきっちりと結び直し、少年は古堂で借りた小さな袋に写しを納める。
若い男は槍を磨き、ひとつ深呼吸して頷いた。
「俺たちの村の話を、俺たちの口で言う」
出立前、レオンが俺にだけ聞こえる声で言う。
「君は、輪の継ぎ目に楔を打つつもりだ。だが楔は、木も割る」
「割れて見えるなら、張り合わせる人間も現れる」
「甘い」
レオンは目を伏せ、すぐに上げる。
「だが、甘さが毒になる時もある」
臨検車の列は村を出た。
南へ三刻で支部のある町。その先は街道が二股に分かれ、王都へと延びている。
道の両脇の草は風に倒れ、雲は薄く伸び、日差しは白い。
《統合視》は静かだ。
(今は“見せる”時間。動くべきは、向こう)
一行が浅い谷を抜けたところで、御者台の兵が手を上げた。
「前方、検問」
街道の中央に簡易柵。
布で覆った肩を持つ男たちが三、四人。
槍を立てた兵――ではない。
靴が合っていない、姿勢が雑、しかし止め方を知っている。
「“私設”だ」リナが低く言う。
臨検官は表情を変えず、短く告げる。
「臨検通過。印を見せろ」
私設の男たちは、互いに視線を動かし、やがて一人が一歩進む。
胸元の内ポケットから金属の小片――偽印。
レオンが一拍も置かずに笑う。「粗い」
臨検官は御者へ指示。「直進。衝突は避ける。印剣の提示」
銀の印剣が御者台の前に掲げられ、蝋封の剣紋が朝日に反射した。
男たちは、視線を地面に落とし、柵を脇に寄せた。
(ここで血を流せば、“臨検の正当性”そのものが揺らぐ。――輪の外に、さらに大きな輪がある)
◆
町が見えた。
遠くに石壁、低い鐘楼、広場の屋根。
支部は市場の外れにあり、表口は狭く、裏口は広い。
(裏口が“口”。――輪の理は似る)
臨検官は表から入り、書記が先に印を提出する。
応対に出た支部役は、汗を薄く浮かべた丸い顔。
蝋封、印剣、写し板、量目の写し。
「保管庫、開封」
扉が開き、ひんやりした空気が流れる。
棚の間に、すでにいくつかの箱が並んでいた。
端に三重の輪が薄く刻まれた箱が混じっている。
(ここにも“輪”の指が入っている)
臨検官は保管棚の中央段を指定した。
「ここに置く。支部長の印と、私の臨時印で二重封。開封は二者立会のみ」
支部役は一瞬ためらい、すぐに笑顔を作る。「もちろん、もちろん」
封印が落ちた。
この瞬間、村の写しは一時的に公の箱に入った。
完全な勝利ではない。けれど、面に出した一歩だ。
俺は拳を握り、すぐ開く。
(ここから“連勝”を積む)
ところが――。
外の広場からざわめきが届いた。
子どもの泣き声、荷車の怒鳴り、馬のいななき。
支部役が肩を震わせ、目を逸らす。
臨検官は扉の前から動かず、声だけを低くした。
「何だ」
「今日の市は――印のない薬が出る日だと、噂が……」
レオンが笑う。「面白い。輪は、目の前で足を速めた」
臨検官がこちらを向く。
「少年、行けるか」
「行きます」
リナが短剣の柄に指をかけ、顎で合図する。
カリムと三人の立会人も、視線で「行く」と言った。
俺は支部の扉を振り返り、二重封の蝋を見て、深く息を吸った。
(ここは“守られている”。なら、俺たちは“攻める”)
支部の表に出ると、市場の匂いが強烈に押し寄せてきた。
干し草、香草、糞、鉄、汗。
人の波の中央、簡易台の上に“白い布包み”。
布の端から褐色の粉がこぼれ、売り手の男は声を潜める。
「王都印に回せば倍だが、今日は訳ありでな……」
「訳あり」が、露店の値を上げ、噂を肥らせる。
《統合視》の網が、市場の流れを描く。
