美芳館へようこそ
大好きなヒデ君へ
まずわたしはあなたに謝らなければなりません。本当にごめんなさい。
宮崎ユキさんのことです。彼女が亡くなって、もう四十年以上が経ちましたが、きっとあなたの心にはまだ若々しい彼女の思い出がたくさん溢れていることでしょうね。
わたしは四十年もあなたを偽って生きて来ました。この罪をあなたに告白しなければ、わたしはこのまま天国に行くこともままならないでしょう。だから心して聞いてください。
十五才のあなたは、ユキさんに本当に恋をしていました。彼女が亡くなったことを知った時、あなたはどうしようもない絶望に飲み込まれていましたね。
――あれは、全部、わたしのせいなのです。
あの日。小田が死んだあの日です。
わたしは混雑したホームで、小田のすぐ後ろにいる宮崎さんを見つけました。小田は彼女には気付かない様子でしたが、わたしは彼女がおそらくこれから何をしようとしているのか予想は付きました。
そして宮崎さんが他の看護師たち同様に小田から脅迫されていることも、おそらく近日中に小田が彼女を連れ去ろうとしていたことも予想していましたので、わたしは小田をずっと監視していました。
その時、快速列車がホームに滑り込んで来て、彼女は小田の背中に手を伸ばした。プラットホームのかなり後方だったので、列車のスピードはほとんど落ちてはいなかった。
わたしはその瞬間、彼女と小田の間に割って入り、この手で小田の背中を突き飛ばしました。若い宮崎さんを守るにはこれしかないと思いました。あまりの人ごみでわたしが突き飛ばしたことなどすぐにはわからなかった。よろよろと線路の方へ飛び出した小田は、すぐに入ってきた列車の先頭に跳ね飛ばされて線路に落ちました。その瞬間、宮崎さんは驚いたようにわたしを見ました。彼女の大きく見開いたあの目は今でも忘れられません。そして現場は一瞬で修羅場と化しました。その人々のパニックの最中、わたしは怖くなって一目散にその場を離れてしまいました。
その後のことはあなたもご存知だと思います。宮崎さんはすべて自分がやったことだと遺書に書き残してフェリーから海にその身を投げました。つまりわたしの罪を被ったのです。
わたしはこの世に死んで当然の人間などいない。それまではそう思っていました。しかし彼女と同じで、わたしも小田だけはどうしても許せなかった。
そう思っているのは決してわたしだけではなかったはずです。わたしを始めとして、宮崎さんや若い看護師の多くが小田の性欲の犠牲となっていました。
小田は自分の立場をいいことに、院内の何人もの女性に声を掛け、普通は手に入らない医薬品を使って、特に十代の若い子にレイプまがいの行為を繰り返し行っていたのです。そして卑劣にも薬で動けなくなった女性の恥ずかしい姿を写真に撮り、それをネタにさらなる関係を強要しました。
あなたは驚かれると思いますが、当時、あなたのよく知っていた永海さんもその犠牲者の一人です。彼女は、まだたった十八才でしたが、小田の毒牙にかけられて妊娠までしました。あの子は悩みに悩んだ挙句、わたしのところに相談に来たのです。もちろんわたしは堕胎させました。そして彼女は身も心もズタズタになって田舎に帰って行きました。
おそらく宮崎さんも何らかの脅迫を受けていたはずです。たとえわたしが小田から逃げたとしても、あいつがここにいる限り、きっとほかの誰かが犠牲になる。そう思ったら、このまま小田を野放しにしておくことはできませんでした。
あの後、わたしはすぐに自首するつもりだった。でもそれはできなかった。そんなことをすれば、命まで賭してわたしやほかの女性を守ろうとした宮崎さんの行為が無駄になってしまう。その上に、それまで小田の犠牲となった女性たちもすべてが公になる。一生懸命忘れようと努力している彼女たちに、あんな恥辱をもう二度と味あわせたくなかった。
