リンツブルク家の末娘 (2)
公爵によれば、ベリンダとテオドールが幼い頃に交わされた婚約は、現在に至るまで解消されていない。だから彼女は、今でもテオドールの正式な婚約者なのだ。
なぜそうなっているかと言うと、リンツブルク公爵家では幼い娘ルイーゼと王太后ゲルトルードの死を受け入れなかったからだ。生存が絶望的と言われ、捜索が打ち切られた後も、決して希望を捨てなかった。
だから葬式もしなかったし、婚約もそのままにしておく、ということで王家と話がついていたそうだ。もしもテオドールに新しく婚約したい者が現れれば、そのとき正式にルイーゼとの婚約を解消してから、婚約を結び直すことになっていた。
だがこの悲劇の後、婚約者候補として名乗り出る者はひとりもいなかった。当然の結果として、テオドールとルイーゼの婚約が解消されることもなく、そのままになっているというわけだ。
「だからね、正式な婚約者がここにいる以上、口約束も何もないんだよ」
なるほど、とベリンダはうなずいた。そういうことであれば、少なくとも「リンツブルク公爵家の娘ルイーゼ」としてであれば、テオドールの食生活に口出しする資格が十分にありそうだ。ただし、今の段階ではまだ、彼女がこの家の娘であることを知っているのは、家族だけなのだが。
父が事情を説明する横で、フリッツは首をひねっている。
「それにしても、どうしてテオは突然、婚約解消なんて言い出したんだ?」
「わかりません」
突然も何も、祝賀会で会ったときには、最初から婚約解消を前提にした話しかしていない。
──いや、そうだろうか?
ここでベリンダは、かすかな違和感を覚えた。確かあのとき、途中でテオドールの表情が急に硬くなったような気がする。それは、どのタイミングだっただろう? そうだ、髪飾りのお礼を言ったときだった。
「黒い薔薇の髪飾り……」
「うん? 何かあったの?」
「あの夜会の前日、テオさまのお遣いのかたが髪飾りを持ってきてくださったんです。そのお礼を言ったら、そんなものは贈ってないっておっしゃって、こわい顔になったの」
「なるほどな。それだ」
ベリンダの説明に、フリッツは納得したように何度もうなずく。黒い薔薇は、なんと邪教のシンボルなのだそうだ。邪教自体が秘密組織のため、このことを知る人は少ない。けれどもテオドールとフリッツは、もちろん知っている。何しろ、長年にわたって邪神だけでなく邪教とも戦ってきたのだから。
そんな不吉なものが、テオドールの名を騙ってベリンダに贈られたわけだ。テオドールにしてみたら「婚約者を見つけたぞ」という脅しにしか見えなかったことだろう。邪神は討伐したが、邪教の残党はまだいる。テオドールはベリンダが彼らに害されることを恐れてプロポーズを諦めたのではないか、とフリッツは推測を語った。
話を聞くうち、ベリンダは腹が立ってムカムカしてきた。
「そんな脅しに屈したくない」
「うん。邪神が相手ならともかく、ただの残党だからな。たいしたことはできないさ」
ベリンダに同意するフリッツの横で、公爵もおもむろにうなずいた。
「何にせよ、まずは娘が戻ったことのお披露目をせねばな」
「ええ、そうね。その上で、婚約者として殿下にして差し上げられることを考えましょう」
公爵夫人も、夫に続いてにこやかにうなずく。夫妻がベリンダのお披露目について相談を始めた横で、フリッツが難しい顔で首を振った。
「それにしても、テオの食事は早く何とかできないかな。健康に悪いし、本人も口には出さないものの、きつそうなんだよ」
「元どおりっていうのは、周りの方々が元どおりってことですよね?」
「うん」
ベリンダは以前の王宮での会食を思い出して、ため息をついた。あのときは国王が食事を取り分ける際に、テオドールの分だけ量がおかしかった。ずっとあれが日常だったと言うのだから、それは肥満になって当たり前だ。
けれども、ベリンダが健康の指導役として国王夫妻に紹介された後は、「ベリンダの指示だから」と言えば適正量にしてもらえていたと聞いていたのに。そうベリンダが不思議がっていると、フリッツは首を横に振った。
「ベリンダがアステリ山脈に帰ってしまった途端に、元どおりだった。何なんだろうなあ、あの理屈の通じなさは」
「まるで呪いみたいですよね」
ベリンダの感想に、フリッツは「呪いか……」と何やら考え込む。少ししてから、ハッと何かに気づいたように顔を上げ、ベリンダと視線を合わせた。
「呪いだよ」
それだけでは意味がわからず、問い返そうとした瞬間、ベリンダの頭の中にもひらめくものがあった。そうか、これは呪いなのか。
「呪いなら、『癒やしの花』が効きそうですね」
「うん、そうだな」
両親がベリンダのお披露目の相談をする横で、ベリンダはテオドールにかけられた呪いの解き方の相談を兄と始めた。ある程度の方針が決まったところで、両親にも相談する。そうしてこの日から、ベリンダのお披露目とテオドールの解呪に向けての準備が始まったのだった。
お披露目は、次の王宮夜会で行うことになった。リンツブルク家で夜会を開く案もあったのだが、広間の大きさの都合により、王宮での夜会に比べると招待できる人数がどうしても限られてしまう。
ちょうど折りよくひと月後に、王宮で夏至の夜会が開かれるので、その場を借りることになった。この夜会は毎年、夏至の日に開かれているもので、十六歳から十八歳くらいの若者たちを社交界にお披露目する場ともなっている。
お披露目自体は、別にどの夜会でするものと決まっているわけではないのだが、どうせするなら同じ境遇の者が多い場のほうが気楽ではある。そんな理由から夏至の夜会は、何となく示し合わせたように社交界へのお披露目の場として認知されるようになったのだ。
公爵夫人は、お披露目でベリンダの着る衣装には一級品をそろえようと張り切っている。ベリンダは衣装部屋にあるものの中から選べばよいと思っていたのだが、夫人はそれには決して同意しようとしなかった。
「社交界へのお披露目は、人生に一度きりのことなのよ。特別な思い出になるよう、とびきりすてきなドレスを用意しましょうね」
夫人の言う「とびきりすてきなドレス」は「とびきり高価なドレス」にしか聞こえない。ベリンダは一応「ほどほどでお願いします」とお願いしてはみたものの、にっこり笑顔でいなされて終わりだった。まあ、どれほど豪華に仕立てようとも、たかがドレス一枚で公爵家が傾くことはない、はずだ。
公爵は公爵で、忙しくしている。実はベリンダから「ちょっとしたお願い」をしたのだ。それをかなえるために、諸々の手配をしたり、王宮での根回しをしたりと、何かとやることがあるらしい。
そしてベリンダ自身も、準備に追われた。ドレスの仮縫いを試着したり、貴族年鑑を開いて主要な貴族家の情報を覚えたり。そういった社交界入りするための標準的な準備はもちろんとして、それ以外にテオドールの解呪のための準備も必要だった。ひと月という期限つきなのが厳しい。解呪の準備は、フリッツが手伝ってくれた。
アステリ山脈へ簡単に行き来できるようになったのも、フリッツのおかげだ。彼の助言により、王都の公爵邸で使える「転移の扉」を探したのだ。
すると彼女の部屋の衣装部屋の扉が、転移に使える扉だった。準備のためにはアステリ山脈を頻繁に訪れる必要があったので、これは本当に助かった。こうして、何とかギリギリ間に合わせることができたのだった。




