主のいない部屋
事件から半月が過ぎた八月半ばの朝のこと。
「ヒデ、このお盆休みは塾お休みだろ?」
朝食を食べていた時に母が僕に言った。
「ああそうだけど」
「忙しいとこ悪いんだけどさ、受験勉強の合間にでもちょっと手伝ってほしいんだよ」
「何?」
「十五号室さ。遺品整理しようと思ってね。いつまでもあのままにしておくわけにもいかないから。それにお金も前もって頂いているし、警察の方ももう整理して構わないって言ってるからね」
「ねえ母さん。お願いがあるんだけど」
「何だい?」
「宮崎さんの持ち物を整理した後、僕、あの部屋に引っ越してもいいかな? 彼女が確かに生きていたって言う記録は、あの部屋だけだと思うんだ」
「どういうこと?」
「うん、僕の使わない服やお化粧品とかはすべて処分してもいいけど、ステレオとか彼女の面影の残る物はそのままにしておきたいんだ。彼女の写真を飾って、お花も供えたいと思う。だからあの部屋を僕に貸してほしいんだよ。今は無理だけど、きっと家賃も払うからさ」
「わかった。おまえの好きにするがいいさ。あんたほんとに彼女のこと、好きだったんだね」
「ありがとう」
「いや。そう言えば、彼女から母さん宛の手紙にね、ステレオとレコードやなんかはヒデ君にあげてって書いてあったよ。母さん忘れてた」
「今、ちょっと部屋、見て来ていい?」
「ああいいよ、見ておいで」
そう言って母は僕に真鍮の合鍵を手渡した。
薄暗い廊下をゆっくり十五号室に向かう。鍵を開ける。扉を開く。窓から明るい陽光が差し込んでいた。ユキさんのいつもつけていた香水の匂いがほのかに漂っている。でもユキさんはここにはいない。空っぽの部屋は主の帰りを待っているようだ。
僕は壁のポスターをじっと眺めた。
「?ひさずみ高原」
「あはは、くじゅうよ、久住高原」
「きれいなところですね」
「ええ、とても良いところよ。あたしの生まれ育った故郷」
――帰りたかったんだ。
ここにはユキさんの欠片がたくさんある。確かに彼女はここで生きていた。僕は決して忘れない。
アンプの電源を入れて、カセットを再生する。
あの夜二人で聞いた旋律がスピーカーから流れ出した。『夢』か。すべては夢だったのかもしれない。
僕はベッドサイドに座り、東に向いた窓をぼんやりと眺めた。空が青かった。青か……。とその時。
「ねえ、ヒデ君」
振り向くと、山田さんが立っていた。
「君、ここに住むって本当?」
「ええ。どうしてそれを?」
「今おばさんから聞いたのよ。おばさんね、そう言いながら泣いてた」
「そうなんですか。僕は大丈夫ですよ。ただここには彼女の思い出がいっぱいあります。僕はこの窓辺にユキさんの写真を飾ろうと思います。そしてお花をあげて……」
突然、ほんとに突然に込み上げて来る嗚咽で、僕はその場に泣き崩れてしまった。山田さんが僕の背中を無言でやさしく抱きしめた。山田さんも泣いていた。主のいない部屋は何も言わず、ただ二人をじっと見守っていた。
⒔
それから十年が経ち、僕は二十五才になった。
大学も無事卒業してそれなりの企業に就職することもできた。でも依然としてユキさんの行方はわからなかった。そして僕は未だに十五号室に住んでいる。
いつのまにか美芳館の十五号室、つまり僕の部屋は、宮崎ユキメモリアルホールとして病院の看護師の間では有名になっていた。十年経っても院内や仲間うちで彼女の名前を知らない者はいなかった。確かにユキさんのやったことは決して許されるようなことではない。けれど、あの一件以来、院内で働く女性たちの立場は大幅に向上したと山田さんは言う。
それまでは当たり前にあった、ドクターを含めた男性職員のセクハラ行為や不倫もほとんどなくなった。それもユキさんの功績だと彼女は言う。そう考えればユキさんはその身を呈して院内の秩序を守ることに一役買ったと言うことだろう。
僕はと言えば、あれから何人かの女性に言い寄られたり、恋愛の真似事のようなこともしたりした。しかしあの手紙に書いてあった通り、ユキさんは僕の心の中に住み続けていた。ずっと一人の人を思うことは悪いことではないのだろう。しかし母はそんな僕を心配していた。そろそろ心にけじめを付けなければならない。そんなふうに思い始めた頃だ。
続く