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大人の事情

「あ、天宮です」

 茶色いワニスが塗られた板張りの扉。顔の高さぐらいの位置に菱形の擦りガラスが嵌っている。中の様子は見えないけれど、内側から光が洩れることで在、不在がわかる。

彼女が鈍い光を放つ真鍮のドアノブを回すと音もなく扉は開いた。中からぷんと土壁の匂いがする。塗ってまだ日が浅いのだとわかる。

「違う違う! 下の名前よ」

 ふいにユキさんは僕の方を振り向き、少しあきれ顔で言う。

その憂いを秘めた彼女の茶色い瞳に僕は一瞬吸い込まれそうになる。

「す、すみません。秀俊って言います」

「だから、あやまんなくていいって。ふぅん、それで山田さんがヒデ君って言ってたのね。わたしはユキよ。宮崎ユキ。よろしくね」

「あ、母からお名前は聞いています。こ、こちらこそよろしくお願いします」

「ほんとに君、まじめね」

「あ、いえ、じゃあ、僕はこれで。後は母が帰って来たら、母から詳しいことは……」

 僕はペコリと頭を下げて言った。

「ね、ヒデ君」

「はい」

「後でちょっと時間ある?」

「え? 何か」

「お願いがあるんだけどな。君、ステレオとか詳しいでしょ?」

「え? どうしてそれを?」

「おばさんから聞いたの。契約の時にね、ステレオ持って行ってもいいかって聞いたのよ。ほらここってけっこう壁薄そうじゃない?」

「あー」

「そしたらおばさんが夜中はダメだけど、昼間ならって。その時にうちの子も趣味がレコード鑑賞よって教えてくれたのよ。でもわたし機械音痴だからさ、その、ね?」

つまり組み立ててほしいらしい。時代はオーディオブーム到来。巨大な一体型ステレオから自由に組み合わせるセパレートのコンポタイプが流行り始めていた頃だ。開け放たれた扉の向こう、ユキさんの部屋の中をちらりと覗くと、白い犬と蓄音機の描かれたそれらしきダンボールが積み重ねてあった。しかしここへステレオを持ち込む人を僕は初めて見た。さすがベテラン看護師さんだ。布団袋一つで来たわけじゃなさそうだ。きっとお給料もたくさんもらっているに違いない。

けど山田さんも言った。どうしてそんな人がうちなんかに引っ越して来たんだろう。安全ってなんだ? 安全って……。

「じゃあ部屋片付けたらお願いね。後で呼びに行くわ」

「はい」

「あ、後一つだけ」

「これはおばさんにも伝えてあるんだけどね、わたし宛に電話が掛かってくるか、もしかしたらここへ直接訪ねてやって来る男の人がいるかもしれないけど」

「はい」

「もし来てもそんな人いませんって言って」

「はい。誰が来てもですか?」

「ええそう。わたしがここで住むことは誰にも知らせていないの」

「え? 田舎にも?」

「うん。わたしね、ちょっと事情があって田舎には連絡取れないんだ」

「どういうことなんですか?」

「大人の事情ってやつ? いろいろあるのよ。ヒデ君はそんなこと知らなくていいの」

「はあ……」

「心配してくれてるの? ありがと。やさしいね」

 僕はそれ以上何も言えなかった。言ってはいけない。そう思った。

 ああなるほど、これが山田さんが言った〝安全〟と言うやつか。そこは若い僕にも何となく理解できた。

「じゃ、お願いね。また後で」

 少しのもやもやと、後からまたユキさんの部屋に来られると言う大きな期待を抱きつつ、僕はその場を後にした。

 途中、山田さんの部屋の扉はやはり全開のままで、相変わらず大きな尻をこちらに向けてテレビを見ている。

 僕が小さな子供の頃なら間違いなく、そっと忍び込んであの大きな尻に後ろからカンチョーしていたに違いない。容易に想像できる。おそらく彼女は、驚いてぎゃっと悲鳴を上げるだろう。昔はそんな悪戯もよくやったものだ。僕は歩きながら思い出して、笑いを堪えるのに必死だった。

                                    続く


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