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ノーブラ

 そこまで何室かの前を通ったが、中には扉を開け放っている部屋もあった。

 エアコンなんてまだ普及していなかった時代、部屋の奥の窓と入口のドアを開けると、気持ちの良い風が通るのでこれから暑くなると開け放つ住人も多くなる。

 ただ扉を開け放しただけでは外から中が丸見えになるので入り口にカーテンを吊ってプライベートを保持しているのだが、外から風が吹くとカーテンがめくれ上がって中の様子が丸見えとなる。

 僕は今までその光景を見ても、中を覗きたいとも思わなかったし、覗いてはいけないとも思わなかった。つまり何にも感じなかったわけだ。その時もたまたま開けっ放しの部屋の前を僕と宮崎さんは通り過ぎようとした。

 と、その時、宮崎さんは僕のすぐ背後で「あら?」と、小さく驚いたような声を出した。

 白いレースのカーテン越しに、大きくて丸い尻が僕の目に飛び込んで来た。部屋の住人は、こちらに尻を向けてラフな部屋着姿で寝そべってテレビを見ている。

 あれは山田さんだ。その時、山田さんはこちらの気配に気付いたようでむっくり起き上がってバツの悪そうな苦笑いを浮かべて見せた。年は三十才手前で、背はそんなに高くなく、すこしぽっちゃりした体型で決して美人ではないが、やさしそうな姉御タイプだ。

 山田さんは僕が幼稚園に通っていた頃に美芳館にやって来た。以来、もう十年以上ここに住んでいる。自他共に認める子供好きで、僕もずいぶんと可愛がってもらった。そんなとてもやさしいお姉ちゃんだったが、母曰く、まるで彼女はここの牢名主みたい、なのだそうだ。

「ああ、彼女は山田典子さんで……」

 僕が言いかけた時、宮崎さんは間髪入れずに「よく知ってる。科は違うけどね。同じ病院の先輩」と言った。

「あらまあ、ユキっち。あんたここに引っ越して来たの?」

こちらにゆっくりと近付きながら山田さんは少し驚いたように言った。さすが牢名主。職場でも睨みを利かせているに違いない。

「はいお世話になります」

「何でまた? 脳外の達者な高看のあんたならもっといいとこに……あ、ヒデ君、ここが悪いってわけじゃないのよ」

「あはは、いや、ちょっとね、ありまして……」

「何? ちょっとって? え? あんた、また何かやらかした?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。ここなら安全だって聞いたので」

「安全ねえ。まあ、安全かな」

 山田さんは僕の顔をちらりと見て言った。安全とは、厳しい母のことだろうか。

「でもあんた、いい加減にしなさいよ。そのうちエライ目に合うわよ」

 二人の会話に入れない。僕がきょとんとしていると山田さんが言う。

「ヒデ君もきっと襲われるわよ」

「先輩、やめてくださいよ。こんなかわいい子にそんなこと言うの」 

「それよ。だからよ、かわいいからよ」

 何だかよくわからないが悪い気はしなかった。と、部屋の奥の開け放たれた窓からふわりと心地良い風が吹き抜けて行った。山田さんの薄い部屋着もふんわりとそよいでいる。

 その時僕は見てしまった。山田さんの大きなおっぱいの、薄いコットンの部屋着越しに、二つの小さい葡萄みたいなふくらみを。思わず目を逸らす。きっと宮崎さんにも見えていたはずだが、彼女は何も言わない。そして僕たちはもうそれ以上は何も話さず、その場を後にした。


 ユキさんの部屋となる十五号室は、突き当たりの二つ手前の部屋だった。

「あら、十四号室がないわ」

 一つ手前の扉の上に付けられた真鍮製の番号プレートを見ながらユキさんは言う。

「ええ、昔からそうなので僕もよく知らないんです。ここには四と九の付く部屋はありません」

「忌み数か。よくあるわ。縁起担ぎね。うちの病院でもそういうのけっこうあるのよ。北向きにベッドを並べない、とかね、お年寄りは気にする人が多いの」

「すみません。変ですよね」

「あやまらなくていいって。気にしてないわ」

「はい。ここです。荷物はもう中に入れてあるそうです」

 部屋の前に着いて、そう言って僕は彼女に鍵を渡した。

「ありがとう。ねえ、君、名前は?」

 彼女は真鍮製の古い鍵をカチャリと差し込んでゆっくりと回しながら聞いた。

あっさり手応えもなく鍵は回る。僕はその様子をじっと見ていた。いや、本当は彼女の鍵を回すほっそりとした指を見ていた。さっきの足の時と同じだ。美しい。鍵を持つその指の光沢のあるピンクの爪。甲の透き通る白に滲んだ青の血管。

――触れたい……。ああそうか僕は、それに触りたかったことにようやく気付く。

「な・ま・え、 よ」

 インコがさえずるみたいな、その口調には少しの苛立ちが感じられた。彼女は気が短いのか。それとも僕がじれったいのか。

                                       続く


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