表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

河原の下で死ね

 ものすごくうるさくて、ありえないほど近くで声が聞こえているのです。

 その声がなんと言っているのか、うまく言葉にかえることができません。わたしをあざわらっているような、ののしっているようなするどい牙のようです。けれど、その声に対してどうすることもできないもやもやした想いを抱えたままでわたしはいるのです。


 なんとなく頭の中にちらついているのは、赤く燃え上がった炎。空までずっと燃え上がっていました。

何度となく落書きをした壁が、すごい匂いで焼けこげていたのです。お母様は泣いていました。わたしのことを守ろうとしてくれたのかもしれません。けれど、結局お母様は誰かに連れて行かれてしまった。お母様の後ろ姿だけがわたしの目の奥に残っています。聞こえますか。ずっとお母様といたかった。わたしの声が聞こえますか。


 あれからどれくらいの月日が経ったのでしょう。

 冬には雪がかかるほど冷たく、夏には汗が吹き出るほど蒸し暑い、そんな山に囲まれた場所で、わたしはどんな日を過ごしてきたのでしょう。お母様とあれから会うこともできないまま。わたしはわたしの名前を認識するようになった今、あの頃のことを思い返そうとしても、煙がかかったようにぼんやりとしか思い出せないのです。


 それを久さんは「しかたのないことです」と言います。けれど、ほんとうに「しかたのないこと」なのでしょうか。わたしには納得できなかった。わたしはそれをどうしてもはっきりとさせたかった。けれど、力のないわたしにはどうすることもできないのです。


 めっきりと白髪の増えた久さん。わたしがまだ四つん這いでいた頃から常に見守ってくれて、お母様と離れ離れになってからはずっと親代わりのように育ててくれた久さんも、すっかりしわが目立つようになってきました。咳をするようになり、近頃では横になる日も増えました。残された日も少ない、と久さんは苦笑いします。わたしがもっと大きくなる頃には悲しいけれど居なくなってしまうかもしれない。そうなったらわたしは本当に一人になってしまいます。どうしたらよいのでしょう。わたしのお父様は遠く山の向こうにいると久さんは言います。でもそれならどうしてすぐに迎えにきてくれなかったのでしょうか。聞こえますか。顔も見たことのないお父様。わたしの声が聞こえますか。わたしの顔がわかりますか。


 はじめての友達ともいえる人ができました。太郎くん。わたしと似ている境遇の子です。太郎くんのお父様(四郎おじ様)はとても家柄の良い人で、この山に囲まれた地域で事業をおこされている人です。身寄りのないわたしを引き取ってくれたのも四郎おじ様でした。(といってもおじ様と会うことはほとんどありません。身の回りの世話は久さんがほとんどやってくれます)。年頃もおなじ太郎くんはやんちゃで、よくわたしと一緒に川で泳いだり、山では兎を追いかけて捕まえたりして遊んでいました。ずっとそうやっていられればよかったのです。どちらかというと人見知りなわたしを外へ連れ出してくれるような太郎くんの存在が、わたしにとってどれだけありがたかったでしょう。


 でも太郎くんは太郎くんで悩みを抱えていました。四郎おじ様は、そのお父様(つまり太郎くんのお祖父様)が長年にわたって築いてきた事業を継いできて、さらにそれを大きくした人なのだそうなのですが、お祖父様と一緒に事業をすすめてきた人たちと関係が悪く、その人たちを差し置いてなんでも物事を決めてしまうようなことが多いという噂が立っているのです。わたしにはとても優しい方なのに。それなのにお祖父様の代の人たちではなく、四郎おじ様の代の人たちの意見ばかりを聞くようになったという噂が立ち、たいそう評判が悪く、周りの大人たちは四郎おじ様の代わりにまだ幼い太郎くんに期待をするようになったようです。太郎くんはたったの十二歳だというのに!


 ある日、わたしの身の回りで大きな事件がありました。

 山の向こうにいるというわたしのお父様。その人がわたしを引き取りたい、と言ってきたというのです。顔もしらないお父様。きっと向こうもわたしの顔なんて知らないでしょう。赤ん坊の時に会ったきりなのですから。なのになぜ今さら。久さんはとても喜んでいます。久さんは若い頃にお父様からよく世話になっていたようで、その人柄も知っていたからなのかもしれません。けれどわたしにとっては、知らない人なのです。むしろ四郎おじ様の方が実のお父様のように思えるくらいです。わたしがこんな身になるまでずっと放っておいたお父様にどんな顔をして会えば良いというのでしょう。


 そしてもう一つの事件。久さんが土に還りました。あれだけ喜んでいた久さんは安心したのか、日の経たないうちにわたしを残して彼方へ行ってしまった。わたしは山に囲まれた場所で太郎くんと、周りの大人たちからの評判は悪い(けれどわたしには優しい)四郎おじ様を頼りに生きることになってしまいました。


 ある時、魚取りを一休みして、ゆるやかに流れる川を眺めながら太郎くんは言いました。「お父様の代わりなんてぼくにできるわけがないし、どうしたら良いかなんてわからない」・・・わたしもその通りだと思いました。十歳かそこらの子供に周りの大人はとても重たい荷物を背負わせようとしているのです。「いっそのこと全部なかったことにできないかな」と太郎くんは言います。


