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ごめん、ではなく、ありがとう?

「あ、ヒデ君、こんばんは。大変だったね、夕べ」

 僕は笑って見せる。

「あんた、顔色、悪いよ」

 母が間髪入れずに言う。

「ほんと、わたしも今そう思った」

「大丈夫です。咽が渇いた」

「お茶飲みな」

 そう言って母は冷蔵庫から麦茶を取り出して、グラスに注いだ。いつもながら何か用事をしながら煮出したのだろう。グラスの麦茶は煮詰まりすぎて黒に近い色をしている。でも我が家のいつもの麦茶だ。ほっとする。

「ありがとう母さん」

「手紙、全部読んだのかい?」

「いやまだ、もう少し」

「そうかい。読んだら教えておくれ」

「ヒデ君、もしよかったらわたしにも聞かせて」

 その問いに何も言わず、ただ手にしたグラスをじっと見つめる。

 そして一気に咽に流し込んだ。食道をよく冷えた麦茶がすーっと落ちて行く。よほど喉が渇いていたんだろう。

「もう晩ご飯だよ」

「いや、悪いけど、今は食べられないから、読み終わった後で食べるよ」

「そうかい。じゃあ置いておくから」

「うん。ごめん。山田さんもまた後で」

 心配顔の二人をその場に残して、僕は再び二階へ上がった。

 もう扉も閉めなかった。母が上がって来ることもないだろう。部屋の中には先ほどの熱気がまだ残っていた。僕は扇風機のスイッチを入れた。生温い風が淀んだ空気をかき混ぜるが、多少は涼しくなった。

   ▽

 あたし、あなたに嘘をついていました。ごめんなさい。

 義父のことです。十五才の時、体育の時間に倒れて、お腹に子供がいることがわかったとヒデ君に言いましたね。これは本当です。でも、そのことで性的虐待が発覚して義父は逮捕されたと言いましたが、これは嘘です。

 あれは七月。蒸し暑くて、蝉がずいぶんうるさかったのを覚えています。その日は義父も母も朝から出掛けていませんでした。

 午後三時ごろでした。あたしは学校から戻り、台所で水を飲んでいた。その時突然、背後から羽交い絞めにされました。持っていた水の入ったコップが床に落ちて割れました。

 義父でした。たぶんパチンコで負けてむしゃくしゃしていたのでしょう。声も掛けずにいきなり後ろから抱きついて来たのです。こんなことはもう日常化していましたが、誰にも話せませんし、頼りの母もあたしの味方にはなってくれない。煙草と男臭い汗の入り混じった体臭があたしの鼻を刺激しました。

 その時、腹の奥底からとてつもなく強いものが込み上げて来ました。それが怒りであると気付くのに時間は掛からなかった。あたしは背後から利き腕を取られていたので、咄嗟に左手を伸ばし、流し台の向こうにあったナイフスタンドからさっと一本抜き取り、握りしめた牛刀をそのまま力いっぱい自分の方に向けて突き立てました。刃先はあたしの左胸すぐ横をかすめ、背後にいた義父の左胸深く突き刺さりました。肉にすーっと入る刃の感触が今も手にはっきりと残っています。

「ユキぃ!」と、義父は大きな叫び声を上げてその場に崩れ去りました。あたしが振り返ると、義父は何もかも血まみれであたしの足首をぎゅっと掴んで「あ、あ、ありがとう……」と最期に言葉を発すると、もうピクリとも動かなくなりました。あたしは足首から硬く掴まれた義父の手を強引に引き剥がし、もう動かない義父の脇腹を蹴りました。何度も何度もです。

 あたしは床に広がる血溜りの中に立ち尽くしながら思いました。どうしてありがとう? おかしいでしょう? 

 その夜、あたしは生まれて初めて自慰をしました。深く指を差し込んでその奥に宿る腐った命を消そうとしましたができなかった。その後、病院でお腹の子供を堕し、義父の遺伝子はあたしの体から消し去りました。

 当時あたしはまだ十五才でしたし、咄嗟の行為であったこともありますが、何より日常的に受けていた義父の暴行に対するあたしの情状酌量が認められ、過剰防衛の罪に問われることはありませんでした。けれど、それから約八ヶ月、中学を卒業するまで、児童養護施設で保護されることになりました。そして義務教育卒業と共にあたしは親元を離れました。もう母の顔も見たくはなかった。逃げたかったのです。とにかくあの家から。


 ごめん、ではなく、ありがとう?

 意味がわからない。大きな罪を犯した後に自慰? 

 僕の手紙を持つ手が震えていた。怖かった。これが事実だとすれば、ユキさんの抱える闇はあまりにも大きすぎて僕には何もできない。まだ少し続きがある。この先まだ何かあると言うのか。

 その時、階下の管理人室で人の話し声が聞こえた。男の声だ。母が対応に当っている。

                                    続く

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