買い手が斜めに寄り、売り手が後ろに一歩引く。
後方、路地の影で別の袋が開かれる。
交換されるのは、印のない粉。
(裏の口は“裏道に向いていない”。――人の視線の死角に向けて、正面に開く)
「リナ、台の裏」
彼女は群衆の肩を滑り、台の脚元を蹴って固定具を外した。
台がわずかに沈み、人の視線がそこで止まる。
俺はその瞬間に、売り手の手首を取って袖をめくる。
薄い焼き印――三重の輪。
売り手の目に、初めて恐怖が乗った。
「見るな!」
「見るよ。全部」
声が広がる。
「三重の輪だ!」
「裏だ!」
ざわめきは怒りに変わりかけ、臨検官の声が市場を切った。
「騒ぐな。証拠を運べ」
レオンの兵がさりげなく人垣を押し広げ、支部の扉まで一本道ができる。
俺は白布の包みの端を摘み、少量だけ木皿に取り分ける。
「全部押収しない?」リナが囁く。
「違法の見せしめは、合法の箱を太らせてから。順番を間違えると“輪”に餌をやる」
木皿に乗せた粉を支部へ運ぶ。
支部役が蒼白になりながらも扉を開け、臨検官が短く命じる。
「成分鑑定、即時。――書記、比較帳へ公開記録を作成」
公開。
この言葉を、市場の風が運んだ。
怒りの熱が一瞬さがり、期待の匂いが混じる。
(怒りに輪郭。――あの人〈レオン〉の言葉を借りれば、今は“戻し”の第一歩)
鑑定は短時間で終わった。
「混和物。賦形用の灰、増量のための乾粉。薬効は落ち、毒性は低いが無効化に近い」
ざわめきが、今度は冷たい空気を伴って広がる。
買い手の男たちが一斉に距離を取る。
売り手の目が、逃げ道を探す獣のそれに変わった。
「逃げない」と俺は静かに言う。
「逃げれば、輪は“彼は使い捨てだった”で終わらせる。名前を言え。どこから受け取り、どこに返すのか」
沈黙。
押し潰されるような沈黙。
やがて、男の肩が落ちた。
「……西の小丘の先、畑の向こうの、第二の口。夜明けに“空袋”を置き、午に“重い袋”を拾う。――俺は、そこに座ってただけだ」
第二の口。
《統合視》の網が、村の輪郭の外側にもう一つの薄い輪を描き出す。
(外輪。――押さえた“内輪”を別ルートで回すための)
臨検官がすぐさま書記に指示を飛ばす。
「第二地点、同時封の申請。支部長の同行を要請」
レオンは端で腕を組み、わずかに目を細める。
「少年」
「はい」
「これは“輪”にとって、君を名前で認識する時だ。――覚悟しろ」
喉の奥で、鐘の音が鳴った。
恐怖はある。震えもある。
でも、それ以上に、形が見えている。
やるべき順番、踏むべき石、切ってはいけない糸、切るべき糸。
俺はうなずき、群衆を振り返った。
「見ていましたか。村の代表三人も、商人も、子どもも。――この“箱”に入れた紙は、あなたたちのものです。次は第二の口を閉じ、外輪を止めます」
目と目が合う。
頷きが波のように連鎖し、誰かが短く「頼む」と言った。
頼られるという言葉は、刃にもなる。
でも、俺はそれを握ると決めてここにいる。
支部の鐘が二度鳴り、臨検の護送列が再び組み直される。
目標は、第二の口。
風が少し生ぬるくなり、雲が薄く切れた。
輪の影は濃い。
だが、光も濃くなる。
――行こう。
次回:「外輪の切断――第二の口を塞げ」
「殴らずに勝つ」ための段取りを、戦闘の熱と同じ温度で描きました。
証拠の“置き場所”を合法の箱へ移し、公開という光で“輪”の影を薄くする。
エルの《統合視》は派手ではないけれど、順番と構造を見抜く“賢者の刃”。
次回は外輪=第二の口の切断戦。政治と現場が絡み、さらに厚く、胸熱と爽快感で畳みかけます。