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少女から大人へ

 3

 

 大人の背丈より少し低い金木犀の生け垣が美芳館の敷地と道路を隔てている。その生け垣の内側、建物との間には五本の大きなソメイヨシノが植えられていた。

 ずらりと並ぶソメイヨシノは金木犀の生垣よりもずっと高い。これは美芳館が建てられた時、亡き父が奈良県の造園業者よりわざわざ取り寄せてここに植えたのだそうだ。

 それらはここに住む者ばかりでなく、近隣の住民や、通りを往来する人たちにもその目や鼻を楽しませている。美芳館の前まで来ると、その歩みを緩め、あるいは立ち止まり、じっと見上げたりして「ああ、今年も美芳館の桜は見事に咲きましたね」などと人々が口にする。すわ、春には桜、秋には金木犀と、美芳館はこの辺りのささやかな風物詩でもあった。

 その年の春も美芳館のシンボルである五本桜が見ごろを迎えていた。ハイカラな洋館と満開のソメイヨシノはまるで一枚の絵画のようにみごとにマッチしている。

 そして美芳館の春は新旧交代の賑やかな季節でもあった。看護学校を卒業して病院の正規の看護師寮に移る人や、あるいはまったく別のマンションなどに引っ越す人たちもいた。

 引っ越す理由はいろいろあった。まず美芳館は若い人にとって大変不自由であると言うこと。たとえば共同のピンク電話一つにしても、掛ける方も取り次ぐ方も緊急時以外は午後十時までと決まっていたし、もちろん門限も午後十一時と決まっていた。

 十一時になると母が玄関の扉にきっちり施錠をし、各階の非常灯以外の照明を落とした。仕事の都合で門限に間に合わない人は、勤務時間を母に申し出て合鍵を貸してもらうことができたが、そうでない人が十一時を回って中に入るには、母の恐ろしいカミナリを覚悟する以外に方法はなかった。

 訪問客は女性のみで、しかも泊まることは許されなかった。そのほか厳しい規則を上げればきりがないほどだったが、それはきっと国から出て来た娘さんたちを大切に預からなければならない母の強い責任感の表れだったのだろう。

 次に挙げられる理由として、洗濯場とトイレが共同だと言うことと、風呂がなかったこと。とりわけ看護師である彼女たちにとって「風呂がないことがつらい」とよく耳にした。

 準夜勤務で帰って来た看護師の女性たちは、その職業柄、汚いものにたくさん接して帰って来るわけだから、布団に入る前にはどうしても風呂に入るかシャワーを浴びたい。切実である。

 けれどもその時間、銭湯はもう閉まっているので入れない。気持ちが悪いこともあるのだろう。それで仕方なく前述のとおり、夏場には洗濯場で水浴びもするわけだ。それさえなければずっと長く住みたいと思う人も多かったと思う。

 そんな理由もあって、彼女たちは収入面で安定するようになると、もっと自由でいつでもシャワーの浴びられる、そして厳しい母の目を気にせずにのびのび暮らせる住処を求めて美芳館を後にした。

 そして彼女たちが美芳館を出て行く理由がもう一つあった。狭さや不便さではない。それは僕がもっと後になってから知ったことだがもう少し後で記述しようと思う。

 さて、ここを出て行く女性と入れ替わりで地方の学校を卒業した若い子たちもたくさんやって来ると書いたが、中には当時の僕と大して年の変わらない子も多くいた。

 パッと見たら本当に幼い。顔も。そしてその体つきも子供そのものだ。心許ない。こんな子が身寄りもない大都会にたった一人で大丈夫か? と同年代ながら心配になった。

 けれど心配には及ばない。九州のどこかわからない名も知らない村や、中には沖縄の小さな離島からやって来た子もいる。そんな子たちは、最初は方言がきつくて何を言っているのかさえわからない。だから何度も聞き返され、おどおどしながら話している。不安そのものだ。

 でも、そんな田舎の子も、都会で暮らすうちにどんどん変わって行く。半年も経てばすっかりここに馴染んで、美芳館の窓から見える桜が、春になると一斉に花開くように、少女たちも皆一様に、まるで別人のように大人びて行く。

 十五才の僕は、その変化を目の当たりにするたびにずいぶんと驚いた。でも母に言わせると、それが女性であるということらしい。外見の変わりようだけではなく、内面も女性として磨かれて行くのだと言う。

 どこの言葉だかわからない方言も、自信のない喋り方も、紅一つ引いていなかったその唇も、見様見まねで化粧を覚え、最初は男の下心も知らずに、ちやほやされて有頂天になり、甘い誘惑に騙されて、傷ついて、そうして一人前の女へと変わって行く。

 しかしそんな女性も様々。男を手の平で転がすことのできるまでに成長する女性、結局最後は堕ちて行く女性。まあ最も、当時、やはり少年だった僕にはそれがどれほどすごいことなのかまったくわかっていなかった。

 今ならわかる。多くの少女たちが大人になって行く時に彼女たちと同じ時間を過ごし、それを間近で垣間見ることの貴重さ。それはきっと僕自身の成長にも十分プラスになっていたと言うこと。

 そして本人が好むと好まざるに係わらず運命は動き出した。あれは僕が中学二年から三年に上がる春休み最後の日曜のことだ。 

 カランカラン。玄関のベルが鳴り、すぐに女性の声が聞こえた。

「こんにちは」

                

                                      続く


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