 魚が跳ねました。


 しばらくは川の音だけがさらさらと聞こえます。わたしにはどうすることもできないのもわかっています。だって、わたしはわたしでこれからどうしたら良いのかわからないですし、この頭の中に残っている言葉にできない想いをどう扱っていいのかもわからないのですから。それでも太郎くんの気持ちはわかります。わたしも同じような気持ちだからです。全部がなかったことになれば、わたしも悩まなくて済むからです。


「その気持ち、よくわかるよ。お互いに全部なかったことにできればねえ」わたしは言葉をふりしぼって言いました。頭の中のもやもやしたものを消すには、お互いに全てをなかったことにするしかありません。少なくともわたしはそれくらいしか手だてを知らなかったのです。その言葉を聞いて、太郎くんはちょっぴり驚いた顔をしました。きっとわたしが同じような考えでいるなんて、思ってもみなかったことなのかもしれません。

 

 お父様、わたしの顔がわかりますか?

 いいえ、きっと覚えてもいないでしょう。わたしもあなたの顔を知りません。山の向こうで政治にも関わるような大きな事業を成功させていることは久さんから伝え聞いていました。けれど、その久さんももういません。お父様の下に帰ったところで、誰がわたしのことを気にかけてくれるというのでしょう。他にわたしのことを誰が知っているというのでしょう。


 はっきりと言います。わたしはあなたの元へは帰りたくなかったのです。


 どうしてお父様はわたしを迎えにきてくれなかったのか。いいえ、それよりも最初から。わたしはどうしてお父様の元で育てられなかったのでしょうか。お母様と一緒にわたしを育ててくれたのは久さんや他の人たち。物ごころもつく前のわたしをお母様に預けてご自身は事業に取り組んでいたというではありませんか。わたしのことが目障りだったのでしょう?


 久さんが亡くなった夜のことです。

 すっかり冷たくなった久さんのすぐ横で、一晩じゅう寝ないでろうそくに灯し続けるのはわたしの役目でした。久さんが迷わずに還れるように、その道すじを灯りで照らしていなくてはならないそうです。わたしと久さんの他に誰もいない部屋で、わたしは短くなって消えてしまいそうになるろうそくに次のろうそくを継ぎ足して新たな火を灯す。それを一晩じゅう繰り返す。朝になるまでずっとろうそくを継ぎ足して行く。思い出すのは久さんのこと。幼い頃からわたしを常に見守ってくれていた久さん。わたしの行く末をずっと心配していた久さん。困ったように叱るときも、不意に見せる笑顔も、そしてお母様が連れて行かれたときにだけ見せた泣き顔も、今となっては懐かしい思い出です。もう二度と繰り返すことのできない日々です。


 ろうそくが短くなる。

 わたしはこれからなんのために生きて行けばいいのか。

 火が小さくなる。

 誰も知っている人のいない地へ行く。

 ろうそくを継ぎ足して行く。

 顔も知らない父の元へ行く。

 また赤々と火が灯る。

 顔も知られない父の元へ行く。

 

「かわいそうに。僕たちはみんな大人たちの道具なんだね」

 朝になってやってきた太郎くんがぽつりと言いました。

「わたしはどうして父の元へ帰らなくてはならないのですか。お互いに顔も知らないというのに。お母様を見捨てた父など、本当の父とは思えません」

 わたしは訴えるように言いました。けれど太郎くんから返ってきた答えは予想していたものとは違った。

「きみが知らなかった秘密を今から話すね」


 お父様。

 あなたはわたしの実のお父様。

 けれど、お母様はわたしのお母様ではなかったのですね。あなたの叔母にあたる方。

 いいえそんなことはどうでもいい。そんな方がわたしを育てる母として選ばれた理由はなんでしょう?

 実のお母様はどこにいるのでしょう?

 事業が大切なのかわかりませんけど、これまでに何の説明もなく放っておかれるというのは、あまりにもひどい仕打ちではありませんか?


「ねえ」

 太郎くんは言いました。

「どうかな。お互いに『無かったこと』にしないかい」

「え」

「きみと僕の立場、それぞれを『無かったこと』にして、また一から始めるんだ」


 お父様。

 ご機嫌はいかがですか?

 あなたに放っておかれたおかげで、わたしはすくすくと育ちました。

 背丈も伸び、声変わりもはじまって立派な男子に育ちました。

 今や太郎くんと同じくらいの見た目になりました。 


 そこで問題です。

 

 今あなたの下へ戻ってきている十二歳の子は誰でしょう?

「お久しぶりです」と笑顔で語る十二歳の子は誰でしょう?

 山育ちのなまりがありますか? わたしもずいぶんと山の中で遊びましたから、山育ちのようなものかもしれませんね。親の顔立ちと似ていないように見える? でもわたしの顔を見たのは赤ん坊の頃だけでしょう? 「あなたの子です」と言うのですから間違いありません。証明するただ一人だった久さんはもう居ませんけど。

 

 わたしは今も山に囲まれた場所で、四郎おじ様と暮らしているかもしれません。

 幸せに暮らしているかもしれません。

 

 お父様、わたしの顔をご存知ですか?

 あの晒されているものは、誰の顔だかわかりますか?



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