女性の部屋の匂い
ここには幼かった頃、毎日のように遊びに来ていた。今見えているあの柔らかい胸に何度も甘えたことがあったのに。今の僕にはこの部屋に一人で入ることはできない。
と、その次の瞬間。山田さんの声が聞こえた。
「ねえ、そんなとこにぼんやり突っ立てないで入っていらっしゃいな」
ハッとした。山田さんは眠っていない。じっと横になったまま僕を見ていた。いつから気付いていたのだろう。
「クッキーあるよ。お茶も。こっち来て食べて行きなよ」
その子供扱い。知らずにやっているのか、それともわかっていて僕の気持ちをたしなめているのか。逡巡、躊躇、いや、お茶とクッキーをご馳走になるだけだ。と自分に言い聞かせて部屋に入った。本能には逆らえない。
5
「ねえヒデ君、学校どう? もう中三だね。来年は受験かぁ。あんなにちっちゃかったヒデ君は一体どこへ行っちゃったんだろうねえ。ホントあっと言う間だわぁ」
山田さんは僕の頭を優しく撫でながらしみじみ言った。やはり僕を誘った他意はないのか。いやあるわけないか……。
「ミルクティでいい? コーヒーはまだ早いかな」
「あ、はい。お構いなく」
そう言った途端に山田さんが噴出して笑った。
「何か、おかしいですか?」
「いやいや、ヒデ君も姉ちゃんが知らない間に随分と大人になったんだなあって。昔はよくここへ来て勝手にクッキーの缶々開けてニコニコしながら食べてたのにね。それが『お構いなく』だって? ああおかしい。あ、おかしいのは姉ちゃんの方か。あはははっ」
山田さんは僕の顔をまじまじと見ながら豪快に笑った。
「でもね、久しぶりに君がここへ来てくれて嬉しいよ。それで、何か姉ちゃんに用があったの?」
「あ、いや、えっと、あ、そだ。二階の永海さんが山田さんのお部屋を教えてほしいって言ってました」
「ああ、永海か。ふんふん。永海ね……」
なぜか山田さんは何度か頷きながら遠くを見つめている。
「あの、ここ、教えてあげたけどダメでした?」
「ああ、ううん。違うの。まあ、ヒデ君もかわいいけど、あの子もかわいいよね」
「そ、そうですね」
何気なく話を合わせるように生返事をする。
さっきまでのお笑い番組は競馬中継に変わっていた。小さなトラックを黒い馬が男に手綱を引かれてゆっくりと歩いていた。男はしゃんと背筋を伸ばし、いかにも堂々として見えたが、その場にふさわしくない背広とネクタイ姿で黒い帽子を被っている。馬は思ったよりも小さい。
――いや、そんなことより僕は部屋の中に充満する匂いが気になって仕方がない。
最後にここへ来たのはたぶん小学三年生の頃だ。壁に貼ってあるポスターも見覚えがある。どこだかわからないエメラルドグリーンの珊瑚礁の海に小舟が浮んでいた。
その青い海のポスターも、おもちゃみたいな小さな鏡台も、ジッパーの付いた簡易クローゼットも、歩く馬の映っている十四型の古いテレビも、十年前のあの頃から何にも変わっていない。でもこのいい匂いはあの頃にもきっとしていたはずなのに、こんな甘い匂いじゃなかった気がする。
いったい何の匂いだろうか。想像するに、化粧品だとか、石鹸だとか、洗濯物だとか、あるいは何か香水かもしれない。そういった良い匂いの物が入り混じった匂いだ。たぶんこれが女性の部屋の匂いに違いない。きっとそうだ。
「ね、この部屋、懐かしい?」
「え?」
「姉ちゃんの話、まともに聞かずにさっきからきょろきょろ見回してばかり」
そして山田さんは僕をじっと見て、きゅっと口角を上げたかと思ったらいきなり、「ね、ヒデ君はね、永海みたいな子、タイプなの?」と小声で聞いた。僕は驚いた。やはり山田さんは、今の僕がもうあの頃の幼かった僕ではないとわかっているのかもしれない。
「あ、いいえ、別に」
それは嘘ではない。確かに永海さんはかわいいけれど、恋愛感情と言うほどではない。
「そう。じゃあもう好きな子とか彼女とかいるの?」
「いえ」
