消息不明
小田は自殺ではなかった。この事実を知るまで、この世の中、死んで当然の人間などは決していないと思っていた。けれど僕の心に湧き起こる、このやり場のない怒りは何だろうか。僕に何をどうせよと言うのだろう。
「ヒデ! ちょっと降りて来て。今すぐ!」
その時、階下で僕を呼ぶ声がした。酷く慌てている様子だ。
僕は一旦手紙を置き、急いで階下へ降りると、エントランスに男が二人立っていた。一人は若く、おそらく二十代、もう一人はたぶん母ぐらいの年かもしれない。どちらもどことなく訝しい雰囲気がある。
「ああ、君がヒデ君か。なるほど」
若い方の男が言った。なぜ僕の呼び名を知っているのだろうか? 馴れ馴れしい。嫌な感じだ。
「あなた方は?」
「わたしは大分海上保安部の者です」
若い方の男が言った。
「海上保安部? そちらは?」
「わたしは桃野木署からね」
初老の男は、片手で旭日章とその下に顔写真の入った身分証を提示しながら言った。
「警察?」
「今お母さんにお話伺ってたとこなんやが、念のため君にも見てもらおうかの」
若い男は言葉に少し訛りがある。その男が袋から出して見せた物は、見覚えのある水色のハンドバッグだった。
「あ、それは」
「知っとるとね?」
「ユキさん、いえ、宮崎さんのハンドバッグです。宮崎さん、何かあったのですか?」
「行方不明、いや、消息不明か」
「消息不明?」
「ええ。別府行きのフェリーの甲板から海に落ちたんですよ。しかも我々の見ている目の前でね」
表情一つ変えることなく、年輩の男が言う。僕は耳を疑った。と同時にあの手紙の最後の言葉〝時間が来ました〟が僕の心臓を射抜く。
――フェリーから、海に落ちた……。
茫然とする。言葉にしようとしたが声にならない。
「え? 海に落ちた 」
先に大きな声を出したのは母だった。
「ええ、詳しくは言えませんが、彼女にはある容疑が掛けられとりました。彼女が南港からフェリーに乗ったと言う情報を掴んだ我々は、寄港地である神戸に先回りして彼女を追ってフェリーに乗り込んだ」
「ちょっとそれ、あなた方が、ユキさんを追い詰めたんじゃないですか?」
「いやいや、まあまあ落ち着いて。君は人聞きの悪い事を言うね」
「だってそうでしょう!」
「違います。我々が彼女に接触する前に、彼女は飛び込んだんだ。尾行する署員に気付くこともなく。目の前でね」
「どうしてだ! なぜ止めてくれなかったんですか!」
僕は思わず大声を出してしまった。母が目を丸くして驚いた。
「それは我々も反省している。でも駆け寄ろうとした時にはすでに遅かったんだ」
「そんな、遅かったって」
「それにね、まだ確実には言い切れないけれど、どうも彼女は最初からそうするつもりで船に乗ったようです」
「どうしてわかるのですか?」
「バッグから遺書らしきものが見つかりました」
「遺書?」
「ええ。ヒデ君へ、つまり君宛と言うことだね」
そう言って若い方の男がバッグから一枚の便箋を取り出して僕に見せた。ああそれで僕を見るなり「君がヒデ君か」と言ったのか。
その便箋は例の手紙のものと同じ便箋だった。青いインクも……。
――ヒデ君へ
よく聞いて下さい。君がこれを読んでいると言うことは、もうあたしはいないと言うことです。小田をこの手で殺めてしまった以上、あたしにはもうこうする他はありません。
あたしは、あの流し台の前で義父ではなく、自分の胸を貫くべきでした。本当はそうするつもりだった。でもできなかった。頭ではなく包丁を握りしめた手が一瞬の判断を下してしまった。もしかしたら心に棲む黒い蛇はあの瞬間に生まれたのかも知れません。
蛇はあたしに命令しました。生きろ、この男を憎め、と。だからあの時、あたしは生き長らえてしまった。あたしの存在自体が許されるべきではありませんでした。あたしがいなければ、義父も母も小田もみんなが平和に暮らしていたのかもしれません。あたしが係わる人の人生のすべてを狂わせてしまったのです。
もう帰るべき場所もないのに、気が付けば故郷に向かう船に乗っていました。だから途中で降りようと思います。あたしの帰る場所は、大好きな青い海しかありません。
ヒデ君、ごめんね。君と出会えてよかった。今まで誰も愛したことはなかったけれど、ヒデ君のことは本当に好きだった。君の人生まで狂わせる前にあたしはこうします。君はまだ若い。あたしのことはもう忘れてください。どうぞお元気で。さようなら。
宮崎ユキ
続く