プロポーズ
当初は美芳館に住む看護師やその友人たちも、たまに僕の部屋を訪れて、ユキさんの写真に花をたむけて行くこともあったが、さすがに十年経ち、徐々に人々の話題にその名前が挙がることは少なくなった。
でも山田さんだけは、あれからずっと美芳館を出て行くこともなく、もちろん独身で、そして相変わらず僕の部屋を訪れた。その度にユキさんの写真に手を合わせたし、新しい花も買って来てくれた。写真に向かって手を合わせる山田さんのその真剣な態度を見ていて、二人とも小田の犠牲者と言うだけに留まらない、何か深い因縁のようなものを僕は感じていた。
僕もそんな山田さんのことが嫌いではない。むしろ好意を持ち続けていた。やがてどんどん月日が経つ内に、僕の山田さんに対する思いは以前とは違う意味での好意に変わって行った。
「大きくなったらのりねえちゃんと結婚するんだ」と、僕は三つ四つの記憶も定かでない頃に、よく母や周りの人々に公言していたらしい。無邪気な男の子のその発言は周りの人々を大いに楽しませた。
僕が大学生になってからと言うもの、山田さんとの距離はさらに縮まった。仲の良い年の離れた姉と弟のようだと皆が噂していたが、まさかそれが恋愛関係になるなどとは誰も想像していなかった。
僕は思い切って山田さんにプロポーズした。その時山田さんはすでに三十九才。もうすぐ四十を迎える。十五才も離れているのだから、僕の山田さんに対するこの思いは、年老いた母や親戚たちを驚かせた。
もちろんはっきりとは言われなかったが、皆それとなく反対した。はっきり言わないのは、誰もが山田さんの人としての素晴らしさを認めているからだ。しかし一番困惑したのは、誰でもない当の山田さん本人だった。
山田さんに対してずいぶんと失礼で傲慢な考え方かもしれないけれど、僕の心の中にいるユキさんは、たぶん、僕が生涯掛けて愛する相手が山田さんなら許してくれるような気がしていた。そしておそらく僕のユキさんへの思いをわかった上で承知してくれるのは彼女以外にはいないと思っていた。
――姉ちゃん、ヒデ君のことは大好きだよ。そして立派な紳士になったら、そうしたら考えてあげてもいいよ。
これは山田さんが十五才の僕に言った言葉だ。あの時僕は思い余って山田さんの胸に抱きついた。その僕をやさしく諭してくれた言葉だった。僕はあれからこの言葉を忘れることなくずっと胸にしまっていた。それを山田さんに言うとやっぱり彼女も覚えていてくれた。
「わかったわ。約束したからには守らなければいけないわね。それにヒデ君とわたしが幸せにならないと宮崎さんが悲しむものね」
そう言って山田さんはようやく僕の申し出を受け入れてくれた。僕にとって山田さんは人生で二人目の女性であり、妻となった。ぎゅっと抱きしめても、もう十五才の時のように「離れなさい」と怒られることはなかったけれど、残念ながら子供は授からなかった。こればかりは神様の意思なのでどうしようもない。
典子の手紙 エピローグに代えて
典子が亡くなって半年。僕は窓際のソファーに腰を下ろし、一人孤独に、天国の典子から届いた手紙を読んでいる。朝の明るい陽射しが九階の部屋の窓から室内に射し込んでいた。
大好きなヒデ君へ
まずわたしはあなたに謝らなければなりません。本当にごめんなさい……
――ヒデ君か……。懐かしい。
僕は一度手紙から目を離し、東に向いた窓の方を見た。
九階の部屋の窓の向こうには、遠く緑に霞む山とその上にはただ青い空が広がっていた。
あれから三十年以上の月日が流れ、僕は五十七才になる。
女傑だった母も十年前に他界し、美芳館は老朽化のため、惜しまれつつも、残念ながら取り壊しとなった。その広大な跡地には、九階建てのマンション「メゾン美芳」が建てられた。
僕は有り難いことに家を追われることもなく、階数は変われども、こうして同じところで住んでいる。
妻の典子は七十二年の生涯を全力で生き抜いた。職場では三千人以上もの新しい命を取り上げ、家では年齢こそ離れているものの、ずいぶんと僕に尽くしてくれた。
本当に良い妻だったと思う。彼女と結婚できたことを大変誇りに思っている。元気だったころの妻の顔を思い出しながら僕は再び便箋に視線を落とした。
続く