十八才の永海さんに、どのようにその行為に及んでどのような凌辱を受けたか、などと問えるわけはないでしょう? もうみんな忘れたいのです。この件はもうこれで終わりにしたかった。
でもわたしはあれから、何度このことを警察に話そうと思ったかしれません。どんな悪人でも、その命を奪ったことには変わりないのですから。わたしの犯した罪は決して消えないでしょう。
いくら忘れようとしても、あのホームでわたしを見た宮崎さんの目がわたしを苦しめました。そのたびにわたしはあなたの部屋を訪ねて、彼女の遺影に手を合わせました。どうか許してくださいと心からわびていたのです。
わたしは死ぬまで、純粋だったあなたや、わたしを信頼してくださる大勢の人々をずっと欺かなければならなかった。毎日がまるで針のムシロの上にいるようでした。
わたしの体に癌が見つかった時、ああ、ようやく許してもらえるのだと内心どれだけほっとしたことでしょう。だからわたしはあなたの勧めを拒んで、抗癌剤もホルモン治療も放射線治療も受けなかった。静かにこのまま逝かせてほしかったのです。
ヒデ君。最後にそう呼ばせてください。あなたは嫌がるでしょうけれど、わたしの中ではずっとヒデ君なのです。かわいかったヒデ君。あの時の面影を胸にわたしは旅立って行きます。こんなおばあさんをお嫁さんにしてくれたヒデ君には感謝してもし切れません。ありがとう。
でももし、次にヒデ君が生まれ変わったら、わたしではなく、ユキさんと結ばれることを祈ります。
さようなら 典子
後頭部を一発殴られたような気がした。なぜ今まで気づかなかったのだろう。今更ながら自分の鈍感さにあきれ果てていた。
その後から、涙が止まらなくなった。僕は手紙を握りしめて泣いた。二人の女性の辛かった人生に涙した。もっとやさしくすればよかった。もっと愛すればよかった。でももうできない。僕はたった一人ここに残されてしまった。通夜の夜にも、告別式にも涙は見せなかったのに、今になって涙が止まらない。
※ ※
僕は今でもしょっちゅう夢を見る。
ソメイヨシノが満開の前栽を抜けて、硝子格子の扉を開けると、カランカランと乾いたベルの音がする。
「ただいま!」と声を掛けると、管理人室の小窓をガラッと開けて母さんが「おかえり!」と元気に答える。右手の階段をサッカーで鍛えた軽快なフットワークでスタスタと降りて来るのは永海さんだ。永海さんは僕の顔を見てにっこり微笑む。僕は軽く会釈を交わし、上がり框を跨いで薄暗い廊下を奥に向かった。
左右にずらりと並んだ部屋。薄暗いけれど、よくワックスの行き届いた廊下を静かに歩く。扉も閉めずに入口のカーテンが風にそよいでいる部屋の主は山田さんだ。
ちらりと覗くと、レースカーテンの向こうにこちらに大きな尻を向けて寝そべっている山田さんの姿が見えた。部屋の中からは山田さんが趣味でしている競馬の実況中継が聞こえている。
僕が部屋の中に向かって「ただいま!」と声を掛けると、むっくり起き上がり僕の方をゆっくり見た。相変わらずスケスケの部屋着で、少し眠そうな顔。目のやり場に困る大きなバスト。そして「ヒデ君。今? おかえり」とやさしく答える。
山田さんの部屋を通り過ぎると、廊下の奥の方からモニク・アースのピアノのやさしい音色が小さく聞こえ出した。
そして十五号室。
ゆっくりと真鍮製のドアノブを回して、部屋に入る。
「おかえりなさい」
ユキさんがにっこりと微笑んで僕を迎えてくれる。
僕もユキさんに微笑を返す。そして少しだけ彼女の澄んだ茶色の瞳を見つめる。でも僕は、ユキさんにくるりと背を向け、十五号室を後にした。
そして、ドビュッシーではなく、競馬の実況が小さく聞こえる部屋を目指した。
僕が本当に戻るべき場所へと。
――ここは美芳館。女ばかりの住む館。永遠に変わらない。僕の家。
美芳館へようこそ 完
長らくお付き合いくださいまして感謝いたします。