彼女の心そのもの
これはさっきまで読んでいた手紙の最後の部分なのだろう。これであの手紙が完成する。あまりにとんでもない出来事がいっぺんにやって来た。僕の脳が許容を超える。悲しいのか苦しいのかさえわからない。未だに受け入れ難い。僕は、信じられない。
「あの、ヒデ君、申し訳ないんだが……」
「ヒデ!」
母が僕を呼ぶ。
「ヒデ、刑事さんがおまえに頼みがあるってよ」
「突然のことで驚いたとは思いますが」
僕はゆっくり二人の方を見た。
「君の持っている物を……」
すぐにあの手紙であることがわかった。
「大変申し訳ないんだが、我々に見せていただくことはできますか? 君個人のプライベートなことではありますが、重要な証拠となりますのでね、必ずお返しします。お願いできませんか」
「……あの少し、少しでいいので考える時間をいただけませんか?」
「わかりました。では先に宮崎さんのお部屋を見せていただいてよろしいでしょうか」
「ええ、はい。こちらです」
母に案内されて二人の男は十五号室に向かった。その男たちの後姿を見送った時、今まで経験したことのない強い感情が、僕の腹の底辺りから忽然と湧き起こった。次の瞬間、僕は廊下の入口から男たちに向かって大声で叫んでいた。
「ユキさんの部屋を荒らすな!」
驚いて振り返る二人の男と母。その顔はすっかり困惑している。
僕とユキさんの大事な思い出のいっぱい詰まった部屋を土足で踏み荒らされるような気がした。
「お願いです。どうかそのままに、そのままに……」
これは怒りなのか? 悲しみなのか?
「ヒデ、わたしが見ているから。心配しなくていいよ」
「ヒデ君、大丈夫、荒らしたりはしないよ」
三人は口々に僕を慰める。母の声がとてもやさしかった。
僕は頷き、一人、無念さと悔恨の情を胸に抱きながら、二階の自室に戻り、さっきまで座っていた椅子に力なく腰を下ろした。
僕はなぜ自分を抑え切れなかったのだろう。一体何が僕を突き動かしたのかわからなかった。もしかしたらさっきの衝動は、あのユキさんが流し台の前で義父に感じた衝動と同じだったのではないか? だとすればそれは〝殺意〟かもしれない。
室内はむっとする空気が充満していた。男の汗のにおいがする。自分のにおいなのに、初めてそう感じた。僕もあの義父や小田と同じ性だと今更ながら思った。
再び僕は、置いてあった読み掛けの手紙を手に取った。そして目を閉じ、この手紙を一生懸命書いているユキさんの姿を想像した。
彼女はどこかの喫茶店でテーブルに向かい、青いインクのペンを走らせている。僕はそのテーブルの向かいの席にゆっくり腰を下ろした。
僕がいることも気付かず、彼女は紙に向かい、一心にペンを動かしている。
ブラウンの髪、白い手、ペンを持つ細い指、きりりとした真剣な表情。僕はただじっとその様子を見ていた。
するとどうだろう。突然彼女は一枚ずつ服を脱ぎ始めたではないか。
これはもちろん現実ではない。僕の想像なのだ。けれどそれはあまりにリアルに僕の目の前に現れた。白い肌。美しい曲線美。やわらかそうな二つの乳房……。いつのまにかユキさんは裸で手紙を書いていた。
ハッとした。結局僕もあの二人と変わらない。同じようにユキさんの体が好きだった。だから下着も盗んだし、トイレも覗き見た。あげく頭の中で何度も犯した。こんな状況なのに、僕も同じだと思った。けだものだ。でも今は心から恥じていた。彼女の人格を無視していたのだと。
僕はしばらく目を閉じたまま考えた。この手に持った物は、手紙ではなく、心情を吐露した手記ではないか? そうだこれは彼女の心そのものではないか。僕宛になってはいるが、本当はそうじゃない。
彼女は解放されたかったのだ。忌まわしい過去の記憶から。知ってもらいたいのだ。誰でもいいから、自分の不遇さを。これを白日の下に曝すことで、彼女の魂が救われると言うのなら、それもいいかもしれない。
その時、テーブルに座ったユキさんは元通り服を着ていた。もう裸じゃない。
――ユキさん……。
それでいいのかい? ユキさん?
彼女は怒っていない。むしろやさしく微笑んでいるように思えた。
僕は目を開き、もう一度初めから手紙を読み始める。
――読み終わったら、きっとあたしは、君の心にずっと居られると思います。
すぐにこの文章で止まった。涙が一滴、溢れた。どれほど淋しかったのだろう。もし十五才のユキさんと出会っていたなら、そして友達であったなら、どんなことがあっても僕は、きっと彼女を守ったはずだ。
僕はユキさんの手紙を警察に託すことにした。
それは自白の有力な証拠となったが、被疑者不在と言うことでこの一件は終焉を迎えた。ユキさんがフェリーから海に転落したところを多数の捜査員が目撃しており、その後、十日間に渡り大規模な捜索活動が行われたが、結局ユキさんの遺体は見つからなかった。
続く