アステリ山脈 (3)
王都に向かって飛び始めたところで、ベリンダは気になっていたことをテオドールに質問する。
「テオさま、昨日はしっかり眠れました?」
「はい」
「よかった、安心しました」
質問の意図がわからず怪訝そうにしている王子に、ベリンダは説明した。
「晩ご飯の量がいつもよりだいぶ少なかったはずだから、お腹がすいて眠れなかったりしないか心配だったんです」
「それは大丈夫でした。ただし、寝るときにお腹は鳴りましたけど」
テオドールは恥ずかしそうに就寝前の空腹状態を白状する。ベリンダは、それをちょっとかわいいと思ってしまった。
「それ、普通です。私も寝るとき、よく鳴ってますよ」
うふふ、と笑いながら、ベリンダも打ち明けた。寝るときにお腹が鳴るくらいのほうが、彼女は気持ちよく眠れる。逆に胃袋に食べ物が残っている状態で寝てしまうと、起きたときに胸焼けがするのだ。そう説明すると、テオドールは何か得心したようにうなずいた。
「確かに、今朝は胸のあたりがすっきりしていました」
「でしょう? ひもじいのがずっと続いたらつらいけど、かといって全然お腹がすかないのも体によくないんですよ。食べ過ぎってことですからね」
「なるほど」
テオドールが素直にうなずくのを見て、ベリンダは口もとに笑みを浮かべた。この王子さまが体重を減らすのは、たぶん全然難しいことじゃない。ちゃんと普通の食事をしていれば、じきに普通の体型になるだろう。
安心したベリンダは、話題を変えた。
「遠征するときって、どんなところに行くんですか?」
「やっぱり忌み地の周辺が多いですね」
「こちらにはあまり来ません?」
「うん。この地方には、魔物がまず出ないから」
確かにアステリ山脈地方には、魔物が出現しない。ベリンダも記憶にある限り、魔物の被害に遭ったという話は一度も聞いたことがなかった。
「泊まりがけの討伐って、よくあるものなんですか?」
「この頃は半年に一回くらいかな。だいぶ減りましたね」
「前はもっと多かったんですか?」
「数年前までは、最低でも二、三か月に一回はありました。毎月のように泊まりで討伐に出ていたこともありましたよ」
数年前のテオドールと言えば、今のベリンダと歳が変わらないではないか。そんな頃から魔物討伐の最前線に出ていたのか、と彼女は同情のため息をこぼした。しかしテオドールは「仕方のないことだ」と気にする様子はない。
何しろ彼は、当時すでに並ぶ者なき突出した魔術師として頭角を現していた。その彼を抜きにしては討伐がなり立たないような魔物も、しばしば出現する。当時は今よりもさらに多かったらしい。だから王位継承第一位という身分にありながら、その都度、彼は討伐隊の前戦に立ってきたのだった。
話の流れに乗ってベリンダは、魔物討伐と邪神探索などについていろいろと聞き出した。
テオドールはこれまで、アステリ山脈近くのこの地域には立ち寄ったことがなかったと言う。なぜなら、魔物が出ないから。
基本的に、テオドールが王都を離れるのは討伐のときだけだ。討伐に出るたびに座標を記録するので、魔物が出現しやすい地域にはすぐ転移できる。けれども逆に魔物の被害のない、アステリ山脈近くのこの地域は、これまで訪れたことがないので転移のための座標も記録したことがなかったそうだ。
「どうして魔物が出ないんでしょうね。忌み地から遠いせい?」
「必ずしも距離が理由ではない気がします。たぶん、霊峰スペシアがあるからじゃないかな」
霊峰スペシアとは、アステリ山脈の中で最も高く険しい山だ。女神スペシアが地上に降臨する際にはこの山に降り立つとの言い伝えがあり、信仰の対象となっている。
テオドールによれば、魔物の被害はアステリ山脈周辺だけを除いて広範囲にわたっていると言う。忌み地からアステリ山脈以上に遠く離れていても、被害を受けている土地はある。だから必ずしも距離だけではないだろう、というのが王子の考えだった。
「まるで女神に守られているみたいに聞こえます」
「実際そうなのかもしれませんよ」
ベリンダの感想に、テオドールが同意する。
言い伝えがどれほど正しいのか、ベリンダにはわからない。だが女神の存在は信じているし、女神が地上に降りるなら霊峰スペシアがふさわしいと思う。
アステリ山脈では、夏になると斜面に色とりどりの花が咲き乱れ、天然の花畑となる。霊峰スペシアも、夏には中腹に見事な花畑が広がる。その花畑の先には洞窟があって、中に祭壇がまつられていた。
この洞窟は、神官たちの巡礼地となっている。中腹とは言っても、それなりに険しい山道を歩かなくてはたどり着けないため、若い見習いのうちに巡礼を済ませておくのが普通のようだ。
ベリンダは、女神がまつられている洞窟はもちろん、霊峰スペシアの頂上にも何度か行ったことがあった。山頂まで徒歩で行くのはほぼ不可能と思われるから、おそらく訪れたことのある神官はいないだろう。けれどもホウキで飛んでいくなら、難しいことなど何もない。
霊峰スペシアの頂上は、山の頂としては少し変わった場所だ。中腹から上は、人を寄せ付けない険しい岩の尾根が続いているのに、不思議と頂上は平らなのだ。大きな部屋ひとつ分ほどの広さがあり、ここだけ中腹と同じように、草花が一面に敷き詰められている。
ホウキに乗って空から見ると、岩肌がむき出しになっている尾根が続く先にある小さな花畑は、何とも言えず神秘的だ。まるで天から降り立つ女神のために、天然のじゅうたんを敷いてあるかのように見える。
しかもここに咲く花は、中腹に広がる花畑の中のどの花とも違う、名前もわからない花だ。山頂にときおり吹き荒れる強風に負けることなく、しっかりと山肌に根を張る小さな白い花は、それだけでも女神の威光を感じさせるに十分なだけの説得力があった。
だからベリンダは、女神の存在を疑うことはないし、女神が降り立つならこの幻想的な花畑の上がふさわしいと思うのだ。




