女神と邪神
ベリンダが霊峰スペシアについて説明する間、テオドールは興味深そうに耳を傾けていた。話が終わると、ゆっくりとうなずく。
「山頂に咲くというその花が、伝説に出てくる『癒やしの花』なのかもしれませんね」
「なんですか、その『癒やしの花』って」
「え? 邪神伝説を聞いたことはありませんか?」
「ありますけど、『癒やしの花』は知りません」
ベリンダの知る邪神伝説は、「愛し合う恋人たちに横恋慕した女が、嫉妬に狂って呪いに手を出したものの、呪い返しを受けて魔物と成り下がり、魔物となっても恨みだけは募らせ続けてついに邪神となった」というものだ。
自業自得も甚だしいというか、逆恨みがひどいというか、はた迷惑加減が尋常ではない。さすが邪神。だがそれはそれとして、「癒やしの花」なんてものは、彼女の知る邪神伝説の中には全く登場しなかった。
ベリンダがそう説明すると、テオドールはうなずいた。
「なるほど。地方では、言い伝えがずいぶん変形してしまっているんですね」
テオドールによれば、王家に書物として伝えられている邪神伝説は、ベリンダの知っている邪神伝説とはだいぶ異なると言う。民間の伝承では口伝えで広まるうちに、細かい枝葉がなくなったり、変化したりしたのだろう。
「王家に伝わる伝説はどんなお話なんですか?」
「ちょっとした叙事詩ですよ」
ベリンダが興味を示すと、テオドールは王家に伝わる伝説を語り始めた。
* * *
伝説によれば、昔、二人の美しい姉妹がいた。
姉は金色の太陽のように明るく華やかな容姿を持ち、勝ち気で社交的。妹は銀色の月のように儚くたおやかな容姿を持ち、おとなしく引っ込み思案。まったく対照的な二人だが、とても仲がよい。
実は姉娘は、地上に降りるために人間の姿をとった女神スペシアの仮の姿であり、妹娘はそのスペシア神の愛し子だった。
二人は大貴族の娘であり、姉は王子の婚約者候補として名が挙げられていた。候補とは言っても、ほぼ内定したも同然だと誰もが思っていた。ところが、妹が社交界にお披露目した際に、番狂わせが生じる。王子が妹のほうにひと目ぼれしてしまったのだ。
もちろん妹も美しい娘ではあったが、姉のような華やかさはない。性格もおとなしく控えめで、いずれ王となる王子の伴侶とするには物足りないと思われていた。
だから両親も、王家に嫁に出すなら上の娘を、と考えていたのだ。なのに当の王子は姉娘には目もくれず、すっかり妹娘に夢中だ。結局、最終的には王子の意向を尊重して、妹娘が王子と婚約することとなった。
普通なら、ここで終わる話である。
何しろ姉娘ときたら「なかなか見る目のある王子だわ」と満足げに笑うばかりなのだ。自分が選ばれなかったことを気にするそぶりがない。
ところが姉娘に熱狂的な信奉者がいたことが、悲劇の始まりとなった。彼らは、姉娘こそが王子妃にふさわしいとして、妹娘の排除に動き始めたのだ。
しかもこの狂信者たちは、一枚岩ではなかった。姉娘を選ばなかった王子に非があるとして、王子を狙う者もいた。かくして妹娘と王子は、たびたび「不運」に見舞われることとなる。
馬車で外出すれば車輪の故障で横転しかけるし、乗馬をすれば馬が暴走する。庭を歩けば、どこからともなく忍び込んだ魔物に襲われそうにもなった。
その都度、からくも無事に切り抜けていたのだが、ある日ついに悲劇が起こる。魔物に襲われそうになった妹をかばい、姉娘が瀕死のけがを負ってしまったのだ。
命の灯火の消え変えた床にあって、姉娘は妹に遺言を残した。
「あなたを守ってあげられるのは、これが最後だわ。これからは、自分を守れるくらいに強くおなりなさい」
「お姉さま、いやよ。しっかりなさって」
「いいこと、よく聞いて。わたくしが死ねば、王子に与えられた加護も消えてしまう。そのときは、あなたが守ってあげなさい」
姉の手をにぎって涙をこぼす妹に、姉は静かな声で指示をする。
