宮崎ユキ
休日の昼下がり、母は町内会の行事で出掛けていた。今日は学習塾も休みだったので、僕は一人、管理人室でテレビを見ながら母が作っていったおにぎりを頬張っていた。
「今日の午後に宮崎さんって言う新しい人が来ると思うけど、もしわたしがそれまでに帰って来られなかったらお部屋に案内してあげて。一階の十五号室よ。荷物はもう部屋に運び込んであるからね。それと簡単でかまわないから館内の説明もお願いね」
今朝、母が出て行き掛けにそう言って僕に十五号室の札の付いた真鍮製の鍵を手渡した。
休みの日なのに面倒臭い。そう思う僕の顔色を察したのか、にやっと微笑んでこう言った。
「いつもの病院の看護師さんよ。でもびっくりするぐらい美人よ。母さん初めて会った時にジェニファーオニールかと思っちゃった」
「誰それ?」
「ハリウッド女優だよ」
「ふーん」
母は、異性に興味を持ち始めた男子の気持ちをよく知っていた。職業柄、伊達に長く若者の相手をしていない。この一言で気を良くする僕も僕だが。
「ごめんくださーい、すみませーん」
再び声が聞こえた。きっとジェニファーオニールに違いない。
僕は、慌てて手に持ったおにぎりを置き、指をしゃぶりながら左手で管理人室の扉を勢い良く開けた。
「はい」
「ああ、こんにちは」
「こ、こんにちは」
母さんの言った通り、そこには僕が今まで見たこともない美人のお姉さんが微笑みながら立っていた。しかもいい匂いがする。これがジェニファーオニールか……。
身長は僕と同じぐらい。百六十五センチぐらいだろうか。女性にしては高い方だ。
白いブラウスにブルージーンズを履いている。膝から上は細身でぴったりとフィットしていた。ブラウスを詰め込んだウエストもきゅっと締まっている。
胸は……ちらりと見るのがやっとだったが、かなり大きかった。そこに彼女が立っているだけで、モノトーン系の味気ないエントランスが華やいで見えるから不思議だ。僕は最初に彼女を見た時、昔うちにあったフランス人形を思い出した。
フランス人形! そうだ。後々からよく思い出してみると、彼女は他の女性とはずいぶん違っていた。何がどう違うって、母からは看護師さんだと聞いていたが、まずその髪だ。肩口まで垂れ下った髪は毛先が外側に跳ね上がり、その色は栗色に輝いている。濁りのない色だ。
そして最も印象的なのは眉上でくるんと巻いた前髪。ここに住む看護師や看護学生はおかっぱだったりお下げだったり、でもみんな決まって黒髪だった。看護師は黒髪、そんな概念がみごとに払拭された。母がハリウッド女優だと言うのも納得だ。僕もハーフか何かかと思ったが、後から、母に聞いたところによると、実は出身は大分県で純粋な日本人だと言う。
その時の僕はジェニファーオニールなんて知らなかったけれど、今なら母がそう言うのもわかる。後にリバイバル上映で観た映画、『おもいでの夏』の透明感のあるその雰囲気は彼女そっくりだった。
つまり僕は、一瞬で彼女の虜になってしまった。知識では得ていた〝一目惚れ〟と言う言葉が、突然実感となって僕の胸を貫いた。
「ねえ、あの」
僕はしばらく固まったままで動けないでいた。
「あの、君」
「あ、はい」
「君、おばさんの息子さん?」
「え、あ、はい」
「へぇ。なんだ、けっこう大きいんだね」
「え?」
「おばさんがね、一人だけ男の子がいるけどうちの息子だから気にしないでって言ってたんだけど、子供じゃないね。立派な男子だよ」
「ごめんなさい」
「あやまらなくていいわ。気にしないで」
「あの、母から聞いています。宮崎さんですね?」
「ええそう。おばさんは?」
「今は留守です。母から部屋に案内するように言われています」
「そう。じゃあお願いね」
僕は頷いて宮崎さんのすぐ前を横切る。何とも言えない柑橘系の甘酸っぱい香りがふわっと鼻を刺激した。これ以後この香りは宮崎さんの香りだと僕の脳は認識するようになった。
「靴を脱いで上がるのよね?」
聞きながら彼女はすでに艶のある黒いパンプスを脱いで手に持っている。
僕は何気なく彼女の足元に目を遣った。ジーンズの裾からはみ出した彼女の素足は窓から射し込む午後の陽光を受けて白く輝いていた。小さな女性の足だ。形良くほっそり整った指、かわいい爪。きれい……。
ただの足なのに、突然胸の奥から湧き起こる強い衝動を感じていた。僕は一体何をどうしたいのか?
「どうかした?」
「ええ。あ、ス、スリッパないですね」
「うん。履かなくていいならそのまま行くわ」
「別に構いませんが、母に見つかると叱られます」
来客用のスリッパを指差して言う。
「おばさん厳しいのね」
「とっても」
すると彼女は口をへの字に曲げて困った顔をする。僕は驚いた。この人は、どんな表情しても魅力的に見える。それまで〝美しい女性〟と言う言葉は知っていた。けれど、その存在を間近に感じたのは初めてだった。十五才の僕は、ずいぶんと困ってしまった。
そして上がり框を跨いで、長い廊下を宮崎さんは僕の後ろをぴったりとくっ付いて歩いた。
廊下の突き当たり近くに目指す十五号室はあった。黙って歩く。薄暗い廊下にパタパタとスリッパの音だけが響いていた。
続く