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水楼館

作者: あい太郎

ライン川支流のほとり、小さな村にひっそりと建つ館がある。外壁は苔に覆われ、石畳の中庭は常に湿り気を帯びていた。人々はその館を「水楼館」と呼び、近寄ろうとはしない。


ある春の午後、アダム・ドライブは一通の手紙を持って館の門をくぐった。依頼主はクラウス・エーベルライン、元外交官で現在はこの館に家族と共に住んでいる。


「ようこそ、ドライブ氏。お恥ずかしい話ですが……最近、夜になると地下の貯水槽から呻き声が聞こえるのです」


アダムはうなずき、館の構造図を広げた。かつてこの邸宅はライン川から水を直接引く仕組みを持っており、地下にその名残として大きな貯水槽と旧井戸が残っていた。


夜。アダムは一人、地下の石段を降りた。ランプの灯りが石壁に揺れ、湿った空気が肺に重くのしかかる。貯水槽のふちに立った瞬間、ひたりと何かが濡れた手で袖を掴んだような感触があった。


「……誰だ?」


返事はない。ただ、水面が不自然な波紋を描き、底からぼこぼこと泡が湧き上がる。アダムが息を潜めた瞬間、耳元で声がした。


──“さがして……さがして……”


振り返ったが誰もいない。


調査の翌日、アダムは村の老司祭を訪ねた。彼の話によれば、約80年前、この村では「水神祭」と呼ばれる儀式が密かに行われていたという。信者たちは「水に溶ける魂」を供物として捧げていた。


「失踪者が多かった時代じゃ。誰もが川に呑まれたと思っていたが……水楼館の地下に“座”があるとは知らなんだ」


アダムは地下を再調査し、貯水槽の裏に隠された扉を発見する。重たい扉を押し開けると、そこには祭壇のような構造と、黒く変色した十字架が置かれていた。その足元には、水に沈んだ文書――恐らくは儀式の記録と思しき帳面があった。


乾かして解読した内容は、彼の背筋を凍らせた。


「水神は、言葉を伝うて来たり。われら、口にし、記し、聞くなかれ。されど水より声来るときは、従うべし。水は記憶なり。血なり。魂なり」


アダムは記憶を辿る。初夜に聞いた囁きは、たしかに意味を持っていた。だが誰の声かはわからない。


その夜、館の水道から赤褐色の水が流れ出した。クラウス家の娘・イザベルが悲鳴をあげたという。彼女の部屋を訪れると、少女は震えながらこう言った。


「私の部屋の鏡の中……川の底みたいだった。そこから、誰かが、呼んでたの……」


アダムは少女の言葉を信じざるを得なかった。水は“何か”を映している。いや、“何か”が水を通じてこの館に入り込んできている。


事件の手がかりは、一つの碑文にあった。庭の片隅に立つ石碑。その表面に、古いドイツ語とラテン語、そして聞き覚えのない死語のような文字が混ざっていた。


アダムはそれを丹念に読み解き、そこにある“指示”を理解した。


「その構文は記すべからず。声に出すなかれ。理解したとき、魂は濡れる」


濡れる? アダムはぞっとした。“水に濡れる”という言葉は、この館では比喩ではない。


人の記憶に侵入し、言葉を媒体として伝播する存在――それがこの館の水に宿るものの正体なのか。


アダムは、自らの知識と語学力でこれを「閉じる」方法を模索し始める。除霊はできない。だが、“語り”を封じる方法なら、あるいは……。


その時、館の水槽の水位が、誰の手も触れていないのにゆっくりと上昇し始めた。


そして、再びあの囁きが水面から漏れる。


──“つぎは だれのことばを いただこうか”


アダムは拳を握った。

水は生きている。言葉を欲し、魂をなめ回しながら。


水槽の水位が、ひたひたと床を濡らしてゆく。まるで館そのものが、何かを孕んで膨らんでいるように。


「クラウス氏、娘さんを屋敷の外へ避難させてください」


アダム・ドライブは、声を張りながらも冷静さを保っていた。水は、明らかに彼らを狙って動いていた。いや、“誰かの言葉”を探していた。


アダムは書斎に戻り、古文書の一部をもう一度読み返した。そこに、ひとつだけ気になる記述があった。


「水神は、真名しんめいを喰らいて顕現す。しかして、偽りの言葉を飲ませれば、眠りへと還る」


真名――名と、意味を持つ言葉を繋げること。

つまり、この怪異は“名”をもって人間と結びつき、“語り”をもって実体を持つということか。


そして、“偽りの言葉”とは……。


アダムはかつて読んだ古い言語学の論文を思い出した。いにしえの呪文や呪詛は、意味を偽装することで力を封じたという。水楼館の怪異もまた、言葉を通して実体を成す存在。ならば、言語の罠で封じることができる。


「鏡、そして水。これは反転だ……」


アダムは館の構造を逆に辿った。貯水槽から井戸へ、井戸からかつての水神祭の祭壇へ。まるで“誰か”の記憶の回路を歩くように。記録と記憶が館に刻まれていた。


やがて彼は、祭壇の奥に封印された石室を見つけた。


そこには人型に近い、だが明らかに人間ではないものの骸骨が、奇妙な形の壺に収められていた。壺にはびっしりと文字が刻まれている。各国語が混ざった多言語呪文、いや“封語ふうご”だ。


「……お前が、この館に囁きを残したのか」


水槽の水が、石室の壁を伝い、アダムの足元まで届いた。水の中から、ささやきが木霊する。


──“わたしの なを しっているのか”


アダムは、ゆっくりと口を開いた。だがそれは、古代ラテン語とスラヴ語、さらに人工言語エスペラントまで混ぜた、“意味を成さない呪文”だった。


「ナメヌ・ヴォクス、スヴァルダ・リモ、エル・アクヴァ・メンティ」


囁きは、一瞬止んだ。


──“それは……だれのことば?”


「それは、“おまえのものではない”言葉だ」


封印は言葉の迷宮。真実から遠ざかることでしか届かない。


水は静かに沈黙し、そして、地下全体の湿気が引いていくように、空気が乾き始めた。


アダムは壺の蓋を慎重に閉じた。骸骨はもう、動かない。そこにあったのは、かつての信仰と、それに縛られた怨念だった。


翌朝、クラウス氏とその家族は館を去ることに決めた。水道の水は澄み、鏡もただの鏡に戻っていた。


「ドライブ氏……あなたは、祓える人ではないのですよね?」


「ええ。私は、ただ“理解”するだけです。そして、正しく“言葉にする”」


アダムは、村を離れる汽車の中で最後の記録をノートに書きつけていた。


「水は記憶を持つ。それはすなわち、言語である。言葉が残り、語られ、信じられる限り、怪異はそこにいる。人は水を飲み、洗い、語る。言葉の中に水があり、水の中に言葉がある――それが水楼館の本質だった」


窓の外に流れるライン川の水面が、ふと揺らいだ。だが、それが風のせいなのか、あるいは何かが見送っていたのかは、誰にもわからない。


ただアダム・ドライブだけが、その揺れに対して、ほんのわずかに首を傾げた。

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