アステリ山脈 (2)
翌朝、ベリンダは家の中を片付けてから、作り置きしてあった薬をまとめて隣町の薬問屋へ持ち込んだ。
「しばらく留守にするから、今あるだけ全部持ってきちゃいました」
「そうかい。いつ頃帰る予定だね?」
「わかりません。邪神討伐が終われば帰れるんですけど」
「魔女だからって、こんな若い娘っ子まで駆り出されるのか……。けがせず無事に帰っておいでよ」
問屋の主人の誤解に、ベリンダはあわてて胸の前で両手を振る。
「別に、討伐に駆り出されたわけじゃありません」
むしろ自分から押し掛けた形だ。だが婚約が秘密である以上、事情を説明するわけにはいかない。それ以上は言葉をにごすしかなかった。
ホウキに乗っていったん家に戻ると、玄関前に人影がある。それも、あまり見慣れない、長身で大きな人影だ。誰だろうと不思議に思いながら地上に降りてみて、ベリンダは目をむいた。その人影は、なんとテオドール王子だったのだ。玄関の前でホウキを手にして、途方に暮れたように立ち尽くしている。ベリンダが帰ってきたのを見て、明らかにホッとした顔をした。
「よかった。ベリンダ嬢、おはよう」
「おはようございます。どうしたんですか?」
「迎えに来ました」
「えっ」
なんで? と、ベリンダは不思議に思った。昨日のうちに方位磁針を渡したのだから、てっきりすぐに試しに行くものと思っていた。彼女のその顔を見て、テオドールは苦笑する。
「『明日、時間を合わせてまた来ます』って言ったじゃありませんか」
言ったっけ? と、ベリンダは頭の中で前日の会話を思い起こしてみる。──言っていたかもしれない。ただし、そのときは「王都の公爵邸に、明日また来ます」という意味だと理解していた。
言われてみれば、確かにあのときテオドールから、何時頃に出発する予定なのかと確認された覚えがある。だけど、出発する時間から王都に到着する時間を推測して訪ねてくるのだろうと思い込んでいたのだ。
だって彼女は、転移魔法なんて使えない。王都へ行くにはホウキに乗るしかなく、三時間もかかるのだ。わざわざ三時間また一緒に空を飛ぶために来てくれるなんて、思わないではないか。
「私はホウキでしか行けませんから、テオさまは転移でお先にどうぞ」
「それじゃ意味がありませんよ」
ベリンダの勧めに、テオドールは苦笑いして首を横に振る。
「なんでですか?」
「婚約者をひとりで帰らせるわけにはいかないでしょう」
え、そんな理由? と、ベリンダは目をパチクリさせた。婚約者と言っても、秘密の、口約束だけの、それもきっと邪神を倒し終わるまでの期間限定のものにすぎないのに。そんな名ばかりの関係の彼女にも、きちんと婚約者らしく接しようとするなんて、なんと義理堅い人だろう。
なのに実際に来てみたらベリンダは不在で、呆然としていたのだろうな、と思い当たったら、とても申し訳なくなった。
「来てくださると思ってなくて。出かけてしまって、すみませんでした」
しゅんとしてベリンダが頭を下げると、テオドールは困ったように笑う。「私も言葉足らずでしたから」と胸の前で手を振ってから、ベリンダに尋ねた。
「もう用事はすみました?」
「はい。しばらく留守にするので、薬の在庫を問屋に渡してきただけなんです」
「ああ、なるほど」
ベリンダは念のため家の戸締まりをもう一度確認してから、「出発できます」と王子に声をかけた。テオドールはうなずいたが、すぐにはホウキにまたがろうとしなかった。
「出発する前に、転移を使えるか試してみませんか」
「ぜひ!」
願ってもない申し出に、ベリンダは食いつくようにしてうなずいた。
こんなすばらしい師匠に教わる機会を逃がす手はない。それに、今まで知らなかった転移魔法というものに、彼女は興味津々だった。自分にも使えるものなら、使ってみたい。まあ、あまり使えるようになる気はしないけれども。それでもせっかくの機会なのだから、ダメでもともとだ。
テオドールはメモ用紙を一枚、ベリンダに手渡した。そして座標記録の呪文を教える。ベリンダは教わったとおりに呪文を繰り返してみたが、残念なことにメモ用紙に座標が刻まれることはなかった。呪文の唱え方にコツでもあるのかと思い、抑揚を変えて何度か試してみたけれども、結果は変わらない。
がっかりはしたが、驚きはなかった。もともとホウキで空を飛ぶ以外の魔法は覚えられなかったわけだし、意外でも何でもない。だが、テオドールは眉をひそめて「おかしいな」と首をひねっている。
「どうしました?」
「いや。なんでだろうと思って」
「それは、私がポンコツだからだと思います……」
ベリンダにしてみたら、テオドールが不思議がることのほうが不思議だ。だってテオドールもフリッツも「ある程度、力のある魔術師にしか使えない」と言っていたではないか。つまりベリンダには十分な魔法の力がなかった、というだけのことなのだ。今までだって、ホウキに乗る以外には、何も魔法を使えるようにならなかったのだから。
けれどもテオドールの見解は違った。
「ホウキで飛ぶなんて高度な魔法が使えて、転移みたいな単純な魔法が使えないのは不思議ですよね」
思ってもみない言葉に、ベリンダは目をまたたいた。ホウキで飛ぶのが高度な魔法? ないない。彼女にも使えるくらいに簡単な魔法だ。
テオドールとフリッツだって、簡単にホウキを乗りこなすようになっている。二人とも力のある魔術師であることを差し引いても、あれだけすぐに乗りこなせるようになったというのは、ホウキで飛ぶのが簡単な魔法であることの証明みたいなものではないか。そう指摘してみたが、テオドールは首を横に振る。
「おそらく、私もフリッツも、自力でホウキに乗れたわけじゃありません」
「ええ?」
おかしなことを言う。だって実際、乗っていたのに。ホウキで王都からここまで飛んできておいて、何を言っているのか。ベリンダがうろんげな眼差しを送ると、テオドールはその根拠を説明した。
「お留守のようだから、少し辺りを探してみようかと思ったのですが、さっきはホウキに命令してもウンともスンとも動きませんでした」
「本当ですか? もう一度試してみてくださいよ」
半信半疑でベリンダが頼むと、テオドールは素直にホウキにまたがって「飛べ」と命じる。すると、ふわりとその大きな体が空中に浮き上がった。やっぱりね、とベリンダは訳知り顔でうなずく。
「ほら。飛んでるじゃありませんか」
「うーん」
「覚えたてだから、たまたまちょっとうまくいかなかっただけでしょ」
「うーん……」
そろそろ出発しないと、昼食の時間までに王都に到着できなくなる。まだ首をひねり続けている王子をせかして、二人はホウキにまたがって出発した。