「そこまでまだおマセさんじゃないか。ごめんね変なこと聞いて」
僕は首を振る。でももう中三なのに、マセていると言うことはないと思ったが、山田さんから見ればやはり子供のように思われているのか。
いったいどっちなんだ? 彼女の中にある僕のイメージはまだ幼稚園児のままなのだろうか。と言うことは、僕に対する警戒心はまったくない? そう思ったら、ちょっとだけ自尊心がチクリと痛んだ。
山田さんの座る斜め後ろのテレビからファンファーレが聞えていた。第38回 桜花賞の白抜き文字が浮んでいる。山田さんは僕のすぐ正面に正座している。たぶん五十センチも離れていない。
カシャンと音がしてゲートが開いた。同時に聞いたことのある男性アナウンサーの実況が流れる。山田さんはテレビ画面の方を振り返り見た。僕は伏し目がちに、ちらちらとその大きな胸を覗き見る。手を伸ばせば、あのやわらかくて大きくて、昔ぎゅっと抱きついて甘えた乳房に、そして一枚きりの部屋着からプクリと突き出たその先端にだって触ることが……できる。できる、できる、できる……。
ああ……。もうどうにかなりそうだ。
「あの、僕、僕……」
「どした?」
山田さんはテレビから目を離して正面を向き直った。でももう止まらなかった。思わずがばっと豊満な胸に抱きついた。ああ、やわらかい。どうしてこんなにやわらかいのだろう。
「あ、ちょっと! 何するの! こら!」
山田さんはそう言いつつも、やさしく僕の頭を撫でた。山田さんのやわらかい胸は石鹸の良い香りがする。人工的な香料の匂いじゃない。安心する。気がつけば僕は泣いていた。何もかもわからないことだらけだ。
山田さんは嫌がることもなく、やさしく僕の頭を撫で続けながら聞いた。
「ねえ、まだお母さんが恋しい?」
「ううん。違う」
「なら離れなさい。ヒデ君ももう大きくなったからね、こんなことしちゃいけないわ」
「ごめんなさい」
「ううん、姉ちゃんも悪かった。これからは気をつけるよ。わたしも産科の看護師だからね、そういった方面のことはよくわかっているつもりだけど、思春期の男の子に関してはわたしもまだまだだね。反省だわ。姉ちゃんのおっぱい見てちょっとムラムラしちゃった? 男の子だもんね」
僕はコクンと頷いた。
「でもね、頭ごなしにまだ早いとか、不謹慎だとかそんなこと姉ちゃんは言わないよ。十五才って言ったら体はもう立派に大人だからね。だからと言って本能のままじゃダメよ。心も立派な大人になってね。姉ちゃん、ヒデ君のことは大好きだよ。立派な紳士になったら、そうしたら考えてあげてもいいよ」
「その時まで待っていてくれますか?」
「もちろんだよ。でもきっとその頃にはわたしはもうおばあちゃんかもしれないけどね。でもヒデ君が大人になるの楽しみに待ってるわ」
実況放送が一際大きく響いていた。
「あ、あの、このことお母さんには」
「言うわけないじゃん。さ、もういい加減離れて」
ずっと甘えていたかった。温かさとか、やさしさとか、きっとこの世の中で一番良いものが僕を包み込んでいるような気がしていた。
と、その時だった。
「山田先輩! いますか? ちょっとお話があるんですけど」
宮崎さんだ。宮崎さんは廊下に立ち、薄いカーテン越しにこちらを見ている。僕は思わず顔を上げる。
「あ、ユキっち!」
山田さんと宮崎さんの視線がぶつかる。僕は慌てて立ち上がり、何事もなかったように振る舞うが、もう遅かった。
「あら、お取込み中? ごめんなさい」
「ちょ、ちょっと、ユキっち! 違うったら!」
山田さんは慌てて宮崎さんの後を追いかける。
(オヤマテスコー、フクナガヨーイチ桜花賞制覇です! しかしタドコロ騎手これは納得できません! 審議の様ですねー)
最悪だ! これは言い訳できない。一人残された僕は、もうこの世から今すぐ消えてしまいたい。――いや、消えよう。
午後の気だるい西日の射し込む部屋に競馬中継の耳障りな音声だけが流れていた。
続く