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ある決意

「えっ?」とか「本当ですか?」とか、「ちょっと待って」とか、母の相当慌てふためいた声が途切れ途切れここまで届いていた。何だろう。随分騒がしい。僕は再び扉を閉めた。階下の様子が気になってはいたが、とにかく今は手紙に集中しようと思った。後少しだ。



 

 もう一つ、ヒデ君に告白しなければなりません。

 あの診察台の上で、「いっしょに逃げよう」と小田があたしに迫った後、彼のあたしに対する行為はさらに激しさを増し、あたしが拒むと執拗につけ回して暴力に及ぶようになりました。それはあの義父と同じで、悲しい小田の愛情表現だと言うことも知っていましたが、小田が真剣にあたしを愛し、求めれば求めるほど、あたしの心は醒めてゆくばかり。だって元々あたしは小田のことなど、いいえ、もっと言うなら、小田を含めた男など誰も愛せない女なのです。

 あたしはすっかり彼のことが嫌になりました。だから住んでいたマンションを引き払い、美芳館に引っ越したのです。一人でいることが本当に怖かったのです。それでも彼は執拗にあたしの後を追いかけ回しました。職場が同じだったことが致命的でした。

 仕事が終わるといつも小田はあたしを待っていました。昼間なら人目もありましたから逃げることもできましたが、特に準夜勤の時が最悪でした。あたしが着替えて出るのを通用口で待ち伏せしていて、無理やり車に乗せました。もちろん車の中であたしを犯すことが目的です。あたしはすでに小田とのセックスは苦痛でしかありませんでした。昔、義父に犯されている時に母の言った、「目ぇつぶっちょったらすぐ済むけん」と言う言葉が車の中で何度も聞こえていました。 

 ヒデ君がしつこく迫る小田を追い返してくれたあの夜ぐらいから、あたしの小田に対する思いは、無感情から憎しみに変わりつつあり、小田と義父が被って見えて仕方がありませんでした。

 それであきらめさせる意味も込めて、あたしの過去について「あたし、人を殺したの」って小田にすべて話しました。小田は大変驚いてはいましたが、それでもあきらめようとはしません。なんと怯むどころかその様子を想像してさらに興奮したようでした。

 その後、小田に忌まわしい過去を打ち明けたのは大きな誤りだと知りました。なぜなら復縁を迫る小田は、もしあたしが拒否したら、あたしの過去を公にすると脅迫したのです。せっかく郷を捨て、過去から逃れて、血の滲むような忍耐と努力の結果、ようやくあのどん底からここまで登って来たと言うのに、ここですべてを白日の下に晒されたら、あたしの人生はそれこそ台無しです。もう決して戻りたくなかった。

 今回のこの一連の騒動であたしと小田は多くの人を傷付けてしまいましたが、中でも最も傷ついたのは小田の奥さんとその子供さんたちでした。気の毒な奥さんは、それまで小田の悪行の数々をまったく知らないばかりか、純粋に小田のことを愛してやまなかった。あたしがおばさんに叱られてここを出て行くと言ったあの夜。あたしをここまで送って来た小田は、あの後、家で自分の帰りを待つ奥さんに、電話一本で別れを告げました。

「俺は看護師の宮崎ユキといっしょに街を出る。俺のことはもう忘れてくれ」たったそれだけ伝えてもう家には戻らなかった。

 翌日、奥さんが気も狂わんばかりの勢いで病院にあたしを訪ねて来たことは周知ですね。聞いたところによれば、あの後奥さんは心を病んで自殺未遂まで図ったそうです。これ以上ない幸せの絶頂から一気に奈落へと突き落とされたのですから。幸いにも一命は取り留めたらしいですが、もちろんその原因の半分を作ったのはあたしです。言い訳できません。このままでは小田の暴走が止まるはずもなく、この先いったいどれほど人を傷付けるかわかりません。終止符を打つのは、やはりあたしの役目なのだと思いました。

 そして奥さんが病院に来たその日の朝、あたしは小田と街を離れる約束をしていました。もっとも約束と言っても小田が一方的に決めたことで、あたしは同意などしていません。何があろうと小田とだけはどこへも行きたくありませんでしたから。

 けれど待ち合わせの駅までは行きました。ある決意を持って。

 そして小田が待っていると言った時刻に、物陰から小田の様子をずっと注意深く窺っていました。待ち合わせの時間から一時間が過ぎ、小田はとうとう待ちくたびれたのか、あきらめて駅の改札を抜けてホームへと階段を上がって行きました。そしてあたしもこっそりと小田の後を追いました。

 あいにくどこかで起きた架線事故の影響でダイヤは大幅に遅れていました。その為、列車は間引き運行がなされていました。平日の朝でただでさえ混雑しているのに、この事故の影響で、ホームは大勢の人で溢れていました。あまりの人の多さに、乗車位置すらもよくわかりませんでした。

 列車はすでにすし詰め状態で、ホーム後方に並んでいたのではおそらく乗れないでしょう。元来気の短い性格の小田は、人ごみを掻き分け一番線路際に立って電車を待っていました。

 二十分以上も遅れで快速列車が滑り込むように入ってきました。

 白線の内側にお下がり下さい、と何度も繰り返しアナウンスが叫んでいます。

 今しかない。あたしはそう覚悟を決めたのです。目の前に小田の背中がありました。一瞬のことです。力はほとんど必要なかった。

 ごった返していたホームの時が止まりました。すぐにたくさんの大きな悲鳴が起こり、ぱっと花が咲くように一瞬で半円状の空間が広がりました。あたしはその混乱の中、静かにその場を離れました。

 あたしの告白はここまでです。時間が来ました。


 ここで手紙は終わっていた。僕はまた顔を上げ、目と口をぎゅっと閉じ、鼻で大きく深呼吸した。肺に溜まった空気が鼻腔をゆっくりと抜けて行く。相変わらず古い扇風機が生暖かい風を送り続けていた。

                                        続く

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