──アステリ山脈にある山に、女神の加護を持つ白い花が咲く。王子の身に何かあったときには、その花を煎じて飲ませなさい。
妹が「無理よ」と姉にすがりつくと、姉は「ホウキを使いなさい。小さい頃に教えたでしょう」と淡く微笑んだ。
「人の命は儚いものよ。大事に生きて、しあわせにおなりなさい。愛してるわ」
その言葉を最後に、姉娘は息を引き取った。
彼女の予言のとおり、彼女が亡くなると同時に王太子は病に倒れる。しかも王宮の医師には原因がわからず、国内外から高名な医師を招いても何もわからなかった。最終的に、病ではなく呪いであろうと診断される。
妹娘は幼い頃に姉から教わった「ホウキで飛ぶ魔法」を使い、単身でアステリ山脈に向かった。だがアステリ山脈は広く、小さな白い花を探し出すのは容易なことではない。
麓から順にしらみつぶしに探し回り、三日目にようやく見つけた。持ち帰った白い花を三日間、陰干しにしてから煎じる。それを婚約者である王太子に飲ませたところ、無事に呪いは解けたのだった。
この犯人は、因果応報により罰を受けた。自分が放った呪いが、解呪されたことにより自分の身に返されたのだ。呪いというものは、解けたときには呪った者に返される。「他人を呪う者は、自らも呪われることを覚悟せよ」とよく言われるが、そのことわざは比喩などではなく、単なる事実なのだ。
元気になった王子は妹娘と結婚し、王となってからは国をよく治めた。
だがその幸せな統治下で、ひそかに邪教が生まれていた。姉娘を崇拝する者たちが、彼女の持ち物を「ご神体」として、彼女の復活を祈ったのだ。祈りが集まれば力を持つ。こうして邪教は広まっていき、邪神が誕生してしまったのだった。
つまり邪神とは、スペシア神の仮の姿を身勝手に信奉した挙げ句に、間違った祈りを捧げた末に生まれた、言ってみれば人間たちの邪念や怨念の塊のようなものなのだ。
妹娘は終生、この白い花を切らすことなく、必要とする者には無償で与えた。呪いによる病に伏せた者を救うことから、この花は「癒やしの花」と呼ばれた。
* * *
テオドールから話を聞き終わったベリンダは、何とも言えない気持ちになった。確かに民間の伝説とは全然違う。そして妙に生々しい。
邪神伝説の話をしていたおかげか、アステリ山脈から王都に戻る道のりは前日よりもさらに短く感じた。テオドールとの話に夢中になっているうち、気づいたらもう王都に差しかかっていたくらいだ。公爵邸に到着したのは、ちょうど昼頃だった。
到着した気配を察したのか、フリッツが玄関に降りてきて朗らかに挨拶する。
「テオ、ベリンダ、おかえり」
「ただいま」
「フリッツさま、ただいま戻りました」
テオドールとベリンダが口々に挨拶を返すと、どうしたわけかフリッツは首をかしげてベリンダの顔をじっと見つめた。明らかにもの言いたげな表情なのだが、理由がわからずベリンダは困惑する。少々気まずい沈黙の後、フリッツは片眉を上げた。
「『フリッツさま』?」
「あ」
お兄さまと呼ぶ「約束」になっていたのを、すっかり忘れていた。だって、自分では約束なんてしたつもりはなかったのだから。一回くらい、見逃してもらえないだろうか。望みをかけて、上目遣いにじっとフリッツを見つめてみたが、だめだった。結局、彼の無言の圧力に屈して、渋々ながら言い直すことになる。
「お兄さま、ただいま戻りました」
「うん、おかえり」
機嫌よく挨拶を返すフリッツに、テオドールが呆れたような目を向けた。
「お兄さまなんて呼ばせてるのか」
「だってテオの婚約者なら、僕の妹も同然じゃない?」
なんだ、そのわけのわからない理屈は。兄弟でもないくせに、と思うとベリンダは思わず吹き出してしまう。だがテオドールは、何も言わずに微笑んだ。その微笑みは、なぜかどこか悲しそうに見えることにベリンダは気づき、不思議に思った。




