夜の中庭 (4)
先に衝撃から復活したのは、テオドールだ。
困った顔で、小さい子どもを諭すような声でベリンダの申し出を断った。
「ご自分が何をおっしゃっているか、わかっていないようですね。気持ちはありがたいけれども、いけません。危険です」
「いいえ、ちゃんとわかってます」
テオドールは危険だと言うけれど、ベリンダは魔女だ。貴族のお嬢さまみたいな、深窓のお姫さまとはわけが違う。お嬢様が魔物に襲われたらひとたまりもないかもしれないが、ベリンダならホウキに乗って逃げられるのだ。そもそもアステリ山脈のあたりには、魔物が出現したことがない。
テオドールが言うほど、危険なこととは思えなかった。
そう説明しても、テオドールの表情は晴れない。
ベリンダはさらに畳みかけた。
「そんなに心配なら、秘密にしておけばいいんです」
テオドールが言葉に詰まったのにつけ込んで、ベリンダは続ける。
「婚約って、将来の結婚を約束することでしょう? 当人同士で約束だけして、周りには内緒にしておけばいいんです。婚約者が誰だか知らなければ、邪神だって襲いようがないじゃありませんか」
とうとうとまくし立てながらも、次第にベリンダの頭は冷えてきていた。少し冷静になると、自分で自分の言葉にびっくりする。何かとんでもないことを言ってしまっているような。
たった今、自分で口にしたとおり、婚約するということは、将来の結婚を約束することだ。なのに「婚約者になります」だなんて、押し売りじゃないか。
そう気づくと、義憤に駆られて頭にのぼっていた血が、一気に引いた。
勢いを失い、ベリンダの声は尻すぼみに小さくなる。
「あの、もちろん殿下がお嫌じゃなければ、ですけど……」
「嫌なわけがありません。が、それでもやはり危険だと思います」
急にしょんぼりしてしまったベリンダに、テオドールはあわてて否定した。
フリッツはその二人の様子を、何か考え込むような顔をして見ていたが、ここで「ふむ」とゆっくりうなずいてから口を開いた。
「テオ、なかなかの良案だと思うぞ」
「何を言ってるんだ、フリッツ」
ギョッとしたように振り向いたテオドールに動じることなく、あごに手を当てて思案顔のフリッツは言葉を続ける。
「だって理にかなってるじゃないか。その辺の貴族の娘なんかより魔女どののほうが安心できるし、そもそも秘密にしとけば狙いようがないよな」
「そんなこと言ったって、相手は邪神なんだぞ」
フリッツはあごに手を当てたまま、視線をテオドールに向ける。
「テオに授けられた祝福は、婚約者がいないと発動しないわけだからさ。婚約者がいるかいないか、それが重要なんだよね」
「そんなことは、わかってる」
困った顔のテオドールとは対照的に、フリッツは満足そうに何度もうなずいた。
「だったら魔女どのの申し出は、渡りに船じゃないか」
「だから、そんな危険なことを──」
「ならテオは、彼女からの申し出を拒絶するって言うの? こんな可憐なお嬢さんが勇気を振り絞ってくれたというのに、恥をかかせるだなんて。ひどいやつだなあ」
「え……?」
一転してフリッツの口調は、テオドールを責めるものに変わる。フリッツが横目でチラリとベリンダを見たのにつられたようにして、呆然としたテオドールも彼女のほうを見た。
二人の青年の視線に、ベリンダは少々いたたまれない気持ちになる。自然と視線が下がっていく中で、そうっとフリッツのほうを見ると、彼と視線が合ってしまった。気まずく目をそらす前に、フリッツはこっそりウインクしてみせた。
彼の口もとに浮かぶいたずらっぽい笑みを見れば、彼の意図は明白だ。しょんぼりとした気持ちが、使命感に取って代わられた。
ここは彼の策に乗っておこう。
「ほら。かわいそうに」
「いえ。殿下にだってお好みはありますから、無理強いするわけには……」
フリッツがわざとらしく同情するようにかけた言葉に、ベリンダも白々しく自虐の言葉を続ける。まあ、実際、身の程知らずな発言ではあった。事情がどうあれ王子さまの婚約者になるだなんて、田舎育ちのポンコツ魔女には身に余る話だ。
けれども、他に本当に選択肢がないなら別ではないか。
フリッツはとがめるような視線をテオドールに向け、チクチクと当てこすりを続ける。
「テオはさ、死んだほうがマシなくらい彼女が嫌なの?」
「そんなことは言っていないでしょう!」
たまらずテオドールが抗議の声を上げると、フリッツは途端ににやりと笑みを浮かべた。
「だろう? だったら断る理由がないよな」
「いや、だから──」
いつの間にか論点がすり替わっている。テオドールは、婚約した者の身に危険を及ぼしかねないことを心配していたはずだ。なのにフリッツが問題にしているのは、婚約相手がベリンダでは受け入れられないのかどうかだ。
フリッツは論点をすり替えたまま、ごり押しするつもりのようだ。
少しばかり良心がとがめないでもないが、これはテオドールのためなのだ。反論するために口を開こうとするテオドールに、フリッツが畳みかける。
「え、信じられない。本当にそんなに嫌なの?」
「いいんです。ごめんなさい、身の程知らずなことを言いました」
フリッツの尻馬に乗り、悲痛な表情で唇をかみしめて見せれば、テオドールは明らかに動揺した。おろおろと両手を胸のあたりまで、上げたり下げたりと落ち着かない。
これは、あともうひと押しではなかろうか。困り果てた様子のテオドールを、ベリンダは悲しげに見上げた。本当はここで涙のひと粒でもこぼせれば完璧なのだろうが、そこまでの演技力はないので、これで勘弁願いたい。
テオドールは深くため息をついた。
「嫌なわけがありません。気持ちはとてもうれしく思いますよ」
「なら、受けてもいいだろ?」
「うーん……」
フリッツのダメ押しにも、テオドールはまだ陥落しない。ベリンダが黙ったままじっと見つめていると、うろうろと視線をさまよわせていたテオドールと目が合った。彼女の悲しげながらもまっすぐな視線に、まるでなじられでもしたかのように王子はひるんだ顔をする。
しばらく何かを言いあぐねるように困った顔をしていたが、やがてぼそぼそと小さな声でこうつぶやいた。
「そうですね、内緒の口約束だけなら……」
よし、勝った。ベリンダはぐっと拳を握りしめる。
ちらっと横目でフリッツの顔をうかがうと、「よくやった」と言いたげな笑顔でうなずいていた。口約束でも何でも、約束は約束だ。さきほどまでの演技などころっと忘れて、ベリンダは満面の笑顔でテオドールに挨拶した。
「では、婚約者さま。よろしくお願いしますね!」
「やあ、二人とも、婚約おめでとう!」
テオドールもこれで、二人にしてやられたことに気づいたらしい。呆れたような顔で、ため息をついた。