薄く透けた部屋着
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午後二時。あれから一時間が過ぎた。ユキさんはまだ何にも言って来ない。母も町会の寄り合いから戻らない。どうせまた皆でミーティングと称して喫茶店でおしゃべりでもしているのか、あるいは息抜きにパチンコにでも行っているのだろう。しかし今日ばかりはまだ帰って来てほしくはなかった。
僕は一人管理人室に座り、先ほどから壁の時計ばかり見ている。
何度も自分から彼女の部屋を訪ねようかと思った。立ち上がり、再び座り、を繰り返してばかり。なかなか決断できずにいた。
と、その時、トントントントン、と誰かの階段を降りる足音が聞こえた。
誰か来た! 僕は咄嗟に窓から離れ、こそこそ隠れるように様子を窺ったが、階段を下りて来ると言うことは二階の住人なのでユキさんではない。
現れたのは永海さんだった。彼女は今年の春に郷里の高校を出て、こちらに引っ越して来たばかりの新しい住人だ。永海と書いてながみと読む。下の名は確か一文字で栄だと言っていた。変わった名前なので憶えている。
年は十八才。僕より三つ上だが、童顔でよく日焼けしていて、笑うと白い歯が見える。故郷の学校では女子サッカーをやっていたらしい。その名残か髪形はサイドの耳は全部出して、後ろは刈上げにも近い超ショートヘア。背は僕よりも少し低い。中性的な雰囲気の、いやどちらかと言えば、まだ少年のように見える。
どこへ行っても中学生に見られて困ると本人は言っていた。特に職場が産科と言うこともあり、お腹の大きな母親たちからも子供扱いされてやりにくいと言っていたが、本人は決してそれが嫌なわけではなさそうだ。
初めて美芳館に来た時に、実際に年齢もそんなに離れていないこともあって、僕は他の女性よりも永海さんに親近感を覚えた。
確か国は島根県の離島だとか。方言がとてもきつくて、一体何を言っているのかわからなかった。しかし、そんなことには一切お構いなく、いつ会っても彼女はニコニコしている。純朴な性格と、その見た目の幼さから誰からも可愛がられているようだ。母も初めて来た日から、まるで娘のように可愛がっている。
その永海さんは階段を降りて、スリッパのまま、エントランスを横切り、まっすぐに管理人室の方へとやって来ようとしていた。僕は慌てて椅子に座り、気付かないふりをした。
すぐにカウンターの上の小窓をコツコツと叩く音が聞こえた。僕はわざとらしく振り向き、ガラガラッと小窓を開ける。
「あの、こんにちは、あ、おばさんいますか?」
永海さんはあどけない微笑みを浮かべ、少し照れ臭そうに言った。
僕は視線を少し下に向ける。彼女は上下野暮ったい紺色のジャージ姿だ。左胸に永海と名前が刺繍してあった。たぶん高校で着ていた体操服なのだろう。
その童顔と小柄な体の割に、胸だけが不釣り合いに際立っている。ジャージの上からでもその大きさがわかる。さすがに山田さんには敵わないけれど、ユキさんよりも大きいかもしれない。
彼女の目が僕の視線を追いかけている。不意にその顔から微笑みが消え、つぶらな瞳の奥に微かな猜疑がふっと浮かんだ。
それは今しがたまでのきらきらした目を濁らせる。僕は目を逸らし、焦りながら「いいえ、母は今いません」と答えると、「これ、田舎から送って来た魚です。召し上がってください」と干物のたくさん入った袋を差し出した。
僕が丁寧に干物のお礼を言うと彼女は突然こう聞いた。
「あの、山田典子さんのお部屋はどこですか?」
「え? 山田さん?」
「はい。わたし、三月から見習いで産科に入って、山田先輩にいろいろ指導していただいていて……」
「ああ、えっと、一階の八号室です。さっき見かけたから、たぶん今いますよ」
「ありがとう。後で行ってみます」
「山田さん、僕にはやさしいけど、仕事場ではすごく厳しそうですよね」
僕が冗談めかして言うと、彼女は瞬時にニヤリとバツの悪そうな笑顔を浮かべた。笑うと彼女は少年から途端に女の子に戻る。
その含み笑いの訳を何か言いたそうだったけれど、結局、言葉を飲み込んで、それ以上何も言わずに帰って行った。また話す機会もあるだろう。僕もそれ以上何も聞かない。
いや、そんなことよりも、未だにユキさんは僕を呼びに来ない。もしかしたら、ただからかっただけかもしれない。意を決して僕は、ユキさんの部屋を訪ねることにした。再び薄暗い廊下をひたひたと進む。
別に悪い事をするわけではないのに、どこか後ろめたい。
ふと見ると山田さんのいる八号室はやはり扉は開かれたままになっていた。前を通る時、見てはいけないと思いつつもどうしてもその誘惑には勝てずに、ちらりと中を覗いてしまった。
入口に吊られた白いレースのカーテンの裾が、奥の窓から入る風でふわりふわりとそよいでいた。
山田さんは横向きで足をくの字に曲げて、先ほどと同じ姿勢でこちらに大きな尻をむけたまま寝そべっている。下着姿ではないが、薄ピンク色のストレッチ素材がぴったりと大きな尻を包み込んでいる。その二つの大きな山はとてもやわらかそうで、僕はやっぱりそれに触りたい。
いけないことだ。頭ではわかっている。けれどもっと強いものが腹の底からむくむくと湧き起こる。この気持ちには抗えない。
テレビの音が小さく外に洩れている。男性の声と間髪入れずに笑い声がどっと沸き起こる。マイクの前に立つ男性二人の姿が十四型の丸い画面に小さく映し出されていた。漫才か何か、お笑い番組だろう。休日の昼下がりらしく思える。
わはははっ、と耳障りな効果音が流れる中、僕はその大きな尻に吸い寄せられるように、歩みを止めて向きを変え、入口のすぐ前に立ち、中の様子をこっそり覗き込んだ。
どうやら山田さんはテレビも消さずにうたた寝をしているようだ。夕べも仕事が遅かったのかもしれない。
そっとしておこうと思った。が、次の瞬間、こちらに尻を向けていた彼女は大きく仰向けに寝返りを打った。僕は一瞬凍りつく。でもどうやら目は閉じたままだ。
遮光カーテンすら閉めていない西向きの窓から射し込む陽光が、山田さんの薄く透けた部屋着を明るく照らす。陽の当る大きな胸の頂には着衣の上からでもはっきりとわかる二つの突起が見えた。
緩やかな心地よい風が僕の顔を撫でるように通り抜けて行った。相変わらず品の無い笑い声がテレビから洩れている。僕はじっと立ち尽くしたまま動けない。腹の奥底で、はぁはぁと息をしていた。今にも叫び出したい感覚だ。
それは生まれて初めて味わう強烈な性的興奮だった。顔がカーッと熱くなり、ジーンズの締め付けがきつくて、逆にそれが気持ち良かった。中に入りたい。あのやわらかい胸に抱きつきたい。時が止まったみたいだ。
けれど一歩が出ない。いや、出したら大変なことになる。わかっている。